中国思想史講座

仏陀の教え
やすい ゆたか

一、1梵我一如

 

 中国仏教思想史に入る前に、仏陀の教えについて入門的な知識を整理しておきましょう。大学の倫理学や高校の倫理のテキスト用に作成したプリントを使って今日は説明します。

ドラビダ族が築いたと思われるインダス河流域の都市文明は,メソポタミア文明と同様に森林の伐採によって滅んだと言われています。その後にアーリア人によってバラモン僧を最高位にするヴァルナ(四種)制度(バラモン〔僧侶〕,クシャトリア〔武士〕,バイシャ〔庶民〕,スードラ〔奴隷〕)の農耕社会が形成されました。ダリット(ハリジャン)と呼ばれるヴァルナ外(アウトカースト)の賤民差別もあります。    

 バラモン教の聖典をヴェーダと呼び,その中で奥義書を『ウパニシャッド』と呼びます。ウパニシャッド哲学では宇宙の本体であるブラフマン(梵)と個物あるいは個人の実体であるアートマン(我)が本来一つであるという「梵我一如」の教義が中心でした。これはバラモンが農耕祭儀を行う際,自然に対して呪術的に働き掛ける力がある事を論理化したもので,言わばオカルトの論理でした。

 アートマンはドイツ語のアートメン(息をする)の語源にあたり,元々「気息」の意味です。ですからギリシア語で魂=命を意味するプシュケーとアートマンは元々同じ意味なのです。これがコスモス全体のアルケー(根源物質)と考えられていたのですから,ギリシアとインドは大変思想的に親近性があると言えます。それもその筈,同じアーリア人種が東に移動してインド人に,西に進んでギリシア人になったということです。  

 両者の宗教思想的共通性としては、サンサーラ(輪廻転生)思想があげられます。インドにおけるサンサーラは現世の業(カルマ)が原因となって,次にどの境涯に生まれ変わるか決まるのです。ですから現世で善因を積めば,来世でより良い境涯に成れるわけです。後に仏教の中で発達したサンサーラの六道輪廻説によれば,天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの境涯(六道)を無限に生まれ変わることになります。 

 天は森羅万象を司るさまざまな神々の境涯です。神々も寿命は長いものの輪廻転生を免れないのです。修羅は怒りにとりつかれて,怒りから離れられない境涯です。畜生は理性を失ってしまって浅ましい境涯です。餓鬼は飢餓感に苛まれ続けている境涯です。地獄は鬼に責め苛まれている境涯です。               

 六道に輪廻するということを,死んだらお終いじゃないからいいと肯定的に捉えているのではないのです。むしろ大変辛い苦しいこととして輪廻転生をペシミスティック(厭世的)に捉えています。また別の境涯に生まれて苦しみの生に耐えなければならないのはこりごりだというわけです。                  

 この輪廻転生する此岸から輪廻転生することのない彼岸へ,再び生まれない世界に到達することを願って修行するのです。エレア学派やプラトンのイデア論と並べてみましょう。

インド思想                       

此岸

 

彼岸 

輪廻の世界
諸行無常

ニルバーナ(涅槃)

 

 

 

エレア学派               

現実

 

当為

有らぬものが有る感覚の世界
多様・変化・運動の現れる臆断の世界 

 

有るものは一者のみ

 

 

 

 プラトンのイデア論 

現実 

 

真実在

生成消滅する物体の世界

    影 

感覚+理性

 

  イデアの世界

      

     理性

 

 

 

 

、四門出遊

 

 やがて小国家が覇権を競うようになりますとカーストの権威も揺らぎ,バラモン以外にも悟りを求めて修行する沙門が活躍します。その中から「六師外道」と呼ばれた自由思想家達が輩出しました。釈迦族の王子であったゴータマ・シッダールタは四門出遊を体験し,出家しました。東の門からの外出で老人に出会い老苦の存在を知りました。次の南門からの外出では病人に出会い病苦の存在を知りました。三度目の西門からの外出では死人に出会い死を深刻に見つめるようになったのです。そして最後の北門からの外出で出家僧に出会い,生死を越えたニルバーナ(涅槃)に至る修行をしていると聞き,出家の望みが抑えられなくなったのです。

 彼は十代で結婚して子供を設けていますが,それはいつ死ぬか分からないという不安から,せめて子供を遺しておこうとしたからだと言われています。彼は一切の苦しみの原因を突き止め,それを克服するために妻子を捨て,城を捨てて出家してしまったのです。

三、初転法輪

 

 解脱して「目覚めた人」つまり仏陀になってから初めて説いた教えを「初転法輪」と呼び,その中に「中道・四諦・八正道」の教えが含まれます。中道とは,解脱の為の修行においては,極端な修行法は退けるということです。魂に取りついた物体的なものを苦行によって振り払うべきだとしたジャイナ教の苦行主義や,死ねば魂も断滅するので生きているうちに快楽を徹底して求めるべきだとした古代唯物論の快楽主義の両極端を退け,静かに木陰で瞑想することで精神統一を図る修行法が中道です。

 四諦(したい)とは苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つの真理です。仏陀は先ず人生が四苦八苦に満ちているという一切皆苦の自覚から出発します。四苦とは生まれる苦しみ,老いる苦しみ,病める苦しみ,死の苦しみつまり生老病死を意味します。それらに怨憎会苦(厭な人に会う苦しみ),愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ),求不得苦(求めても得られない苦しみ),五蘊盛苦(心身から生じる苦しみ)を加えて,人生は苦しみに満ちているとしたのです。何か自分だけが苦しんでいると考え,世間に対して僻んでいる人がいますが,人には人それぞれの不幸があって,それぞれの苦悩を生きていると覚れば,少しは楽になり,妬みや僻みがとれて素直に生きられるのです。

 この苦の生じる原因を,仏陀は渇愛にあると説きました。この真理が集諦です。人はいたるところで対象に渇愛します。快楽を求め,個体の存続を求め,権勢や繁栄を追い求める渇愛に囚われているのです。この渇愛を放棄し,そこから離れることができれば当然,渇愛が原因になっている全ての苦から脱却できるのです。これが苦の止滅の真理である滅諦です。ではどうすれば渇愛から離れ,苦を止滅できるのでしょうか。その修行法が八正道だという真理が道諦です。

 八正道は正見(正しく見る),正思(正しく思考する),正語(正しい言葉で語る),正業(正しい行為をする),正命(正しい暮らしをする),正精進(正しい努力をする),正念(正しい心配りをする),正定(瞑想によって心を正しく統一する)の八項目から成り立っています。つまり仏陀が説かれた教えを常に念頭におきながら,常に法を求め,法に従って生きることが解脱への道なのです。

 でも人間生きている以上,欲望を充足しなければ生きられませんし,渇愛を離れることは不可能な筈です。仏陀は自殺を勧めているのでしょうか。もちろんそうではありません。我々は生きている以上,欲求を充足させ,自己の生存を保って生きていくべきです。でもその事に囚われて,自分の生命,自分の欲求,自分の家族,自分の友人,自分の恋人,自分の財産,自分の地位や名誉,自分の仕事,自分の自分の為に生きていたら,それらを失ったり,うまくいかないことから様々な煩悩に苦しむことになります。

 

縁起の思想

 

  では一体この執着している自分=我(アートマン)とは何でしょう。五十年前の自分も存在して居なければ,五十年後の自分も存在していないのです。悠久の時の流れのほんの刹那の出来事に他ならないというのが個体的存在の実相です。「自分の〜」にこだわる事,つまり我執は,個体的存在をあたかも永遠不滅の実体のごとく捉える迷蒙だと仏陀は覚ったのです。

 仏陀によれば,実体的にそれ自体で存立しているものは一切無いのです。一切の現れは縁起によるもので五蘊の仮和合に過ぎないのです。この五蘊とはすべての現象は色蘊(物体的エレメント)・受蘊(感覚的エレメント)・想蘊(表象=イメージ的エレメント)・行蘊(実践的エレメント)・識蘊(認識的=イデア的エレメント)の五つのエレメントから成り立っているというです。これらは五つのスポットライトのようなもので,一つでも焦点が合わなければ像を結ぶことはできないのです。五蘊の焦点が合っている刹那だけ森羅万象が存在しているかに見えますが,それは仮和合に過ぎません,実体的には全ては空なのです。ですから縁に触れて生じた物は,その縁によって滅するのです。

 この縁起の思想は,個体や事物をそれ自体としては空で,相互依存的関係的存在として相対的にのみ捉える事的世界観の典型です。

 

五、四法印

 

  「我」はそれ自体としては存在しないのですから,我という現象を引き起こしている諸行無常のダルマ(法)こそが真の実在であり,そこに我々はアイデンティティを求めるべきなのです。つまり物も自我も法の現れとして捉えるべきだというのです。「諸法無我」の「法」は「物」を意味し,「我」は「実体」を意味しますから,この言葉は「全ての物には実体がない」という真理を説いているのです。このように「全ての物には実体がない」からこそもろもろの事象は止まることなく流転し,消滅するのです。これが「諸行無常」の法なのです。

 自己をことさら法と区別し,自己に固執することがいかに無明(法に対する無知)によるかが分かります。自己も森羅万象も包つみこんだ法の立場に立つことによって,生きとし生けるものとの一体感である慈悲の境地に到達できるのです。そしてこの自己の生死を離れた心穏やかな境涯が、欲望が吹き消された状態つまりニルバーナ(涅槃)なのです。この仏陀の思想を凝縮的に表現したのが「四法印」です。それは「一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」です。

サンサーラ

 

   仏教に関して一番よく受ける質問が,仏教は「輪廻転生(サンサーラ)」を認めるのかどうかです。サンサーラは,先に触れましたように,アーリア人の古くからの信仰で,アートマン(プシュケー)の不滅思想と結びついています。肉体は滅んでも,その生命自体(アートマン)は肉体を離れて,再び母の胎内に戻り,生まれ変わってくるという信仰です。これと勧善懲悪思想が結びついて,生前の業が原因となって,どの胎内に宿るかが決定するというのです。バラモンや沙門等の修行者達は,このサンサーラの無限の鎖を断ち切り,生死を離れた,輪廻の河の彼岸であるニルバーナ(涅槃)に至り,再び胎内に入らないことを願っていたのです。

 でも魂をアートマンとして実体的に捉えている限り,サンサーラは原理的に不可避です。無我の真理を覚って始めて,サンサーラを超越した境地に到達できます。しかし大乗仏教の経典には例えば『法華経』では「久遠の本仏」は何度も転生しますし,『浄土経』にしても死後涅槃に転生するということですからサンサーラを前提にしているようです。

 仏教は一つの思想で括ることはとても不可能で,実はゴータマ・シッダールタの悟りの内容も,復元は困難です。原始仏典と呼ばれているものにもバラモン教の傾向が強く残存していて,ブラフマン(梵天)は活躍します。またゴータマ・ブッダは前世のことを憶えていて、多くの前世譚が伝えられています。ですから,サンサーラの思想を脱却していたと断定するのは困難です。ただし思想史的には「四法印」に基づいて,無我の真理にたって,サンサーラの俗信を超克した事に意義が認められます。

 ただしゴータマ自身はダルマとの一体化を自覚したのですから,森羅万象,過去・現在・未来のすべての生きとし生けるものの境涯を自己の内に包摂していると言えます。その意味でなら我々も含めて仏陀の生まれ変わりと言うことになります。ですからダルマを真の我(アートマン)=大我(マハートマン)と悟った仏陀にとっては,サンサーラも広い意味では成り立つのです。つまりマハートマンである仏陀はニルバーナにありながら,衆生と共に生死を繰り返されるのです。

七、捨置記

 

   輪廻の主体である実体としてのアートマンがあるか,それともないか,同じ事ですが,死後の魂は断滅するのかしないのかは形而上学的な議論ですから,議論は平行線で果てがありません。世界が有限かそれとも無限かという議論と同じことで,仏陀にとってはそうした議論は解脱にとっては意味がないと退けたのです。これは懐疑論や唯物論の魂の断滅論とも異なる立場です。確かに議論によって明らかにしたり,言葉で表現できないとしても,修行を通してダルマとの一体化を体得することで,不滅のマハートマンを見出したのですから。このように形而上学的な議論を避け,そうした議論にはどちらとも答えない態度を仏陀の捨置記と言います。

六波羅蜜

 

  仏陀は実は普通名詞です。輪廻を脱却して涅槃の境地に入った人は全て仏陀なのです。そして法を覚ったと自覚した人は,その内容をお経にしますが,その際,自分がゴータマに成ったように思い込んで,釈迦牟尼の伝記に事寄せて書くものですから,そこに出てくる弟子の名前も同じで,後世の人が読むと,困ったことに全部同一人物の著作に思えるんです。たとえば『法華経』には『法華経』こそが最高の教えで,それ以前の教えは方便だと仏陀が教えていますが,本当は釈迦牟尼がそう言ったのではないんです。

 仏陀の入滅後,教団は上座部と大衆部に分裂します。そして様々な部派仏教が成立しました。それらは厳しい戒律によって自己一身の悟りを求め,個人的に解脱して「阿羅漢」に成ろうとするものだったので小乗仏教と呼ばれたのです。これに対して,縁起の思想に基づいて我執を捨て,衆生との一体感を得た宏大無辺な仏陀の慈悲を強調し,衆生済度(生きとし生けるものの救済)を目指す大乗仏教が起こりました。

 大乗仏教では,一切衆生悉有仏性(一切の生きとし生けるものは悉く仏であるという本性を有している)の観点に立ちます。衆生済度の為に成仏せんとする「菩薩」としての誓願と自覚を持って「六波羅蜜」の修行をすれば,誰でも仏陀に成れるとしたのです。

「六波羅蜜」の修行とは

・布施(法や供物を与えること),
・持戒(戒律を守ること),
・忍辱(迫害や困苦を耐え忍ぶこと) ,
・精進(修行に励むこと),
・禅定(精神を統一して安定させること),
・智恵(迷いを離れて,存在の実相を覚ること)

の六項目です。


 

九、一切皆空

 

  大乗仏教を哲学思想面で深めたのがナーガールジュナ(龍樹一五〇〜二五〇年頃) です。日本ではお経と言えばどの宗派も「色即是空,空即是色」で有名な『般若心経』を唱えますが,これは『般若経』のエッセンスです。ナーガールジュナは『中論』『十二門論』等を著し,『般若経』の空の思想を理論的に基礎づけ,「中観派」を形成しました。

 「色受想行識」の五蘊をエレメント(要素)にしてその仮和合で我が成り立っているだけで,我そのものは自性(じしょう、実体性)がないという無我の真理が,四諦や四法印で説かれていたのですが,部派仏教では我はたしかに自性がないが,五蘊の方は自性があると主張していたのです。  

 しかし物質的エレメントである「色」もそれ自体で存在するのではなく,他のエレメントとの関連性においてのみ現れるのですから,やはり自性のない「空」だということです。だだし言語によって「色」を様々な事物として固定して捉えるので,事物が自性を帯びます。それと同様に「色受想行識」という言葉で五蘊を区別しますと,言葉で論じる限り,この区別が自性を帯びてしまうのだと言います。これは他の四蘊にも言えますから,そこで瞑想などで自他の境界や言葉による境界を喪失させることによって,「一切皆空,空即一切」を悟ることが大切です。これを悟ることで「苦」の原因がすべて消滅し,なにものにも囚われない,執着の一切無い涅槃の境地に到るのです。ところで般若とはそのような煩悩を超える智恵という意味です。

唯識論 

 

 一切皆空であるのに,そこに自性を認めようとするのは,事物を意識と区別して,その上で〜という事物に関する意識として意識を捉えているからです。この事物と意識の区別を否定して,「三界は虚妄にしてただ一心の作るところ」という『華厳経』の一節に基づき, 全てを意識の様相変化として捉えれば,事物や自我を実体視する観方は根本的に乗り越えられます。それでアサンガとヴァスバンドゥ(世親と天親四〇〇年〜四八〇年頃) は唯識論を唱えたのです。

 唯識論では次のように考えます。通常の認識では目・耳・鼻・舌・身の五官からの五識を「意識」が統合しています。意識の底には末那識(マナ識)という深層の自我意識があります。これらの意識はすべて阿羅耶識(アラヤ識)から産み出されたものです。マナ識はアラヤ識から出て,アラヤ識に基づいて活動しているので,アラヤ識を「我」と誤認し,「我」をアラヤ識に固定し,実体化して不滅と考え,執着してしまいます。

 我を持つ事によって意識内容は対象的に客観的な事物として実体化されますが,実は五官からの意識もアラヤ識から行動を媒介にして生じているのです。何故なら無限の過去からの意識体験の蓄積された蔵であるアラヤ識がなければ,意識内容はカオス(混沌)となって,理解できないでしょうから。行動によってアラヤ識から生じて,転成した意識が五官の意識であるからこそ,それが理解できるのです。

 このように意識の生成の構造を検討しますと,主観・客観に分裂し,対象的で実体的な事物の構成として世界を捉えてしまう構造は,アラヤ識の意識と無意識への分裂にまで根を持っていて,ただ知的な認識だけでは到底克服できません。そこでヨーガの修行を通して心身の境界,意識・無意識の境界を解き放つことによって行うしかないのです。それで唯識論とヨーガは表裏一体です。

 ともかく世界を人間の意識に還元しつくして展開するところに,仏教的観念論の極致とヒューマニズムの貫徹の試みが窺えます。また現代の精神分析学の深層意識の分析や,フッサールなどの意識の現象学と比較してみるのもおもしろそうですね。 

十一釈迦観の変遷 

 

  ゴータマ・ブッダは「人に依らず,法に依って生きるように」言い遺しました。「自灯明,法灯明」(漢訳による。原語では「自分を島にし,法を島にせよ」)という遺言は有名です。人間は有始有終の存在です。生じたものは滅しないことはないのです。ですから釈迦を超人的な存在として神格化して崇拝されることは釈尊自身の本意ではなかったのです。ところが宗教というものは,教祖の唱えた教理よりも,教祖自体の霊力に対する信仰に傾きがちです。キリスト教でもイエス・キリストの生き方に倣って,自ら復活のキリストとして愛に生きるのがキリスト者の本来の姿の筈なのに,むしろイエスの贖罪の十字架が人類を救済する程の力があった事を信仰することに力点が置かれます。結局イエスは神だったことを認めるかどうかが最大の問題になってしまったのです。

 仏教も始めは仏陀の教えに倣って解脱の修行を行う教団でした。ところが次第に深遠な法を説かれた仏陀の霊力が神格化され,その力に依って救済されようとする信仰に変質していったのです。特に熱心な在家の信者に支えられていた大衆部では,釈尊の本体である法身は永遠の生命を持って兜率天に住んでおられると捉えました。ゴータマは衆生を救う為に仮に地上に現れた応化身(おうげしん)だったとしたのです。

 大乗仏教では,仏陀の「法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん)」の三身観が唱えられました。物質的なものから,時空から超越した絶対身,法それ自体の仏格化が「法身」です。四世紀に纏められたとされている『華厳経』では毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)が法身です。華厳宗では釈迦は仏陀となってこの毘廬遮那仏との一如(ひとつであること)を悟ったので,釈迦は毘廬遮那仏そのものだとします。この考えでいきますと我々凡夫を本来毘廬遮那仏なのですが,それを悟ることができないだけだということです。こうして「一即一切,一切即一」の華厳哲学が生じます。これは古代ギリシアのエレア学派の「ヘン・カイ・パン(一にして全)」と同じです。

 七世紀に成立したとされる『大日経』に基づいて真言密教の大成者空海は,法身仏を大日如来(=毘廬遮那仏)としこれを無始無終のダルマそのものとします。報身仏は,修行の報いとして永遠性を獲得した有始無終の仏で,阿弥陀如来や薬師如来が報身仏なのです。では応身仏は何かと言いますと,法身仏が化身として地上に出現した仏です。これは人間の身体を持っていますから有始有終の仏です。釈迦は応身仏です。密教は法身仏としての大日如来が説かれた教えで,顕教は応身仏としての釈迦が説かれた教えだということです。また浄土真宗の親鸞は釈迦は阿弥陀仏の変化身(へんげしん)と解釈しています。

 人間ゴータマから法身仏と合一した釈迦如来へ,神ならぬ人間だからこそ,修行と思索を通して真理に到達し,宇宙の摂理それ自体を自己として捉え返すことができるのです。またたとえ凡夫のわれわれでも,宇宙の摂理の現れである限り,真理はたとえ悟れなくてもそれ自体としては,真理はわれわれ自身です。その意味で「一切衆生悉有仏性」と言えるのです。ヒューマニズムの貫徹によって全ての生命との有機的な統一を見出します。