中国思想史講座

                                   中国仏教思想
 

2. 仏教伝来
やすい ゆたか
一、古訳時代―漢〜三国

 

 
 田中愛子の『中国仏教史』のサイトによりますと、「『魏略』西戎伝には、前漢の哀帝の元寿元年(紀元前2年)に景廬という人物が大月氏の使者・伊存から仏教の経典を口授された、とある。また、笵曄の『後漢書』には、後漢の明帝(位:紀元五七〜七五年)の異母弟・楚王英が任地・彭城で仏教を信奉していたと記されている」ようです。

 初期の仏教は外来の老荘思想のような扱いですので、仏陀(Buddha)も老子とならんで神格化されて祀られていたです。「楚王は黄老(黄帝と老子)の微言を誦し、浮屠(Buddhaの音訳)の仁祠を崇び、潔斎すること三ヶ月、神と誓を為す」(『後漢書』)と紹介されています。

  「洛陽の白馬寺は、市内から十二キロ東部にある。中国の仏教の発祥の地なのである。歴史は遡り、後漢の時代、インドから摂摩騰、竺法蘭という高僧が白馬に経典と仏画を持って洛陽に入り、朝廷に迎えられた。紀元六八年に白馬寺は、皇帝・明帝が彼らのために建立したものでのちに、白馬寺と呼ばれるようになった。(後漢書・西域伝)」その時に『四十二章経』が漢訳されました。最古の漢訳経典ですね。これは西域からやってきた僧の話を中国人の崇仏者が箇条書にしたものではないかとも言われています。

釈尊は、娑婆を捨てた弟子たちへ、修行の先に待つものが何であるかを説かれました。釈尊から弟子たちへ与えられた約束とも言うべきものです。
 戒律を守り、「」の真理に基づいて実践し、志をもって清浄に行ずれば、阿羅漢の位へ登られます。
 阿羅漢は「飛行変化(ヒギョウヘンゲ)し、寿命に住(トドマ)り、天地を動かす」ことができます。」

 このように道教の神仙思想に引きつけて捉えられていることがわかりますね。もっとも極端な表現ということでは、インドの経典は神仙思想の比ではないぐらい凄いですが。ともかく仏教伝来の初期には、神仙思想や老荘思想の用語で仏教の経典の漢訳をしていたところがあります。仏教の教えの基本は「虚無」であるとされました。つまり仏教の「空」の思想は、老荘思想の「無」の思想と相通ずるものだとされたのです。当時江南の貴族たちの間では清談や玄学が流行していましたので、江南貴族たちと話が合った南遷僧たちは、仏教と並んで老荘哲学をも似たようなものとして講じたのです。このように、老荘思想を用いて教理を解釈・理解してゆく仏教を格義仏教といいます。

 皇帝で仏教導入に積極的だったのが「後漢の桓帝(在位一四七〜一六七年)である。桓帝は、黄帝、老子および浮屠を祀り、豪華な儀式を行っている」のです。この皇帝の時代にパルティアの太子だったことのある安世高が洛陽に来て、部派仏教の経典を翻訳しました。、『四諦経』『転法輪経』『八正道経』『安般守意経』など三四部四〇巻にもおよびます。

 後漢の一四七(建和)洛陽に来て、初めて大乗経典を漢訳したことで知られているのが

月氏出身の支婁迦讖(しるかせん)です。とくに『道行般若経』等は知識人に評判になったようです。
 漢人で出家第一号は厳仏調だといわれています。彼によって一八八年に『古維摩詰経』(現存せず)が漢訳されたという記録があります。

また牟子が、後漢の末に『理惑論』を著し、儒教と道教と仏教は調和できることを強調しました。特に無為の思想に道教と仏教の接点を求めています。ただし道教の神仙思想には反対しています。「序伝」に「牟子既に経伝諸子を修め、書は大小と無く、之を好まざる靡し。兵法は楽しまずと雖も、然も猶ほ焉を読む。神仙不死の書を読むと雖も、抑へて信ぜず、以て虚誕と為す」とある通りです。

竺法護の生没年は不明です。西晋の武帝の二六五年(泰始一)より四〇年間あまり、ひたすら訳経に従事したそうです。月氏人の末裔で、敦煌に生まれたので、世に敦煌菩薩・月支()菩薩と尊称されています。彼は当時の中国に大乗経典が弘布していないのを嘆き、西域の諸地方を遊歴して多くのサンスクリット語の経本を入手しました。彼の手になるものは、『光讃般若経(二万五千頌般若)』『正法華経』(二八六年)『無量清浄平等覚経』など、一五四部三〇九巻にものぼりました。古訳時代の訳経家としての第一人者であったのです。

三世紀中期に、魏の都洛陽に曇柯迦羅が来朝しました。彼は、渡来僧が仏教を弘布するのでは限界があると考えまして、漢人のために出家修道の儀礼を整えたのです。漢人で最初に出家受戒したのが、朱士行です。

朱士行は『道行般若経』を講経したのですが、どうにも意味が通じない箇所があるわけですね。これはどうも翻訳が間違っているのではないかと思いまして、原本にあたって調べようと決意したのです。それで西域への求法の旅に出ることになったのです。三世紀の三蔵法師みたいなものですね。

二六〇年、雍州を出立し、于闐(ホータン市)にまで到達しました。そこで、念願の『二万五千頌般若経』の原典を手に入れたのです。弟子の弗如檀に命じて中国に将来させました。

本人は于闐で亡くなったそうです。

 

二、旧訳時代―南北朝――仏図澄・道安


 


 西域からの渡来僧の中には、訳経を行わないで法力を示して信徒を集めようとする僧侶もいました。かれらは神異僧とよばれました。亀茲(クチャ)の人、仏図澄(ぶっとちょう)(?―三四八)はその代表格です。永嘉四年(三一〇)にはるか西域から洛陽へやって来ました。「不思議な呪文を唱え、鬼神を使役することができた」といいますから役行者みたいなものですね。さらに次のようにも言われています。「その脇腹には孔(あな)があいており、普段は綿をつめてふさいでいた。夜、読書する時に綿を抜き取ると、孔から光が出て部屋中を照らした。夜が明けると河へ行き、この孔から五臓六腑を引き出して洗う。洗い終わると、腹に納めるのであった。」(六朝『捜神後記』)

当時は五胡十六国の戦乱の時代です。群盗から成り上がったような胡族の王たちは神異霊顕の仏僧の法力に頼ろうとする者もいたのです。後趙の王石勒、石虎は仏図澄を軍政に参加させていたのです。軍師として大いに頼っていたようですね。

とはいえ、怪しげな法力だけでは深く帰依されることはありませんね。仏図澄も持律堅固な生活態度を示し、石勒や、石虎のような暴君と恐れられる君主に対しても、五戒を守るよう厳しく諫めたと言われています。それで石勒より「大和尚」の称号を与えられ、尊敬されていたわけです。

そのお陰で、仏図澄は仏寺を八九三も建立し、彼の門徒は一万を数えたと言われます。そして彼が養成した僧たちが中国仏教界を背負うようになるのです。

仏図澄の弟子だった釈道安は、仏教の教義は仏教経典によってのみ理解すべきであると主張しました。つまり、儒教や老荘思想の言葉で仏教経典を解釈しようとする格義仏教を批判したのです。とはいいましても道安自身の仏教理解にもやはり、老荘的性格は見られます。これは元々、仏教と老荘思想が近いからかもしれませんが、「空、涅槃、縁起」などの仏教の言葉や観念は中国にはなかったもので、これを漢人が理解するには、どうしても中国化は避けられないようですね。

道安は釈氏を名乗ったのですが、それは仏教徒はあくまでも第一義的には釈尊の弟子であるという自覚からでした。自分の師匠の姓ですと仏道安となったところです。仏陀だから同じではありませんよ、仏陀というのは「目覚めた人」という意味の普通名詞です。

道安の業績として特筆されているのが『綜理衆経目録』の作成です。漢訳された経典の目録を作成して、何時、誰が訳したか、訳経の序、注釈などを体系的に整理したものです。当時は原典がはっきりしない偽経も出回っていたわけです。

道安は、仏教の戒律を明確にし、教団での修行方法や規律を定めたりして、中国仏教の礎を築いたとされています。

道安自身は経典の漢訳はしていないのですが、訳経僧を組織して訳業を行わせる際に次の「五失本、三不易」という原則を示したのです。これは異文化理解や翻訳にあたって、現代人も大いに参考になるので、次のサイトから紹介しておきましょう。

http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/kairitsu/word.htm
 

五失本

1.原典を漢語に翻訳すると語順が逆になること。

2.原典ではその内容をこそ重視した文体であるが、漢文に翻訳するのには、(漢文の性質上)修辞する必要があること。

3.原典ではまったく同じ内容を何度も何度も繰り返すが、漢訳時には繰り返しを省くこと。

4.原典に冗長な語句があった場合、その要とする点を把握して翻訳するのであれば、冗長な語句は削除してもよいこと。

5.原典では、ある主題から他の主題に移るとき、先の主題について再度繰り返し説いてから移る形式を採っているが、繰り返さなくてもよいこと。 

三不易

1.凡夫(ぼんぷ)が原典にある伝統的な表現を現代風に勝手に改変しないこと。(*凡夫とは「真理に通じぬ愚か者」。愚か者、といっても無知であるというの異なる。僧侶であっても相当に高い境地に到らなければ凡夫であるから、「一般的人」と捉えて差し支えない。)

2.仏陀と(自分たち)凡夫とでは(その智が)全く異なるのであるから、仏陀の微妙深遠なる教説を、自分たちの都合や程度の低い理解に合わせないこと。

3.仏陀が亡くなってすぐに500人の阿羅漢達によって開かれた仏典編纂の大会議「第一結集」の折り、仏弟子達は自身達が記憶していた仏陀の教えを、聞き違え憶え違いしていないかの検討をしたのである。現在の者ならば余計に仏説を勝手に取捨選択しないこと。」

 

 

三、旧訳時代―鳩摩羅什

 

          

 鳩摩羅什(くまらじゅう三五〇〜四〇九年)の父鳩摩羅炎は、グプタ王朝の宰相の家柄でしたが、グプタ王朝はヒンドゥー教を重んじましたので、宰相の地位を捨て仏法に身を捧げようと旅にでました。

 鳩摩羅炎は亀茲(きじクチャ)国で国師として迎えられ、白純王の妹耆婆(ぎば)を妻としました。二人の間に生まれた長男が鳩摩羅什です。

 鳩摩羅什の母耆婆は大変信仰心が篤くて、それまでたくさんあった縁談を断っていたのですが、鳩摩羅炎の仏教を弘布するために身を捧げたいという志に痺れまして、結婚したわけです。もちろん鳩摩羅炎は僧籍にありましたから、結婚はできないところですが、還俗して結婚したわけです。それじゃあ仏教を弘めようという志はどうなったんだと思われるでしょうが、どうも当時は中国は乱世でして布教どころではないし、亀茲国で国師としてお役に立つのも仏教弘布の一環だということで、還俗して結婚したわけです。

 ところが耆婆は鳩摩羅什を産んでから、しきりに出家したがるのです。羅什を立派な僧にしたいからというのですが、尼寺に入ってしまえば育児もできないので夫は大反対です。それで延期になって、弟が生まれたのですが、半年後で亡くなったのです。それで今度こそ出家できなければ死にますということで、羅什が五歳の時に命がけで六日間一切水も飲まない断食を決行して、出家の許可を得たということです。

 このあたりの事情を田丸ようすけの劇画『鳩摩羅什』(BBコミックス)では、父も母も非常に情熱的な仏教流布のために生きた人物として描いていますので、なんの矛盾も感じないのですが、梅原猛の『仏教の思想上』では、どうせ鳩摩羅炎は浮気者だったので、耆婆は結婚生活が耐えられなかったのだろうと解釈しています。「不邪淫戒」というのがありまして、僧はもちろんセックスは一切だめですが、たとえ僧籍がなくても配偶者以外とセックスはいけませんね。

 七歳になって亀茲国では貴族の子弟は出家して寺院で教育を受け、仏道修行をすることになっていました。什は神童と云われるほど物知りになっていまして、本格的に勉強させるにはインドに留学させようということになり、教育ママが付き添ってカラコルム山脈のふもとカシミールの罽賓国(けいひん)に旅立ちました。当時父の出身地であるグプタ王国では、仏教は厳しく弾圧されていたのです。罽賓国で三年間、槃頭達多(ばんずだった)という部派仏教の名僧につきむ上座仏教を極めたのです。三年目で外道とのディペート対決で見事論破して、名をとどろかせたと言います。

亀茲国への帰路、パミール山中で羅漢に出会いました。「いつもこの子を守ってあげなさい。もし、三十五歳までに破戒しなかったならば、正に大いに仏法を起こし、無数の人々を度する優婆堀多(うばくった)となる。もしまっとうせねば、ただ単にああ、賢いお坊さんだなで終わる」と予言されたのです。

 三六九年、カシュガルで須利耶蘇摩(すりやそま)と出会って大乗に転向しました。主にナーガールジュナ(竜樹)の中観派の論書を研究したようです。「我昔、小乗を学ぶこと、人、金を知らずして純銅をもって妙とするが如し」と回顧していますが、思想的には大転換だったわけです。それは十九歳の時でした。ただし田丸さんの劇画ではさきほどの罽賓国からの帰路疏勒国に立ち寄った際に須利耶蘇摩師に大乗の教えを授かったことになっています。

 二十歳で亀茲国で受戒して正式に僧になりました。母は息子を自立させるためか、インドに渡ります。その時に「東方に仏教を伝えるのはあなた以外にいないけれど、それはあなたの利益にはなりません、どうしますかと」と訊ねられて「たとえいろり鍋で焚かれるような苦しみに遭おうとも悔いはない」と応えました。でもすぐには東方には旅立ちません。 

 長安を都にしていた前秦国の符堅王は、釈道安に薦められて、何度も羅什三蔵を招く使者を送ってきましたが、亀茲国の白純王は手離そうとしません。そこで痺れを切らして、西暦三八三年前秦国は呂光(りょこう)を将軍にして十万の兵を派遣したのです。

亀茲国を征服した呂光は、羅什を無理矢理酒を飲ませた上で、美しい王女と二人だけにして戒を犯させようとしました。でもなかなか手を出さないわけです。それで後三日以内に手を出さなかったら王女を殺すと脅迫して仕方なく破戒させられたということです。これも劇画では王女は羅什が潔白だったということを証明する為に投身自殺したとなっています。羅什三十五歳でした。

 呂光は羅什を連れて帰還しようとしますが、前秦国ではクーデターが起こっていて、符堅王は殺され、姚萇(ようちょう)が後秦国を立てました。そのため呂光は姑臧(こぞう、現在の武威市)を都にして後涼国を建国したのです。太祖懿武帝(呂光)は三九九年に亡くなり、その後に後秦の高祖(姚興)に侵攻されて羅什は西暦四〇一年の年末にやっと長安にたどりついたのです。

しかしこの十六年間は無駄ではなかったのです。その間国師として呂光を補佐してきたわけですが、僧肇(そうじょう)が姑臧に来て、羅什の漢訳を手伝いました。また中国の古典を学ぶこともできましたし、なにより日常の漢語に習熟し、中国人の生活習慣、考え方が分りましたから、どのように訳したら正しく文意が伝わるかが分ったということです。
 羅中は長安で四〇一年から四〇九年に死ぬまで、三〇〇点にのぼる訳業を成し遂げました。

主なものでは次の通りです。
 『坐禅三昧経』三巻

『仏説阿弥陀経』一巻

『摩訶般若波羅蜜経』二七巻(三〇巻)

『妙法蓮華経』八巻

『維摩経』三巻

『十地経』

『大智度論』百巻

『中論』四巻

『十住毘婆沙論』

 羅什は原典を持ち、国王がこれまでの漢訳のお経をもち、当時の名僧八百余人を集めて行われたと言います。つまり公開でこれまでの訳本が原典の意味とどのようにずれているかを丁寧に分りやすく説明したわけです。そしてだれもが納得がいくように翻訳し直していったということです。

「訳経は次のようになされたようです。まず羅什が口訳(こうえん)をし、続いて旧訳と羅什訳を対比、質疑討論。それを弟子が筆受。訳場が即、講義の場にもなります。これでよしとなれば、羅什が美しい文章に書き直す。こんな順番であります。」(大洞龍明先生 講義録 東京国際仏教塾)http://www.tibs.jp/kougi/ohora/ohora04.html

 これらの業績を見ますと、禅宗、浄土教、法華宗などの、密教をのぞく大乗仏教の根本経典は多くが鳩摩羅什の翻訳紹介したものであることがわかります。羅什の翻訳によって初めて経文の意味がすっきり分ったのです。それまでは小乗仏教と大乗仏教があって、両方が紹介されているのですが、老荘思想に引きつけて捉えられていたりするので、必ずしも区別が明確ではなかったわけです。

 それに僧侶も訳経僧以外は神異僧といってオカルト的な道士と変わらないような存在で、仏教自身が明確に理解されていたわけではなかったのです。その意味で鳩摩羅什によって、本格的に仏教が伝来したと言えるかもしれません。

四、羅什の破戒と大乗仏教

 

          

 ただし、羅什にも問題点があります。その問題点が逆に大乗仏教の性格を表現しているのが皮肉なところなのです。梅原猛によりますと、羅什の父も東方への布教に身を捧げようとしていたのに亀茲国で破戒して、国師に収まってしまいました。女犯の誘惑に弱いわけですね。羅什も呂光に強制されたとはいえ、女犯しました。そして長安に来てからも,後秦の国王姚興に「先生のような優れた血統が絶えるのは困ります」とかうまいこと説得されまして、十人も侍女を侍らせて、それでやっと気持ちが落ち着いて訳業に専念できたそうです。

 もし父羅炎が母耆婆の色香に迷わされなければ、羅什の人生はありませんでした。欲望に惑わされていたら存在の実相は見えないということは確かでしょう。でもだからといって欲望を充足することによって生きることができ、子孫に命をつなぐことが出来るわけですね。欲望の否定に囚われるのもまたよくないのです。

 羅什は訳経僧ですので、自分のオリジナルな思想を語った著作は少ないのです。そこで梅原猛はナーガールジュナ(竜樹)の著作の翻訳である『大智度論』と『十住毘婆沙論』に注目しています。両書ともサンスクリット語の原典が現存していないのです。そしてこの両書とも空が単なる偏見や囚われを否定するだけの否定的役割だけでなく、偏見や囚われから自由に生きること、つまり積極的ニヒリズムの創造者の空の論理になっているというわけです。

 もちろん竜樹も、一切の囚われを退け、一切皆空を唱えて、禁欲生活をしなければ覚れないという禁欲への囚われを否定して、在家の人々を救おうとしたわけです。でもそれは有を否定するだけでなく、無も否定するという消極的な否定の論理の傾向が強かったわけです。それがこの二書では積極的な意味で空の自由に生きることを語っているというのです。もっとも梅原猛はそのことを二書の内容の紹介しながら論証しているわけではないので、感想でしかないのですが。

 つまり梅原猛によれば、鳩摩羅什は、ナーガールジュナの権威を借りて、自分の思想を語らなければならなかったわけですね。本来思想は独創性があれば自分の著作だと言いたいところですが、あえて最高権威の著作だということにしてしまうことで、普遍性を持たせるわけです。だいたいお経というものは御釈迦さんが書いたものは一つもないのですが、すべて御釈迦さんの話されたと言う事になっていますね。それはなかなか生きている人を仏陀だとは思えないので、釈尊が語られたという形式、文体をとるわけです。羅什は竜樹に仮託したわけですが、それには羅什自身の弱みがあったわけです。彼は破戒僧ですからね、彼の翻訳は今まで意味が通じなかったお経がすらすら読めるようになったので、眼からうろこのような価値があったのですが、彼の思想は破戒僧の思想だから権威がありません。余計に権威に仮託する必要があったわけです。

 煩悩を離れて覚りの世界つまり菩提はないということは、大乗仏教の核心ですが、煩悩の世界に嵌ってしまいますと覚れないのも事実ですから、どうしても自分で覚りに達することは難しくて、絶望に囚われがちになります。そうしますと、既に覚りに達した仏陀を絶対化して、その慈悲の力で掬い取ってもらおうという阿弥陀信仰や弥勒信仰が心を捉えるわけです。羅什も晩年はかなり阿弥陀信仰に嵌っていたのではないかと梅原猛も推測しているようです。