中国思想史講座

                   諸子百家の思想
 

4. 戦国時代の儒学―孟子の性善説
やすい ゆたか
一、戦国時代の儒家

 仁義なき戦国の世を勝ち抜くに仁義に基づく王道を説く

 

 

孟子

 

  儒学は、會參(會子)-子思(孔丘の孫)の流れが最も主流と思われます。孟軻(紀元前三七二年〜紀元前二八九年)は、この子思から思想的な影響を受けました。つまり子思の孫弟子に当たります。宋代の朱熹によれば、『孝経』ばかりでなく『大学』も曾參の作と仮託され、『中庸』は子思の作とされています。

 

 江戸儒学の古義学派は、『大学』『中庸』は孔孟時代には使用されていない言葉が混じっているので、後儒の手が加えられていて、孔孟の思想を正しく伝えているとは言えないと断定しています。たしかに『大学』『中庸』には後の朱子学に連なるような理智主義的傾向が見られます。だから仁愛中心の「孔孟の精神」に悖るというわけです。でも『論語』にも修己治人や克己復礼を重視する傾向が窺えます。だから、礼樂と仁愛の統一にこそ孔丘のテーマがあるのです。この統一に生きることこそが人間の人間たる由縁だという人間観を孔丘は抱いていたわけです。

 

 ところが春秋から戦国へと世の乱れが激しくなりますと周代の礼樂はますます廃れ、もはや「尊王攘夷」のスローガンは叫ばれなくなります。春秋時代の次のような特色は戦国時代には廃れてしまったのです。

 

 ()礼を尚び信を重んじた。()周の王室を尊崇した。()祭祀を厳重に執り行い聘享(へいきょう)(訪問.宴会)を重んじた。 ()家柄を重んじて、宗姓・氏族のことを論じた。

()国邑の間の交際に、宴会があって詩を賦するような余裕があった。
 

 「尊王攘夷」という制約がなくなったので戦国時代の諸侯は、剥き出しの弱肉強食の時代をいかに生き延びるかを模索しました。

 

 晉は紀元前四〇三年に至って、韓・魏・趙の三つに分裂することが正式に認められます。この時をもって戦国時代に突入したのです。齊では田氏が齊の公室を圧倒するようになり、紀元前三八六年に元の齊の公室は追放されて、田氏が諸侯と認められました。戦国七雄と呼ばれたのは、この四国と秦・燕・楚の七国です。

 

 春秋時代は楚が強力で、楚の北進をいかに防ぐかという南北対立を基軸に展開しました。これに対して、戦国時代は黄河上流の秦が強力で、秦の東進をいかに阻むかという東西対立を軸に展開しました。蘇秦は東方の六国が攻守同盟結んで、秦に共同で当たる合従策を唱えました。これは内輪もめで崩壊しました。張儀は連衡策を唱えます。これは秦と結ぶことで安全を計ろうとするものでした。これも張儀が秦の宰相を辞めると潰れてしまいました。

 

 秦は范雎(はんしょ)の提言で遠交近攻を採用しました。まず韓・魏を攻略して中原を手に入れ、これによって南の楚と北の趙とを圧迫し、おもむろに齊に向かう戦略です。

 

 戦国時代には、范雎・蘇秦・張儀など外交戦略を作成して、自分を宰相に売り込む縦横家が活躍したのです。彼らは仁義やそれに基づく王道政治等には関係なく、戦国時代にそれぞれの国が生き延びるということを唯一の目標にしていたのです。旧時代の権威が失墜し、周の礼樂が衰退した時代の中で、武力で覇権をうちたてる政治ではだめで、仁義に基づく政治すなわち王道政治を、ただ正義だからと主張するのでは相手にされません。そこで孟軻も戦国時代を勝ち抜く唯一の戦略として王道政治の効用を説いて、その採用を諸侯に迫ったのです。

 

 

二、仁政こそ国を富ませる


 父兄が虎に食わるる目に遭ひて逃げ出さぬのは苛政なきゆえ

             

 戦国時代は常に戦争の準備が必要ですから、軍備を整えるためには大変な財政支出が必要で、従って重税が人民に課せられることになります。「苛政は虎より恐い」という言葉があるくらいです。つまり家族を何人も虎に襲われて食べられているのに、人民はその土地を去らないのです。その理由を聞いてみますと、「苛政が無いからだ」と言うのです。重税や兵役や重罰等で苦しめられるよりは、たとえ虎に襲われる危険があったってまだましなのです。ですから苛政の国からはたくさんの農民が逃散するのです。そして仁政が行われている国に人民が集まってくるわけです。

 

 仁政の国には多くの人民が集まりますので、財政的にも豊かになり、軍備を整えることができます。また仁政の国は好んで戦争をするわけではありませんので、侵略の準備をしようとして過酷な重税を取る必要もないのです。その反対に苛政の国では、人民は為政者を憎んでいますから、兵に戦意は乏しく、戦争に負けて為政者が代わりますと、苛政から解放されるのではないかと考えて歓迎します。もし王道政治を行っている王が苛政の王を制裁戦争でやっつけるとしますと、苛政の国の人民は解放軍を迎えるように他国の兵に協力するのです。

 

 『孟子』「第一、梁の惠王上」によれば、周代のように封建制度を再確立し、九百畝の田を九分し、真ん中の区分を公田にし、まわりを八戸に私田として配分する井田法(せいでんほう)をきちんと実施して、重税をかけさえしなければ、豊かで平和な世の中に戻るのです。

 

 つまり五畝の宅地と百畝の田を各戸に配分します。


「五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣、雞豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣。百畝之田、勿奪其時、數口之家可以無飢矣。謹庠序之教、申之以孝悌之義、頒白者不負戴於道路矣。七十者衣帛食肉。黎民不飢不寒、然而不王者、未之有也」

〔五畝の宅地に桑を植えれば、、五十歳になった者は絹物を着られます。鶏・豚・犬・猪等の家畜、その交尾期を逃さないようにすれば七十歳になった者は肉を食べられます。百畝の田、その農繁期に賦役にかりださなければ数人の家内では飢えを免れられます。学校教育を重んじ、孝悌の義を繰り返し教えれば、白髪混じりの人が道路で荷運びはしません。七十歳になった者は絹物を着、肉を食べ、庶民は飢えないし凍えない。そのようにしても王ではないということはかつてありません〕

 

孟軻は「第二 梁の恵王下」で齊の宣王にもハッキリと「九一の法」つまり井田法の実施を勧めていますが五畝の宅地、百畝の田で充分家族が飢えること無くやっていけると主張し、周の文王に倣って仁政を行うよう勧めたのです。ともかく人民の生活によく配慮すれば農民に豊かな暮らしを保障することが出来、民心を掌握することができるのです。もちろん人民が豊かなら重税でなくても財政は潤います。それが安全保障になるというわけです。

         

参考のために、二〇〇六年の農家一戸当たりの耕地面積は0.53ha、日本は1.37ha1990年)です。1反=約991.74平方メートル=約9.9174アール  1反= 10

 

 

 

三、モナルコマキ(暴君放伐論)


 ゴロツキの紂を弑すと聞きたれど君を討つとは未だ聞かざり

             

 周王室の権威が消滅し、諸公は自分の治めている国を私物化して捉えるようになります。卿や太夫が成り上がって国の実権を握ろうとする下剋上の風潮に対抗して、君権の絶対化を計ろうとします。そこで賢士を取り立てて君権強化の手を打ったのです。儒家も「尚賢」を説き、重臣(卿や太夫の代表)の勢力を退けて君権をもり立て、王道政治の実現を計ろうとしました。しかし孟軻にとっては、あくまでも仁義に基づく王道政治の実現が目的ですから、君権を強化した君主が、権力を私物化して、苛政を行うことは絶対に許せないのです。

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 「孟子謂齊宣王曰、王之臣有託其妻子於其友而之楚遊者、比其反也則凍餒其妻子、則如之何。王曰、棄之。曰、土師不能治士、則如之何。王曰、已之。曰、四境之内不治、則如之何。王顧左右而言他」
〔孟先生は齊の宣王に次のようにおっしゃいました。「王の臣下に妻子を友人に預けて楚に遊びに行く者がいたとして、彼が帰ってみると、妻子を凍えさせ、飢えさせていたならば、どうするでしよう」。
王は「絶交するでしょう」と言われました。
(孟先生は)おっしゃいます。「奉行が部下を統率できなかったら、(王様)はどうされますか」。
王は言われました。「罷めさせます」。
(孟先生は)おっしゃいます。「国内が治まらなかったら、如何されますか」。
王はお側の方をむいて他の話をされました〕
(第二 梁の惠王下)

 

 孟軻は君主を国家の最高位の役職として捉えており、その責を全うできなければ、君主の位に止まる資格なしと宣王に諭しているわけです。宣王は君位は世襲で譲られるものだから、自分に固有であると捉えているのです。それで孟軻の忠言には耳を貸しません。

 

 失政を防ぐにはどうすれば良いのでしょうか。官吏の任免次第で、善い政治ができるかどうかが大きく左右されます。そこで孟軻は側近や太夫が推薦するだけでは任用しないで、士を含む国人が皆賢人だと言う人を任用するよう勧めます。罷免や処罰に当たっても同様です。広く国人の世論によって決めるように諭しました。

 

 「齊宣王問曰、湯放桀、武王伐紂、有諸。孟子對曰、於傳有之。曰、臣弑其君可乎。曰、賊仁者謂之賊、賊義者謂之残。残賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣、未聞弑君也」
〔齊の宣王が質間されました。「湯王は桀王を、武王は紂王を放伐したというの本当ですか」。
孟先生はこたえて言われました。「伝えにそうありますね」。
(宣王が)言われました。「臣下が君主を弑してもよいのですか」。
(
孟先生は)言われました。「仁を賊(そこなう者、それを賊と言い、義を賊なう者、それを残と言います。残賊の人、それをゴロツキと言うのです。ゴロツキの紂を殺したとは聞いていますが、まだ君を弑したとは聞いていません」〕(第二 梁の惠王下)

 

孟軻に言わせれば、君主はただその位についているだけでは君主とは言えないのです。人民を安心して暮らさせることができて始めて、本当の君主なのです。悪逆非道なゴロツキが君主の位に就いて、苛政誅求を極めても君主と認めて従わなければならないのは、どうにも納得できません。そこで彼は君主は君主としての徳を傭えていなければ、君主ではないとして、このエセ君主の追放を正当化したのです。

 

孟軻は身分や地位を否定しているのではありません。彼はあくまで周の封建的ヒエラルヒー(位階制)を肯定して、そこへの回帰を唱える反動思想家としての側面をもっています。それが儒家としての限界です。しかし封建的ヒエラルヒー自体を仁義に基づく王道政治のための手段として捉えているのです。
 

四、五倫の教え


 民びとに五穀教えし后稷は人の道よと五倫説かしむ

          

 人間性に変わりはないということは普遍妥当的な道徳が成り立つということです。特に儒教道徳として大切なのは人間関係を大切にすることです。正しい人間関係の在り方として「五倫」が重視されています。后稷(こうしょく)という周の祖先の聖人が、民衆に五穀の栽培方法を教えたのですが、腹一杯食べ暖かく着込んでいるだけで、教育を受けなければ鳥獣と変わりがありません。后稷はこれを心配して、契を司徒(民部長官)にして人倫を教えさせたのです。その内容が「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」の五倫だと書いてあるだけです。

 

 孟軻が詳しく解説を加えなかった理由は、この五倫を教えるという聖人の仕事について触れただけで、五倫自体を強調することは、この文章の趣旨ではないからです。それにこのフレーズ(文句)は孟軻のオリジナル(独創)ではなく、しかもよく知れ渡っていた内容で解説を加えるまでもなかったからと思われます。

 

()父子有親―「父」という字は鞭で叩いて子を躾けるところから由来しています。でも父が鞭打つのは、子が憎いからではなく、あくまで子が立派に育って欲しいと願う愛情からなんです。だから父と子は憎しみではなく、親しみで本当は結ばれているのです。現代の父親は優しくなってしまいましたが、その代り鞭打っていた時の子育ての情熱も喪失しているのです。「父親不在」の時代ですから。

 

()君臣有義―臣下は君主に封禄をいただいていますから、それで君主の命令なら何でも従うのが美徳のように思われがちですが、実はそれは保身的で、浅ましい了見なのです。もし君主が義に悖ることをしているのに、命令だからと言って無責任に追従すれば、君土が義に悖ることを助けるのですから、本当の忠義とは言えません。それに君主と共に自分も義に悖ることをしてしまうことになります。あくまでも君主を諫言し、聞き入れられなかったら辞める覚悟が必要です。もし社会的に見て重大な不正や過ちがあれば、君主を辞めさせることも必要です。

 

()夫婦有別―夫婦は互いに一体だと思って、何でも話し合いなれなれしくしがちです。でも封建制では両者の領分ははっきり別なんです。夫は社会で立派に職務を果たさなければならず、妻はしっかり家を守り、子供を育てなければなりません。妻に仕事のことでいろいろ話をしていますと、妻が喜ぶように仕事に私情を差し挾むようになります。縁故で人事や注文が決まることの多い中国では、妻の縁故が幅を効かします、これでは公正な仕事ができず、腐敗堕落の元です。古来「雌鳥が鳴いたら国が滅びる」と言われてきたのです。実際、殷の紂王は妲妃を笑わるために残虐刑を設けて悪評をかい、国が滅びる原因を作ったという伝説があります。

 たしかに公私の区別を明確にし、夫婦の役割分担をきちんとして、過度に干渉し合わないようにすることは大切です。ただ男尊女卑で女性の人格か認められていない時代における「夫婦有別」の強調は、夫権の絶対化を意図していたのでしよう。

 

()長幼有序―年長者だからと言って、若輩者よりも有能とは限りません。.世の中、実力のある者が登用されて、のし上がり、年長者が軽んじられる傾向があります。いきおい若輩の上司が年長の部下を軽蔑して顎でこき使うようになり淋ちです。しかしやがて時代の変化についていけなくなって、自分も若輩者に追い越されて軽んじられるようになるかもしれないのです。年長者は豊かな経験を持っているのだから、常に年長者の経験に学び、尊重して立てていくのが人の道なのです。そうしてはじめて不遇をかこつ人がない良い世の中になるのです。むしろ「長幼有序」の精神が行き屈いていれば、実力有る若手を幹部にどんどん登用してもいいわげです。

 

()朋友有信―朋友には相手の気持を思いやる余り、相手の心を疵つけ、友情にひびが入ることを懼れて、なかなか相手の欠点を指摘したり、本当のことを正直に言いにくいものです。しかしそれでは真の友情とは言えません。ありのままを正直に伝えてやり、忠言できてこそ真の友「心の友」と言えるのです。「信」とは「真(まこと)」であり、相手のために真実を言うことなのです。互いに本音で語り合え、啓発し合えて、しかも相手が弱点をさらけ出しても喜んで助け合うことができる、そういう友達は企業の中ではなかなか育ちにくいものですね。

 

五、「惻隠の心」はいかに生じたか


 幼子が井戸に落ちむとする刹那助けなければ人にあるまじ

        

 

 孟軻は人間である限り、だれもが善根を持っているので、人間が生まれつき善だという言い方をします。
 

 「孟子曰、人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心行不忍人之政、治天下可運之掌上」
〔孟先生はこう言われました。「人には皆他人に対して忍びなく思う心(他人の不幸を黙ってみていられない心)を持っています。先王は人民に対して忍びなく思う心を持っておられて、人民に対して忍びなく思う政治をなされました。人民に対して忍びなく思う心で人民に対して忍びなく思う政治を行えば、天下を治めることは掌の上で自由自在になります」〕(第三 公孫丑 上の六)
 

 実際には良心的な心をもって善意で政治を行ったから、良い政治ができるわけではないのが現実です。例えば、窮乏している人民がたくさんいる場合、社会保障を充実させて貧民救済を最重点に行うのが良心的でしょうが、なにぶん国全体も貧しければ、社会保障にばかり財源を回すと、産業発達のための投資ができなくなり、いつまでも貧しい国のままで終わってしまいます。そんな時に、産業開発を最重点に置いて国全体を富ましてから、後に社会保障を充実するという戦略も考えられます。何が結局人民全体の福祉や窮民救済に最善かは善意だけではわからないのです。
 

 とはいえ良心や善意がなくても、政策目標を実現するための科学的な政策立案能力さえ有れば、良い政治ができるというものでもありません。やはり政治家や現場の行政官が親身になって真心と思いやりの政治をすれば、貧しいながらも人民は見捨てられず、励まし合って充実した生活を送ることができるのです。
 

 「所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有 タ惻隠之心。非所以内交於孺子之父母也、非所以要譽於郷黨朋友也、非悪其聲而然也、由是觀之、無惻隠之心非人也、無羞悪之心非人也、無辭譲之心非人也、無是非之心非人也」
〔「人が皆他人を忍びなく思う心が有るという根拠は、仮に今、人がいたいけな子供が井戸にまさに落っこちそうなのを見れば、だれでもはらはらして惻隠の心(憐れみいたむ心)を持ちます(そして助けようとします)、そうすることでその子の父母に取り入ろうとするからじゃありません。そうすることで土地の人や友達に褒めてもらおうとするからじゃありません。非難されるのが嫌でそうするわけでもないのです。この事実からそこの道理を洞察しますと、惻隠の心が無いのは人ではありません。羞悪の心が無いのは人ではありません。辞譲の心が無いのは人ではありません。是非の心が無いのは人ではありません」〕(承前)
 

 孟軻は他人が危急の事態を目撃するとだれでも助けようとするという事実から出発します。そして「惻隠の心」を持たないのは人間じゃないという結論に向かいます。そこで言いたいのは、人間である限り持っているのだから、「惻隠の心」は生まれつきだということです。肝心な分析が欠落しているのです。何故他人の危急の事態を目撃すると、自分の子とではないのにハラハラしてしまうのかという心理の分析が無いのです。
 

 条件反射はメモリィ(記憶)の連鎖を形成することによって成立します。崖ぷちに立つと恐怖に足が竦みますが、それは崖から転落する姿を連想するからです。他人が崖ぷちに立っているだけでは、自分の足は竦まないかもしれませんが、他人が転落しそうになるのを目撃しますと、さすがにショックを受けるものです。
 

 動物は種によって同じ習性を持っていますが、それは同種の動物の行動を模倣するからです。うまく模倣できた者だけがその種の習性を身に着けることができるので、生存できるのです。模倣する主体がまずあって模倣するのではなく、模倣しなげればサンクション(制裁)にあったり、不適応を起こすので模倣せざるを得ないわけです。模倣は主体的ではないということは、模倣対象と自己を同一化して模倣対象が自己であるかのように共鳴的に行動してしまうということなのです。
 

 模倣は他人の行動を見ながら、脳裏で他人と自已を同一視することによって成り立ちます。この習性から他人の転落という事態に直面すれば、我が身が転落するかのような恐怖心が生じるのです。感覚次元のことですから、この感覚的な事態にどう対応するかは、この恐怖から免れるために対象の危機を救うという行動になります。
 

 .この心理や行動を社会意識から反省しますと、我が身のことのように他人のことを思いやる意識として評価されるのです。それは模倣学習によって体験的に習得したものですから、生まれつきとは言えませんが、種の習性を獲得する過程で習得したものであるという意味では人の性を構成しているとすることもできます。

 

 ただし、「惻隠の心がないのは人ではない」というのは感情的で問題があります。動物だって救助活動はするわけですから、この場合の「惻隠の心」があるからといって、別に人間のレベルまで到達したわけではないのです。むしろ条件反射的にはらはらして助けようとする衝動を抑制して、この場面でも落ちつき払い、利害得失を打算する人間がいたとしたら、相当私人的なエゴが発達した人物ですが、「人ではない」とは言えないのです。実際、最近の市場経済の急速な発達を見せる中国で、川で子供が溺れかかっていて、それを見ながら、男たちがその子の母親と助けたら幾ら謝礼を貰えるか交渉している内に、溺れ死んでしまったという事件が起こっているのです。

 

 「羞悪の心」や「辞譲の心」や「是非の心」がないのも人ではないというのは、具体例も示されず断定されています。たしかに悪いことをして恥ずかしいと思う気持ちや、人に譲ろうとする気持、自分の行動を道徳的に間違いはなかったか反省する気持ちは誰にでも少しはあります。

 

 でもこれらの心も社会的に獲得された意識であって、生まれつきの性質ではありません。社会的に人間として生きていくためには不可欠だという意味で人の性を構成するのです。孟軻は、これらの意識が形成される構造を明確にしないまま、誰にでもある意識としてしまうので、これらの意識を生まれつき持っていたかのように性善説を展開したのです。彼があくまで言いたかったことは、これら四つの心はすべての人に有るのだから、人間は互いに心を通じ合い、協力し合っていけるということです。 

 

、四端から四徳へ


 惻隠の心育たば仁の徳、者皆歩めや聖人の道

               

 「惻隠之心仁之端也、羞悪之心義之端也、辭譲之心禮之端也、是非之心智之端也。人之有是四端也、猶其有四體也。有是四端而自謂不能者、自賊者也。謂其君不能者賊其君者也。凡有四端於我者、知皆擴而充之矣。若火之始然、泉之始達、苟能充之、足以保四海。苟不充之、不足以事父母」

〔「惻隠の心は仁の端(はじ)まり、羞悪の心は義の端まり、辞譲の心は礼の端まり、是非の心は智の端まりです。人にこの四つの端まりがあるのは、人に四本の手足があるようなものです。この四端を持っていながら、自分には出来ないという者は自分で悪くなる者です。君主に出来ないと言う者は、自分の君主を悪くする者です。およそ自己に四端を持っている者なら、だれでも皆四端を拡充することが出来るのです。ちょうど火が燃え始め、泉の湧き始めるようなもので、それを拡充することさえ出来れば、充分に天下を保つことができるのです。でも拡充しなければ、父母にも充分仕えることは出来ません」〕(承前)

 

 仁とは真心と思いやりで相手のして欲しくないことをしないで、して欲しいと思っている事をしてあげようとする気持ちです。義とは仁に則って行うことです。礼とは仁義をその時代や社会に相応しいやり方で行う様式です。智とは仁義礼についていかに行えばよいかについての智恵です。信とは仁義礼智に基づいて行うことに嘘がない、裏表がないということの信頼です。

 

 だれもが持っている仁の端緒を大切にし、拡大していけば、仁全体が自分の徳になるという理窟です。同様の理窟で悪いことをして恥ずかしいと思う「羞悪の心」を拡充して仁を行動に現わそうとする義の徳を、人に譲ってあげようとする「辞譲の心」を拡充して、仁義を正しい形で実現しようとする礼の徳を、自分の行いを仁義礼に悖ることはなかったかと常に自分に問いかける「是非の心」を拡充して、仁義礼に関する見識を磨く「智」の徳を養うことができるのです。

 

 「仁義礼智」に「信」を加えて後に漢の董仲舒が「五常」を唱えます。五つの普遍妥当的な徳という意味です。互いの信義は「仁義・礼智」を共有しているところから成り立つので、五番目に「信」の徳がきたのでしょう。「仁義礼智信」が普遍妥当性を持つというのは、人間社会が成り立つためにはどうしても協力しあい、信じ合っていかなければなりませんので、納得がい.きます。

 

 でも何が「仁義礼智信」の内容に相応しいのか、相応しくないかは歴史的、社会的に文化の違いで種々様々です。価値観が変動する社会構造の変動期には、道徳的な価値に対するニヒリズム(虚無主義)が蔓延しがちです。既成の権力と共に礼楽の衰退した戦国時代にあって、この反道徳的ニヒリズムに対抗してあくまでも普遍妥当的価値意識に基づく道義主義的な価値観、人間観の再構築を目指したという点で孟軻は重要です。

        

四端

拡張

四徳

惻隠の心

拡張

羞悪の心

拡張

辞譲の心

拡張

是非の心

拡張

 孟軻によれば、四端は手足のように誰もが持っているものですから、誰でもやる気になれば四徳を備えた君子に成れるということです。成れる素質がありながら、成らないというのは自分を自分で駄目にすることでけしからんというわけです。
 

 もちろん君子には成れても、必ずしも君主に成れるわけではありません。皆が仁義礼智を備えた君子に成れば、世の中は徳の高い人ばかりで素晴らしいユートピアが実現するという構想でしょう。

 

 しかし四端は持っていても、それを表に出すと善人を気取ってるんじゃないかと思われるかもしれないと、遠慮する人がわりと多いんです。近頃の若者も、お年寄りがバスで立ってると同情はするけれど、代わってあげるのがとても勇気が要るみたいなんですね。

 

 たしかに規制されたり、きつく言われたりするど一応従うけれど、自分から仁義礼智をとことん追求して立派な聖人君子を目指そうなんて人はなかなかいません。それより四端より野球の素質がありそうだからプロ野球のヒーローを目指そうとする少年の方がよっぽど多いですね。 

 

 第一、政治家を目指している若者だって、地位や権力に憧れているんで、四徳を磨こうなんて御仁は野党政治家でも少ないような気がしますね。もちろん宗教家や哲学者志望の人でも同様ですが。孟軻は人間だれしも四端があるから四徳を目指して努力すべき存在だ、道義に生きるべき存在だと言いたいのです。
 

 

、道義主義的人間の再評価


 道いずこ廃れはてにし秋にこそ道を信じていざ生きめやも

          

『孟子』にも封建的な身分秩序を絶対視する観点が貫徹していますから、民主的な社会を建設していこうとするわれわれは、批判のメスを入れながら読むべきです。本居宣長は逆に反動的な臣道の立場から、暴君放伐論を含む民本主義的な孟軻を全否定しました。立場が異なるところがあれぼ全否定というスタイルは生産的ではありません。われわれは『論語』や『孟子』から道義主義的な生き方、人間観を学びとる必要があるのです。

 

 戦後民主主義教育は、戦前の忠孝中心の『教育勅語』に代表される反動的な儒教的修身教育を否定して出発しましたから、儒教道徳の再評価には強い拒絶反応が予想されます。しかし全面的に正しい思想を構築することがいかに至難であるかを、「戦争と革命の時代」であった二十世紀は教訓として遺してくれたのです。またある特定の思想に全面的に否定すべき思想だとレッテルを貼るのも愚かなことです、それぞれの時代の課題と真剣に格闘した思想は、その時代を超えて人類の普遍妥当的な課題を明示してくれています。われわれは過去の思想の過ちの山の中から、時代を越えて妥当する思想的な珠玉の遺産を掘り出すべきなのです。

 

 「忠孝」についても、「忠」に関する孔孟の思想は、君への絶対服従を説く、日本的な臣道とは異質です。元々真心を尽くすという意味だったのです。君に忠義を尽くすのは、決して盲従するのではなく、自己の信念に従って、誠心誠意君と義を共にすることであったのです。「孝」に関しては『孝.経』が、家父長家族のイデオロギーの特徴として父権を絶対,化し、神聖化しています。しかもそれを仁の根本とし、すべての道徳的基礎にしている点で非常に偏った内容になっていることは否定できません。

 

 それでも父母の遺体として自らの身体を捉え、まず自分の身を大切にすることから出発して、身を立て名を揚げて、自分の社会的貢献を通して父母の存在意義を顕彰するという発想は、親のためとは言いながら、親子の一体性の論理を利用してちゃっかり自己実現を計る逞しさがみられます。

 

 それに現代人は夫婦とその子の単婚小家族を基本形にしていて、子供を育て上げることを主な責任と考えるため、老人に居場所が無くなっているのです。子育てを終えて、今度は自分が老人に成ったときのことは切り捨てているんですね。

 

 子を愛情を持って育てることを、親に孝養を尽くすことより大切だと割り切ってしまうと、.そこに姥捨ての思想が潜んでいるのではないでしょうか。老人の問題を考える時、「孝」の発想を切り捨てて、老人福祉や高齢化社会の問題として処理すみのは、やはり大切な心が欠落している感じは拭えませんね。じっくり『孝経』や『父母恩重経』を読むべきです。

 

 孔孟思想における「道」は仁義に基づく王道政治を実現する方法であり、実現しようとする営みを意味します。その道に基づいて正しいことが道義です。人間の存在意義はこの道義のために献身することだと考えるのが、道義主義的人間観です。孔孟が理想とした社会は封建的ヒエラルヒー(位階制)が貫徹し、それに相応しい礼樂が行われている社会です。それは性善を信じ、人間性に信頼する真心や思いやりの仁義とは矛盾します。われわれはむしろ人格の平等に則った礼樂の文化創造による構築を展望すべきです。

 

. 「大道廃れて仁義あり」と『老子道徳経』は儒家を痛烈に批判しましたが、道義に生きなければならないのは、まさしく仁義に基づく政治が廃れてしまっており、人々のつながりがずたずたに引き裂かれ、お互いの思いが伝わらなくなったからなのです。二千年代に向かっているこの時代も、大道が.廃れているのではないでしょうか。


 でも考え方次第では、地球生命の根本的な危機に直面し、東西冷戦後の混迷を体験しながら、新世界秩序を形成しようとする時代のただ中で、二千年代の人類の歩み方を方向づける岐路に立っているのですから、大変素晴らしい時代に生きているとも言えるのです。われわれの奮闘次第で人類と地球の明るい未来が約束されるのです。われわれはこの道義に生きることによって自分たちの存在価値を人類史に輝かせることができるのです。

 

 ここでわれわれが道義を見失い、民族エゴや、私的享楽にのみうつつを抜かしていたら、これまでの人類がわれわれに託した願いや思いを踏みにじることになり、.次の千年を生きるはずだった子孫の無限の可能性すらすべて消し去ることになります。人間存在は、地球生命全体にとって余計であるどこ.ろか破滅をもたらす極悪的存在であったことになるのです。

 

 今こそ自分たちが何のために生まれ、何をすることが最も意義深く、輝いて生きられるのか考えてみるべき時代ではないでしょうか。
 

〔参考文献〕

岡田正三著『孟子講義』第一書房

保井温著「二〇〇〇年代に向けて ヤスパースの歴史哲学ー.『歴史の起源と目標』」(『月刊状況と主体』一九九〇年七月、九月、一〇月号)