中国思想史講座

                   諸子百家の思想
 

3. 道家の思想―『老子道徳経』と『荘子』
やすい ゆたか
一、老子は実在したか?

 古の麗しの礼学ばんと孔子は老子を訪ねたりしか

 道家には春秋戦国の隠世家たちが含まれます。その言葉を集めたのが『老子道徳経』だと考えられています。つまり老子という一人の人物の語録ではないのです。道教と道家の関係を聞かれることがありますが、これは答えにくいですね。道教は、道家たちの教えを基にして,それに様々な神仙思想が混ざり合って出来てきた中国独特のかなりオカルト的な民間宗教です。日本神道のような官製の宗教ではありません。日本神道も官製の宗教になる前は、素朴な自然信仰だったわけです。

 『老子』という書物は正式には『老子道徳経』と言います。『老子』と言いますので、老子の言葉を集めた書物のような体裁になっています。『史記』「老子韓非列伝第三」によりますと、
「老子者、楚苦県視ス曲仁裏人也、名耳、字、姓李氏。周守蔵室之史也。」
とありますから楚の国の苦県の出身です。姓名は李耳(りじ)通称(たん)ですから老で通っていたのです。周の守蔵室の役人です。史ですから古い書類に通じていて、周礼を知っていると孔子は考えたのです。

「孔子適周、将問礼於老子。老子曰「子所言者、其人与骨皆已朽矣。独其言在耳。且君子得其時則駕、不得其時則蓬累而行。吾聞之、良賈深蔵若虚、君子盛徳容貌若愚。去子之驕気与多欲、態色与淫志、是皆無益於子之身。吾所以告子、若是而已。」
 「孔子は周に適(ゆ)きまして、さあ老子に礼について問おうとしたのですが。老子の言うことには「子(先生)の仰っておられることは、(古の礼を復活させたいということですが、)その人と骨は既に朽ちてしまっています。ただ独りその言葉があるだけです。それに君子はその時を得てのるものです。その時を得ないとあちこち転々とするだけです。私が聞くところによりますと、良い商人はしまっていて何ももっていないようにみえるもので、君子は徳にあふれていても容貌は愚かに見えるものです。(ところがあなたはそうではない)先生はいかにもおごっていて欲しがりすぎです。もったいぶった様子 とみだらな志(が見え見えなのでそれ)を去りなさい。これはみんな(先生が知りたがっている礼はみんな)先生の身には益なきことです。私が先生に言っておくことはこんなことぐらいですね。」

「孔子去、謂弟子曰「鳥、吾知其能飛。魚、吾知其能游。獣、吾知其能走。走者可以為罔、游者可以為綸、飛者可以為矰。至於龍、吾不能知其乗風雲而上天。吾今日見老子、其猶龍邪。」
孔子が去って、弟子にいうことには、「鳥については私は(どのように)鳥が飛び、(どのように)魚が泳ぎ(どのように)獣が走るのを知っているので走るものを罠にかけたり、泳ぐものを釣ったり、飛ぶものを矰(いぐるみ)で捕まえることはできるのだが、龍に至っては、それが(どのように)風雲に乗って天に昇るのか知らないので、(捕らえることはできない。)私が今日あってきた老子は、そんな龍のよう人物だった」ということです。


 この老子に孔子が礼を問うという話では、老子は教えてくれなかったわけですね。孔子の言っていることは命が通っていない、表面的な言葉だけだというのです。と言いますのは恐らく、孔子は周礼を復活させて礼儀正しい良い社会を復活させたいと抱負をのべたのでしょう。それで正しい礼はどんなものかと訊ねたわけです。おそらく老子の考えでは昔の礼を教えても、今の社会においてそれを行っても、正しい礼になるわけではないわけです。と言いますのは、人間関係というのは命を持っていて、生きた関係ですから、固定していないわけです。昔生きていた礼は、今それを語っても、それを行った人も骨も朽ちてないわけですから、言葉だけで何もならないといいます。それを教えたら、孔子はそれを正しいとして無理矢理それを押し付け、それに叶ってなければ不正だといって攻撃して、世の中を窮屈にしたり、争いの元になるだけですね。それで教えないのです。

 それに孔子の態度が気に入らないようですね。あまりに礼楽復興について熱弁をふるったものだから、世の中を自分が正してやろう、自分の肩に世界がかかっている、だから私が世界を救うために協力するのは当然だというような意気込みに見えたのでしょうね。

 まだ「古の礼楽は素晴らしかったと聞いているので、どんなものか教えてもらってやってみたい、そこから学んでもし今の礼楽にも取り入れられるようなものがあれば参考に出来たらと思います。」というぐらいなら教えてもらえたのではないでしょうか。

 孔子の態度では正しいものは周の礼楽に決まっているみたいに思い込んでいて、それを教えて欲しいというのですから、これはそうは思わない人とぶつかりますよね。相手の考えも確かめないで、正直にこちらの腹をみせてしまうので、良い商人とはいえないわけです。

 それに理屈をとうとうと述べるので、そんなに賢いのなら、自分で調べなさいとか、周礼にしても人が作ったものですから、それに劣らないものを自分で作りなさいと思いますよね。そんな賢い人に教えなくてもいいはずです。だから君子は人に教えを乞う場合は、あまり賢そうな顔をしないものです。教えてあげたくなるような、愚かな顔つきをしているものだというのです。これは面白いですね。孔子は結局一本とられましたね。

 こういうやり取りの記録は臨場感があふれていますね、だからこの孔子が老子に礼を問うというのは実話だということになるでしょうか。リアリティを重視する人は実話だと思うでしょうね。ただこの話を作った人が自分の似たような体験などを元に創作した可能性も捨て切れないかも知れません。

次に『老子道徳経』の書かれた経緯が載っています。

「老子修道徳、其学以自隠無名為務。居周久之、見周之衰、乃遂去、至関。関令尹喜曰「子将隠矣。強為我著書。」於是老子乃著書上下篇、言道徳之意五千余言而去。莫知其所終。或曰、老莱子亦楚人也。著書十五篇、言道家之用。与孔子同時云。蓋老子百有六十余歳。或言二百余歳。以其修道而養寿也。自孔子死之後百二十九年而史記周太史儋見秦献公曰「始秦与周合、合五百歳而離、離七十歳而覇王者出焉。」或曰、儋即老子。或曰非也。世莫知其然否。老子、隠君子也。 」
「老子は道の徳を修め、その学は自ら隠れて、名を挙げることもなく,務めを為した。周に居て久しかったが、周が衰えるのを見て、立ち去って、関を通ろうとしたら、関の役人の尹喜が言った。「先生将に隠れようとされるのですね。どうでも私のために書を著してください」ここにおいて老子の著書は上下篇で、道徳の意味を五千余言で語って、去ったのである。どこで亡くなったか知られていない。あるいは曰く、「老莱子も楚の人である。著書は十五篇あり、道家の用を語った。孔子と同時代とされる。けだし老子は百六十歳あまり。あるいは二百歳あまりとも言われる。その道を修めることで長生きしたということだ。「孔子の死よりの後百二十九年にして、史記に周の太史儋(たん)の秦の献公に見(まみ)えて曰く、『始め秦は周と合ひ、合ひて五百歳にして離れ、離れて七十歳にして霸王なる者出でん』と。或ものは儋は即ち老子と曰ひ、或ものは非なりと曰ひ、世に其の然否を知る莫し」(隷釈巻第三参照)
http://homepage.mac.com/two_yossy/fang-hu_island/03-sibu/101-reishaku/03-0-text_02.html

 周が衰退したので、老子は周の役人を辞めて関所まできたところで、尹喜という関の役人に隠世する前に著書を私の為に書いてくださいと頼まれて、五千余字の『老子道徳経』を書いたわけです。五千余字は四百字詰め原稿用紙12.5枚に過ぎません。でも当時は竹簡に書いたのでかさばったでしょう。それから立ち去って、どこで死んだか分からないということです。隠世家ですから、ひっそりと暮らしていたのでしょう。

 ただ老子の方が孔子より年上だと、孔子より早く死にそうですが、それでは困るのです。というのが『老子道徳経』は後から書き直したり、書き足したりしているらしくて、戦国末に初めて遣われたと思われる言葉がでてくるのです。そのせいもあるのか老子は百六十歳あるいは二百歳あまり長生きしたという説が紹介されているのです。

 周の太史儋(たん)が秦の献公(在位前385〜前362)と話していますが、この儋が老子と同一人物かどうか説が分かれています。もし同一人物なら孔子は紀元前551年生まれ‐紀元前479年没とされていますので、老子が孔子と同年齢としても234歳以上生きたことになりますね。

 そこで老子は長生の代表みたいになり、神仙思想では太上老君と呼ばれ不老不死の神として崇拝されることになるのです。もちろんただ長生きしたから崇拝されるのではなく、道教の聖典として『老子道徳経』が尊ばれていることによります。聖典といいましても教義として道教を制約しているわけではありませんが。

 ただ老子が実在したかどうかは『老子道徳経』が一貫した独りの人間の思想で書かれていますと、その内容からそれを書いた人が老であったかどうかは別にして、著者である老子は実在したことになりますね。その意味では私の感想ですが、複数の道家の思想や文を集めたとしても、一人の人間が書いた著作だと思いますね。
 

二、大道廃有仁義

 大本の道を忘れて仁義立て、別愛兼愛かまびすしいかな

 老子の「道」と孔子の「道」は違います。「大道廃有仁義」とありますが,本当の道が廃れたので「仁義」というこれが「道」だいわれるものが作られた,という意味です。ですから儒家の「道」は贋物だと排斥したのです。排斥したのは儒家だけじゃありません。墨家も「義」を盛んに説いて,「兼愛・別愛」論争が盛んでした。博愛主義に徹する墨家に対しは,楊朱が「自分の為でなければ髪の毛一本も動かさない」という極端な利己主義で対抗します。これを揚墨論争と呼びます。こうした「道」にまつわる様々なかまびすしい議論自体が,無用の対立を生み不毛の議論に終わるのです。それが結局は世の中の争いと結びつきます。

 そこで本当の「道(タオ)」というものは人間が対象的にこうだと規定できるものではないと主張して,「道」自体を体得すべきものとして捉えたのが道家の立場だったのです。対象的に捉えないで,体得するとは例えば「水練」みたいに強いて訓練的に体得しようというのではありません。「無為自然」を強調しますから,怖がらずに自然に身を任せれば泳げるということです。自然と自分を対峙するんじゃなくて,自然と融合すれば良いのです。「人為」的に何かをしようと身構えないことが大切なのです。

 孔子の場合,周礼の復活を目指して,どうしたら各人を礼に到達させられるかという目標がありました。その意味では人為的だったのです。道家は文明それ自体を人為として退けて,自然にかえり,自然のままに生きることにテーマを見出したのです。もちろん自然の情に逆らって、自分も他人も、自分の親も他人の親も同じように愛すべきだというような墨家の兼愛思想も、それを無理強いするのは大反対です。

 自然のままに生きている獣たちは儒家のように家族愛を教えなくても,家族で仲良くしたいものは仲良く助け合っているし,家族を大切にする余り共食いするなんてこともありません。自然の摂理によって種の保存をはかっています。それを別愛か兼愛かの二者択一の問題にするから,無用の争いが起きるんです。

 ではその箇所を見てみましょう。

「大道廃有仁義,慧智出有大偽,六親不和有孝子,国家昏乱有忠臣」を訳してみます。
「(読み下し)大道廃れて仁義有り、慧智出でて大偽有り,六親和せずして孝子有り,国家昏乱して忠臣有り」
「本当の道が廃れてしまったので,仁義などというでっち上げの道が説かれるようになった。さかしらな智恵が幅を効かして大嘘が罷り通っている。親族が仲違いをするから孝行息子が殊更に褒めそやされる。国が下剋上等で乱れてしまったので,忠臣が立派だと思われる。」

 「仁義」というように、「仁」と「義」をまとめて遣うのは、孟子以来なのです。ですから『老子道徳経』は戦国時代半ば以降に成立したことになります。ただしここで学問的には「偽」の意味でひっかかります。何故なら『老子』は『荀子』より古いとされているのですから,「偽」は、「偽り」ではなくて,「人為」の筈だからです。でも文脈からみて「偽り」としかとれません。盛んに加筆訂正が行われたと見られていますから,後代に「大道廃有仁義」の後に「慧智出有大偽」を充実させたのだろうと推測されます。

 1993年に、郭店一号楚墓(かくてんいちごうそぼ)から『老子』の原本が出土しました。それは紀元前300年頃のものですから、後代の加筆訂正説もそこまでで、秦や前漢まではいかないようです。ところがその竹簡を見て、これは前漢のものだとする人もいます。でもそれ以前のものは出ていないのにどうしてそう言えるのでしょうね。荀子は生没年は、紀元前313年? - 紀元前238年?と言われていますから、「偽」が「人為」でなく「偽り」の意味になったのが『荀子』以降とすれば、『荀子』の刊行は前漢末とされていますので、ややこしいことになります。ただ議論自体は戦国時代に行われていたわけですから、戦国時代に「偽り」の意味で「偽」が使われていても不思議はないでしょう。

 『老子』では、「仁義」や「忠孝」という儒家の型に嵌まった人為的な人の道が間違っていると言うのです。そういう言葉によって「仁義」の為,「忠孝」の為と人は「善行」に励み,さかしらに基づく人為を重ねて文明や国家を築き,揚げ句の果ては果てし無い醜い争いを繰り返すようになりました。だから,次の文に続きます。

「絶聖棄智,民利百倍,絶仁棄義,民復孝慈,絶巧棄利,盗賊無有」
「(読み下し)聖を絶ち智を棄れば,民利百倍す,仁を絶ち義を棄れば,民孝慈に復す,巧を絶ち利を棄れば,盗賊有る無し」
 「聖人君子など根絶して,彼らが説いたさかしらな智恵など棄ててしまいなさい。そうすれば人民の利益は百倍する。仁者と呼ばれる善人ぶった連中を根絶し,正義を振りかざすのをやめなさい。そうすれば人民は自然に両親を大切にし,人を慈しむようになるんだ。文明を生み出す技術者を根絶し,富を生む基になる儲けを棄てなさい。そうすれば盗賊なんかでてこない。」

 文明を否定し,その元となる欲望を少なくすることを説いて,「小国寡民」を良しとしています。 小さな村に住み、隣村に行く船はあるけれど滅多に使いません。文字も縄目文字ぐらいで、自然に稔るものを食べ、田を耕したり、井戸を掘ったりしないわけですね。川まで水を汲みに行けばいいわけです。要するに鳥や獣たちの生活に理想を見出しているのです。そこまで割り切っていますと、文明のしがらみによって仕方ないとされていたことでも、相対化でき、超越的に批判できるわけです。

 現実の戦国時代は戦争を終わらせ,天下を統一させる方法を求めていたので,『老子道徳経』のような隠世的な思想はやる気を失わせるので,排斥されると思われるかも知れませんが,実際は『論語』などでも隠世家にはかなり好意的です。隠世的な思想は,義や智を争うのではなく,義や智そのものを相対化する働きを持っています。必死になって守ろうとしている義をいったん無意味なものとする事によって,発想の転換や局面の打開が可能になるんです。

 それに建前によって見失われていた,自然のままの本音の解放も可能になります。融通無碍に物事へ対応しなければならない時には,隠世的な思想が大いに参考になります。だから同一人物が口では儒家の言を唱えながらも,実際の心の内や行動では道家の言に従う場合もあり得るのです。特に浪士は,一方で学問や武芸に励みながら,他方で精神安定の為に道家に親しまないとやり切れなかったでしょう。

三、道(タオ)とは?

 欲離れ道と一つになりて観るそこにあらわる妙にふるえよ

 ところでそもそも「道(tao)」とは何でしょう?書き出しに

「道可道,非常道,名可名,非常名,無名,天地之始,有名,万物之母,故常無欲,以観其妙,常有欲,以観其徼,此両者,同出而異名,同謂之玄,玄之又玄,衆妙之門」
とあります。先ず最初から読めませんね。「道の道とすべきは,常の道にあらず。」でいいのでしょうか?「道の言うべきは常の道にあらず。」と読む解釈もあります。「道」は動詞だと「言う」という意味になります。どちらも主旨は同じ様なものです。
「道はこれが道だと語れるようなものではない。語ってしまえばそれはもう不変の道とは言えない。」続く「名可名,非常名」も同様に「これが正しい名だと名付けられるような名は不変の名とは言えない。」という意味でしょう。

 正しい名を付ける事が世の秩序を正しくする根本だと考えた荀子のような人々は,名実一致を追求しました。しかし道家では対象化され,名付けられた事物は,事物の本来の姿ではないんです。本来の姿は主・客未分化な事態としての「道」だというのです。だから対象化できず,従って名付けられもしないものです。ですから,名実一致を巡って言い争うのはナンセンスだと主張しています。

「無名,天地之始,有名,万物之母」は「名状しがたい渾沌から天地が出現した。物事を対象的に区別し,名付ける事によって万物が生まれる。」と解釈します。

 「故常無欲,以観其妙,常有欲,以観其徼」はこう解するのが正しいでしょう。「だから常に無欲によって主観・客観の区別を去って始めて,道を感得して,『妙』を観ることができる。常に欲があって支配すべき対象として物事を外から捉えようとすると,その外面(そとづら)である『徼(きょう)』しか観ることが出来ない。」

 「此両者,同出而異名,同謂之玄,玄之又玄,衆妙之門」はこういう意味です。「主・客未分化な無名も,客観的に物事を区別する有名も,同じものの働きから出ている。その働きの違いによって名を異にするのだ。この同じものを,何が何だか名付けようがないから『玄』つまり『真っ黒け』としか呼びようがない。その玄が出てくる元の玄からありとあらゆる『妙』が出て来るんだ。」

 「道」は,何もかも其処から生じ其処に帰る大本であると同時に,現実に様々に起こっている出来事の総体でもあります。人間はそれを己のちっぽけなさかしらや浅ましい欲望から,あれこれと解釈して,自分の都合のよいようにと考えるから,ああでもない,こうでもないと議論して争うことになります。「道」はそんな思惑や期待などは全くお構いなしで「不仁」です。王たる者は,この「道」に逆らわずに,欲望やさかしらを去って,「無為自然」に振る舞えばよいのです。そうすれば,人間の本来の自然である「道」のままに,その雄大な営みを楽しむ事が出来るということです。

 ところで「無為自然」に振る舞うというのはどういう事でしょう。欲望を否定的に扱っているので,何もしないでぼうっとしているのが良いような印象も受けるかも知れませんね。欲は「道に逆らって,勝手な欲望を実現させようとする事」を意味すると解釈すべきです。「上善は水のごとし」なのです。

 何もしないのではなくて私心なく,皆のために尽くしてしかも,人と争わないで,人の下に回る。これを「不争謙下」と言います。そういう人こそ政治を善く行い,物事を立派になし遂げることが出来るといいたいんです。だから決して消極的な人間を理想化していたわけじゃないんです。  

 

四、荘子の鵬鯤説話―万物斉同論

 燕雀に鵬の心は分かるまじ、九万里のぼり地を見る心を

  『老子道徳経』と『荘子(そうじ)』では同じ道家でも道(tao)に関する捉え方はどう違うのでしょうか。司馬遷の解釈では本体としての道の把握は同一です。でも福永光司の解釈では次のように違っています。

老子の道―静的な本体論的な実在が道(自然のままの全ての存在の本来の姿としての道です。太古樸素の道への復帰が説かれていて後ろ向きなのです。
荘子の道―刻々流転してやまぬ変化そのものが道です。道と共に往き変化に乗って遊ぶ逍遙遊」が理想の境地です。ですから今をいかに生きるかが説かれていて前向きです。

 これは「無為」についての捉え方にも言えます。
老子の無為―外に対する態度としての無為を説きます。処世の智恵として無為が保身に最上なのです。
荘子の無為―内なる心の無為,つまり無心を説いています。生きているということを忘れ,身の束縛を捨てて自然のままに生きる解脱の智恵としての無為を説いているのです。いわば「絶対的な生」の立場なのです。

 荘子の特徴は万物斉同論だと言われますが,万物は皆等しく同じだというのはどのように解釈すればよいのでしょうか。物事や行いの是非についてかまびすしい議論が儒墨間でなされていました。これに対して現実の矛盾や対立,是非,善悪はより大きな立場から見れば,どちらでも良いことで,その違いなど好悪愛憎の妄執による狭い了見から生じた分別知の産物に過ぎないのです。

「北冥有魚、其名為鯤、鯤之大、不知其幾千里也、化而為鳥、其名為鵬、鵬之背、不知其幾千里也、怒而飛其翼若垂天之雲、是鳥也、海運則将徙於南冥、南冥者天池也、斉諧者、志怪者也、諧之言曰、「鵬之徙於南冥也、水撃三千里、搏扶搖而上者九万里、去以六月息者也。(中略)
「北冥に魚あり其の名を鯤となす。鯤の大きさ、其の幾千里なるかを知らざるなり。化して鳥となる。その名を鵬となす。鵬の背は其の幾千里なるかを知らざるなり。怒りて飛ぶにその翼は垂天の雲のごとし。この鳥や海運けば即ち将に南冥にうつらんとす。南冥とは天の池なり。斉諧は、世の不思議を 記した書である。その書の言に曰く、「鵬の南冥にうつるや、水に撃つこと三千里、扶搖をうちてのぼる者九万里を去りて、六月を以て息うものなり」

 北の果てなる暗い海に魚がいて、その名を鯤(こん)とい います。鯤は元来魚の卵を指していますが、ここでは大きい魚の名を表しているのです。つまりすごく小さ魚の卵で巨大な魚を意味させているわけですね、これは大小の区別に拘らない、万物斉同論だからです。

 
鯤の大きさといったら、いったい何千里あるやら分かりません。この鯤が変身して鳥にな りますと、その名を鵬(ほう)といいます。その背中は、何千里あるやら分かりません。この鳥が勢いよく羽ばたいて飛び立つと、その翼はさながら大空の果てまで垂れこめた雲のよう です。この鳥は、海が大きくうねりだすとき、南の果てなる暗い海めざして移りゆこうとします。

 南の果ての暗い海とは、「天の池」なのです。斉諧は、世の不思議を 記した書ですが、その書によれば、「鵬が南の果ての暗い海に移るときには、海原を三千里ほども羽打ちたたくと、つむじ風をとらえて九万里の高みに舞い上がって去り、六 ヶ月して(やっと)息をつくのです。」


 鯤が三千里もの大きさの鵬になって遙か上空に舞い上がるとすべての事物の区別,是非の相対性が明らかになり,絶対的な一が実感される のでしょう。これがこまかいこと、くだらないことでピイチクパーチク議論している燕雀には理解しがたい「真人(道と一体化した人)」の境地なのです。

 あれとこれ,大小,生死,可不可,是非は相関的で相対的だから根源的には同じものです。だから「天地一指也,万物一馬也」と説かれます。あらゆる妄執は自分および自分の身体に固執していることから生じます。それらから自由になることを荘周は,次の「胡蝶の夢」の詩に託しています。
 

五、胡蝶の夢

 周ならば夢で胡蝶になりもしょが胡蝶が夢で周になるとは

 「昔者荘周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺則遽遽然周也。不知周之夢爲胡蝶與。胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶則必有分矣。此之所謂物化。」
「(読み下し)昔は荘周,夢で胡蝶たり。 栩栩然として胡蝶なり、自ら喩しみて志に適えり。知らず周なるを。俄然として覺れば則ち遽遽然として周なり。知らず周の夢で胡蝶たるか、胡蝶の夢 で周となるかを。周と胡蝶と則ち必ず分有り。これこのいわゆる物化なり。」

 昔、荘周は夢を見ました。夢でひらひらとして胡蝶になっていたのです。自分で楽しんで志に適っていた ようですね。胡蝶をみてあんなふうにひらひら舞い飛びたかったのでしょう。自分が荘周だということもすっかりわすれていました。でも俄に目覚めればまぎれもなく周 です。周の夢で胡蝶になったのか,胡蝶の夢で周なのか、どっちでしょう。それはわかりません。それが周と胡蝶とは まったくちがいますね。このように周と胡蝶という全く違ったものに、自由実在に化(かわ)ることを「物化」というのです。

 「夢で胡蝶になって楽しんでいた」というのはありそうな夢ですが,「胡蝶の夢で荘周」という発想は凄いですね。夢と現実の区別も,胡蝶と荘周の区別同様相対的なものになっています。

 ところで「物化」というのはどういう意味でしょう。本来一つの事態,道であるのに胡蝶や荘周という物に分けて,その区別に固執する事を意味しているのでしょうか。その解釈は現代哲学の認識論で,主観・客観図式を超克しようとする人が,第一義的存在は事態で,物は事態を主観・客観的な図式に当てはめて説明するために,便宜的に用いているに過ぎない機能的な概念だという主張と一致します。

 道家の立場は確かに主観・客観図式を超克しようとする点では,現代哲学の物化論と共通します。でも「物化」概念は,福永光司によるとむしろ正反対です。荘周は,「物化」を「いっさいの存在が常識的な分別のしがらみを突き抜けて,自由自在に変化する」事と捉えているそうです。 (福永光司『中国古典選7 荘子内篇』朝日新聞社)

六、無用の用

 無可有の里に植えたる樗の木その大木の許に憩へや

 「万物斉同論」と並んで,荘周は「無用の用」を説きました。これは無用なものでも使い途が有るという意味よりも,むしろ無用と思われているからこそ真の用がある,という意味です。

 大き過ぎて使えない瓠(ひさご=瓢箪)を恵施は棄ててしまいますが,荘周なら江湖に浮かべて船にして遊びます。節くれだって材木として使えなくて大木になってしまった樗(あうち)は何にもない郷に植えて,その下に憩うのです。有用なものは若くして伐られ ますが無用なものは永らえて真に有用なものになるのです。

 瓢箪は伏羲と女媧の洪水神話で出てきましたね。洪水の時に瓢箪をカプセル舟にして生きながらえるわけです。でかい瓢箪というのも使い道はあるわけです。というより人類の存続にとつて必要不可欠だったということですね。神話で羲和の扶桑の大木の話がありましたね。桑の木は葉を蚕に食べさせるために、背が高くならないようにしていますが、放っておくと扶桑の大木になって太陽を干したり、そこから太陽が昇る木になるわけですから、もし桑が 樗のように無用の木だったら、扶桑の大木になって、無用の用のたとえ話に使えるのにということですね。

 また足切りの刑をうけた者や無類の醜男,びっこでせむしでみつくちを登場させ,形骸や有用性にとらわれない生き方に共鳴しています。戦国の世の中に自分の徳や才覚を示し,物事の是非を論じて正義貫こうとすることほど殆い事はありません。 だから政争から身を引いて隠れて生きながらえる隠世家の生き方こそが無用の用に適っているんです。

 狂接輿という隠世家に孔丘(孔子)が次のように警告されています。すごい名文ですから,よく味わって下さい。

「鳳兮鳳兮,何如徳之衰也。來世不可待,往世不可追也。天下有道,聖人成焉。天下無道,聖人生焉。方今之時,僅免刑焉。福輕乎羽,莫之知載。禍重乎地,莫之知避。已乎已乎,臨人以徳。殆乎殆乎,畫地而趨。迷陽迷陽,無傷吾行。吾行郤曲,無傷吾足。山木自冦也,膏火自煎。桂可食,故伐之。漆可用,故割之。人皆知有用之用,而莫知無用之用也。」
「(読み下し)鳳や鳳や,何ぞ徳の衰えたるや。來世は待つべからず,往世は追ふべからず。天下道有らば,聖人成し。天下道無くば,聖人生く。方今 の時,僅に刑を免るるのみ。bヘ窒謔閧珸jきに、之を載するを知る莫く、禍はひは地よりも重きに、之を避くるを知る莫し。已(やみ)なむか已 なむか,人に臨むに徳を以てす。殆ひかな殆ひかな,地を畫して趨(はし)るは。迷陽迷陽,吾が行くに傷無し。吾が行くに郤曲(きゃくきょく),吾 が足に傷無し。山木は自ら冦(あだな)し,膏火は自ら煎(や)く。桂は食可きが故に之を伐り。漆は用ふ可きが故に之を割く。人皆有用之用を知りて,無用之用 を知るなし。」

 現代文に直してみましょう。
「鳳よ鳳よ,(治世には現れて乱世には隠れる瑞鳥の筈なのに,こんなに不用心に現れてくるとは)何とお前の徳の衰えたことか。
将来に望みを託したり,過去の追想に耽っても仕方がない。
天下に道があれば,聖人は王道政治を成し遂げるが,天下に道が無ければ,聖人は隠れて一人で生きたものだ。
まさに今の争乱の時代は,刑罰から免れるだけでよしとしよう。
そう悟れば,幸福は羽より軽いのに,これを拾い上げる術を知らない。
禍いは地より重くのしかかるのに,これを避ける術を知らないのだ。
止しなさい,止しなさい人に徳を示し,教えるのは。
殆いよ,殆いよ,地面を区切って,その中を走るというような規範主義の考えでは。
馬鹿に成れ,馬鹿に成れ,そしたら怪我をすることはないだろう。
後退し迂回して進んで行けば,自分の足に傷はつかない。
山の木は有用なので伐り倒されて自ら禍を招き,膏火は明るいので自ら身を焦がす。
肉桂は食用になるから伐採され,漆は塗料となるから割かれるのだ。
人はみな有用の用のみ知って,無用の用を知る者は誰も居ないのだ。」

七、坐忘問答

 身をやぶり形を離れて大いなるタオに抱かれ真人とならんや

 荘子は理想的人間像として,聖人君子に代わって「真人」を説いています。道に一体化した人格が真人です。真人は世間の塵にまみれても,精神は超絶しています。天と地が渾然と融和している人格です。

 そこで真人の治は「刑を以て体と為し,礼を以て翼と為し,知を以て時と為し,徳を以て循(みちびき)と為す 」とされます。その意味は「やすらかに殺し,世間の慣習に従い,時の妥当性を判断し,自然のままに治める」ということです。もっともこの部分は後世の法家思想との折衷が感じられます。だから荘子自身の思想ではないとも言われています。

 荘周は,また禅に通じるような「坐忘」という言葉を考え出しました。「坐忘問答」として知られています。それは顔回と仲尼(孔子)の問答になっている のです。儒家が道家の神髄のような事を語るのはイロニーとも取れるますが,建前の部分を儒家が,本音の部分は道家が代弁したとしますと,孔子の本当に言いたかったのはこれだというのが,荘子の孔子への思いかもしれません。

「顔回日。回益矣。仲尼日。何謂也。日。回忘仁義矣。日可矣。猶未也。它日復見日。回益矣。日。何謂也。日。回忘禮樂矣。可矣。猶未也。它日復見日。回益矣。日。何謂也。日。回忘坐忘矣。仲尼蹴然日。何謂坐忘。顔回日。堕枝體。黜聰明。離形去知。同於大道。此謂坐忘。仲尼日。同則無好也。化則無常也。而果其賢乎。丘也請従而後也 」
顔回「回は進歩しました。」  
仲尼「どういう意味だ。」 
顔回「回は仁義を忘れました。」
仲尼「よろしい,でも未だ足りない。」
他日又会って 顔回「回は進歩しました。」  
仲尼「どういう意味だ。」 
顔回「回は禮樂を忘れました。」
仲尼「よろしい,でも未だ足りない。」
他日又会って 顔回「回は進歩しました。」  
仲尼「どういう意味だ。」 
顔回「回は坐忘しました。」  
仲尼改まって真剣に「坐忘とはどういう意味だ。」 
顔回「身体への拘りを棄て,さかしらな人智を斥け,形を離れて対象的な知を去ります。そして大いなる道と合一するのです。これを坐忘というのです。」
仲尼「道に合一すれば物事を対象的に捉えて好んだり憎んだりすることはない。また自分の身体的な限界を越えて他のものと一つに化することができるなら,囚われことはなくなる。而(なんじ)は果たして賢者だ。私は而の教えを請うことにしたい。」  

 荘子は道家であり、儒家の型にはまった考え方では駄目だと考えているわけです。まず仁義という儒家の中心思想を忘れさせます。思いやりや真心でやっていけるのか、そんなことに囚われていて、本当に自分がやらなければならないことから気を逸らしているのではないかということですね。ニーチェはキリスト教の隣人愛は、十字架のように我々を束縛して、それぞれが人間の限界に挑戦することを出来なくしていると叫びました。

 次の段階は礼楽を忘れることです。礼楽を整えることによって周の社会秩序を取り戻すという儒学の目標を放棄したことになります。それでもまだ足りないと孔子は顔回に応えます。そしてついに坐忘したというのです。

 この坐忘の境地がまあ覚りですね。仏教の禅と似ています。当時はまだ仏教は入っていませんから、逆に、中国仏教の禅はこの『荘子』の坐忘の影響を受けているのです。ですから仏教思想史の観点からも老荘思想は大きな意義を持ちます。大乗仏教の成立にヒンドゥー教のプルシァ説話が影響しているのではないかと言いましたが、仏教も仏教だけで捉えてはいけないということです。道教は仏教と対抗関係になりますが、そのせいかもしれませんが、老子が周を去り行方知れずになったのですが、インドに行って釈迦になったという説話も 道教にはあります。

 坐忘は、近代の認識論の用語を使えば、主観・客観認識図式を超克しているわけです。これは西欧近代の文明や思想を超克するのは、物事を客観的に突き放して認識し、本質や法則性を認識することで自然を支配するという認識のあり方を乗り越えようという問題意識です。

 デカルトに代表される主観・客観認識図式では、認識されるものは対象化された事物で、それを主観の意識が概念的に把握して認識するのですが、その際、前提 になっているのが、主観が意識であり、客観が事物だということです。それで客観的な事物間の関係が法則的に認識できるとされます。

 これを超克するというのは、事物というのも実は感覚で捉えられたもので、それ自身感覚を材質にした意識のまとまりにすぎないではないかというのです。つまり事物も意識には違いないので、意識の他者としての事物ではありえないというのです。だから主観と客観を意識と物質という二元論では捉えられないということになります。これが実在をすべて意識に還元する議論ですね。ドイツ観念論や現象学として現れます。ただしドイツ観念論は、事物を結局は意識に取り戻すのですが、さしあたりは意識の他者として意識とは正反対の事物の姿で現れるので、これを主・客図式で認識することで意識に還元するので、その意味では主観・客観認識図式は残ります。最初から事物は意識現象でしかないという唯心論でいくとフッサールの現象学になるわけです。

 坐忘は、意識と事物の対置を棚上げにします。物事を形や概念で理解するのではありません。また物事と身体とがどう関わっているのかというような対象関係を問題にするのではなくて、起こっている事態や体験を感じ取るわけです。存在の底からの動きと一つになるというような捉え方ですね。まあ理屈や言葉ではうまく説明できないけれど、突き上げてくるような時代の流れ、こみ上げてくる感動や恐怖感、不安感があって、それが行動に駆り立てますね。そして行動していることによって体感する真実や分かることがあるということですね。そういうのものの方が、客観的な事物の法則的認識よりも大事なのだということが言いたいわけでしょうね。

 人間はつい自分を自分の身体やそこに宿る人格に限定してしまいがちです。身体的な束縛や、私利私欲に囚われて、小さな自分の殻に閉じこもってしまいます。せいぜい家族や所属する企業や団体や地域の狭い利害に囚われて、大切なものを忘れがちですね。その意味で身体や私欲や物の形や外面的な知識を離れて、大いなる生命と一つになって生きることの意義を唱えた荘子の考えは、我々に生きることの意味を考え直させてくれ、生き直すきっかけを与えてくれます。すでに熟年に達している我々はこれから、本当に生きなければならないのです。一日一日を大切に花を見れば、花になり、風を感じれば風になる、生き物にも子供たちにも、後を託す地球の命たちにも心砕いて、生き生きと生き切ることが大切です。それを覚らせてくれるのが坐忘です。むつかしいですが、じっくりかみしめたいですね。