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                                               中国思想史講座

                  
 

23.中国革命の父―孫文―
やすい ゆたか

 

一、生い立ち


 

 

   孫文(一八六六〜一九二五)といえば、日本では辛亥革命の指導者であり、中国国民党の創設者であり、容共・連ソ路線をとって、中国統一を目指すも、道半ばで病没した、中国革命の父という印象で受け止められています。字は徳明。号は逸仙・中山。中山樵・高野長雄という日本名を使用していたこともあります。

一八六六年に珠江デルタの広東省香山県(現中山県)の翠亨村の貧しい小作人の家に生まれました。裸足で歩き、食事は甘藷が主食だったようです。農業だけでは食べていけないので、漁業や行商や出稼ぎに行く人が多かったようです。

孫文の叔父二人はカリフォルニアの金鉱で働いていました。そして十二歳年上の長兄孫眉は一八七一年にハワイに移民しまして、農園の労働者からたたき上げて、マウィ王と呼ばれるぐらいに成功したのです。

そこで十三歳の年、一八七八年に兄孫眉を頼ってハワイに渡り教育を受けました。

「始めて輪船の奇(ふしぎ)、滄海の濶(ひろき)を見て、これより西学を慕うの心、天地を窮めんとするの心あり」

と手紙で回顧しています。彼はオアフ・カレッジに進みましたが、キリスト教に入信しそうになったので、中国人の生活に固執していた兄と対立が生じて、五年ぶりの帰国を余儀なくされたのです。

さあ、ハワイから帰った孫文青年にとって、迷信と停滞、官吏の誅求と地主の搾取という故郷翠亨村の現実は我慢ならないものだったのです。そこで友人、陸皓東(りくこうとう)と共に村廟である北帝廟で、多数の参拝者の目前で神像を倒して腕を折り、金花夫人像の手指を切断してしまったのです。まるで洪秀全気取りですね。

啓蒙してやろうとすることはいいのですが、それなら地道に学校や社会教育を通して、科学的合理的な考え方を説いていかなければいけません。いきなりみんなが大切に信仰しているものを潰してしまったのでは、人の想いを踏みにじることですから、反発されるだけです。

特に外国で教育を受けて、西洋かぶれして中国の土着の信仰を馬鹿にしたとなると、それでなくても欧米の植民地主義、帝国主義には頭に来ているのですから、その手先になってしまったと思われてしまいます。両親がひたすら侘びを入れて、十両を出して神像を修復して何とか騒ぎを収めたのです。結局孫文は村に居れなくなって香港で勉強することになりました。一八八三年のことです。まだ孫文は十七歳でした。ちなみにその年末に陸皓東と香港の組合派教会Congregational Churchで洗礼を受けたのです。

 

写真

 結婚、医学生、四大寇


 

盧慕貞                     次女孫金琬    長男孫科      長女孫金琰

翌年、早婚を善しとする父親の命に従って、同郷の盧慕貞(一八六七〜一九五二)と結婚しました。長男孫科、長女孫金琰、次女孫金琬が二人の間に生まれましたが、一九〇〇年の恵州起義以降別居が続き、翌年協議離婚しています。正式には一九一五年に離婚し、二十二歳の宋慶齢と結婚しています。

その前に一九〇四年に大月薫(十六歳)と正式に結婚しましたが、その年に日本を離れてから再会していません。薫には翌年文子が生まれましたが、音信不通で戻ってきそうにないので、親が薫を他家に嫁に出してしまい、養女になったので後に富美子に改名したそうです。それ以前にも日本人の少女との関係があったようで、こういうのは少女趣味というのでしょうか、ロリコンかもしれません。

話を戻します。ベトナムの支配権をめぐって清仏戦争(一八八四〜一八八五)が起こります。後年孫文はこう語っています。「私は、乙酉(一八八五)年、清仏戦争に敗れた年に、はじめて清朝を打倒し、民国を創建しようと決意した。」この戦争では、ベトナムとの国境地帯にいた清帝国と対立する劉永福の軍閥・黒旗軍が健闘したのですが、清軍はふがいなくて、結局負けてしまったので、漢人の多くがそう感じたとしても不思議はありません。

一八八六年に中央書院を卒業しまして、医者になる決心をし、広州の博済医院付設の医学校、そして香港の西医書院に転校しました。その院長兼外科主任のカントリーに人格と才能を認めてもらい、のち命を助けられます。

西医書院に五年間学びましたが、その間政治改革について若い仲間と語り合っていました。陳少白、楊鶴齢、尤列と孫文を世人は「四大寇(四人の謀反人)」と呼んでいたそうです。

楊鶴齢      孫文           陳少白     尤列

 農業を経とし、商業を緯とする


 

一八九〇年に駐米大使を務めたことのある鄭藻如(一八二四〜一八九四)に意見書を送り、農業の振興、アヘンの害悪根絶、人材育成で具体的行動を取りたいので、発起人になってくれるように要請しています。

一八九一年には「農功」という農業振興のための論稿を認めました。農業政策の確立、農業技術の向上、西洋からの技術導入を論じています。

「けだし、天が民を生んでその君を立て、朝廷が官を設けるのは、民のためである。いま民の上に暴威を振っているものは、民の去来や生死を、まるで秦人が越人の豊凶をみるがごとく無関心である。天下、見わたすところすべて流民、路には盗賊が満ちあふれるという状況にも、何の不思議があろう。農業を経(たていと)とし、商業を緯(よこいと)とし、本末が完全に備わり、大小がすべて充実する。これこそ強兵富国の先声であり、治国平天下の枢杻(キー・ポイント)である」

 

この「天」は中国伝来の「天帝」のことですから、それをキリスト教の唯一絶対神と同一視しているところは洪秀全と同じです。そしてこの時期の孫文は農業を富国強兵の基礎と考えています。清朝政府は当時洋務運動に力を入れていまして、軍需工場を作り、機械工場、製鉄工業、汽船や汽車の導入なとを行なっていたわけですが、農業振興は立ち遅れていたわけです。農業生産力が向上してこそ、工業の原材料が提供でき、農業から工業に労働力も回せるようになって工業が発達できるという大原則を述べているのです。

工業の近代化を優先し、そこで生み出される農業機械や化学肥料・農薬を使って、後から農業近代化を図るという方法では、工業に投資される原始的蓄積の資本を農民からの収奪によって賄うことになり、農民にとって大変残酷な犠牲が強いられることになります。孫文は貧農生活を体験しているだけに、先ず農業振興を優先させるべきだという発想だったのです。

 

 四、医術の限界、革命家への夢


 

  一八九二年に西医書院の卒業試験に合格して、医師の成れたのでマカオで中西薬局を開き、翌年広州で東西薬局を開きました。薬局といっても医院のようなもので、医者として診察していたわけです。東西薬局の評判はよく、分局を出すまでに発展しました。でも医師として人を救える数はしれています。中国の人民の惨状をみていれば、これを救うにはやはり政治の改革が必要だと痛感したのです。

「(医学を学んだのは) 医もまた人を救う術だったからである。しかし、さらに考えてみると、医術によって人を救うには数において限界がある。その他の慈善事業もまたしかり。最大の力があるものといえば、政治に及ぶものはない。政治の力は、大きな善をなしうるし、また大きな悪をもなしうる。わが国民の苦難は、すべてよくない政府がこれをもたらしている。もし国を救い人を救おうとすれば、劣悪な政府を打倒しなければいけない。かくて革命の思想がいつも心中に噴出するようになった」(一九一ニ年広州嶺南学堂にて)と回顧しています。

この捉え方は、政治家の責任の重さについての自覚から良心的に語っているつもりでしょうが、政治家や革命家のエリート意識が鼻につきますね。政治家は国家の変革や人民全体の幸福のために働いているが、医者は自分が治療できる限られた患者のためだけに働いているという発想です。これは間違った認識だと言いたいですね。

一人の医者がどんな治療をするのか、どんな医療実践や医学の研修をするのかは、医者全体に影響します。一人の患者を診るということは、同時に億千万の患者を診ることなのです。教師でも同じで、一人の生徒を教えていても、それは億千万の生徒を教えているつもりでないといけません。私が中国革命について、この熟年大学でどう語っているかは、世界中が見ているのです。中国の人も注目しているかもしれませんよ。

あらゆる職業に言えることですね。一人の客にラーメンを食べさせるということは、その客だけに作っているのではない、世界中の人に作っていると思うべきです。その意味では、オンリーワンの味のラーメンが作れたら、それはラーメン革命なのです。

在野にいて政治を語るときは、漢人の青年たちは、満州人にいつまでも支配されているのは嫌ですから、熱く革命を語ります。孫文たちは教会の礼拝堂や、広雅書局の南園抗風軒に集まって「駆除韃虜、恢復中華」をスローガンにする興中会の結成を誓い合ったようです。満州族を古い言葉で韃靼と呼んだのです。でも「四大寇」に後何人かでしょうから、組織を立ち上げるところまでは行かなかったということです。

しかし現実には自分たちの能力を存分に発揮して活躍したいという志を抱いていますから、清朝政府から取り立てられて、清国の建て直し、国民生活の向上に貢献できるなら官職に就きたい気持はもっています。それは洋務派官僚たちにしても同じことで、清朝に取り立てられているので、清国近代化に邁進していますが、下野させられて、自分の案が取り入れられなくなると、清朝では限界だと感じて、革命派に変身してもおかしくないわけです。

 

  五、李鴻章へ意見書を書き、面談を求める


 

一八九四年に、孫文は李鴻章に上書して政治改革を訴えました。しかし日清戦争直前の緊迫した情勢下で、在野の医師の改革案を検討する余裕など李鴻章にはなかったのです。

「そもそも私のかつてから考えるところでは、ヨーロッパの富強の根本は、そのことごとくが堅船・鋭砲・堅塁・強兵にあるのではなく、《人がよくその才を尽くし》《地がよくその利を尽くし》《物がよくその用を尽くし》《貨がよくその流を暢(とお)らしむ》ることにあります。この四事は富強の大道であり、治国の根本であります。わが国が宏図を回復拡充せんとして、つとめて遠大な計画を立て、西洋の方法に倣って自強をはからんとしながら、しかもこの四事の実現を急がず、ただ堅船・鋭砲のみを追い求めるのは、根本を捨てて末節を求めるものであります。」

そのために人材育成のための教育制度、農業振興、鉱工業振興、商業振興を説いています。この立論は、洋務運動に対する批判でしょうね。しかし李鴻章にすれば、それに気付いていなかったのではなく、清朝の現状ではこれができたことの精一杯であったということでしょうから、青二才が何を偉そうに教えを垂れようとしているのだと思ったでしょうね。李鴻章と面談を申し入れていたのですが、実現しなかったようです。

 檀香山興中会章程


 

李鴻章との接触に失敗し、いよいよ革命の拠点作りに乗り出します。革命拠点は、国内での蜂起に失敗した際に、海外に拠点があれば匿ってもらえるし、海外からの資金援助は革命組織にとって、貴重な財源だということもあります。それに海外に拠点があれば、各国の政財界とのつながりを作って、諸外国に革命への理解と援助得るためにも好都合だったのです。早速、その年の内に、兄や叔父たちのいるハワイで革命組織興中会を結成したのです。

興中会は秘密結社ですから、入会の際誓詞を読み上げます。「聯名人広東省香山県人孫文、韃虜を駆除し、中華を恢復し、合衆政府を創立する。もし二心あれば神明鑒察せん」と唱えました。孫文が草稿を書いた「檀香山興中会章程」の一部を紹介します。

「そもそも四億にのぼる多数の人民と数万里の広大な国土をもってすれば、もとより発奮して天下無敵の雄国となりうるはずである。しかし愚かな輩が国を誤り、人昏苦しめ、かくのごとき再起不能の極みに至らせている。現在、列強は虎視眈々ととりまき、中華の豊富な鉱産物ゃ豊かな物産に垂涎し、蚕食鯨呑の侵略をつぎつぎとみならい、瓜分(分割) の危機は目前に迫って、憂うべき事態にある。心ある人は、大声疾呼して、すみやかに人民を水火の苦しみから救い、まさに傾かんとする大厦(大きな建物〉を必死に支えないではいられない。」

当時ハワイには四万人の華僑がいましたので、亡国の危機を訴えて革命への支持をとりつけようとしたのですが、期待に反して数十人の賛成を得たのみであったということです。そうしているうちに、日清戦争での清国の敗北が決定的となりましたので、アメリカ本土への渡航は取りやめまして、香港に戻りました。

一八九五年香港でも興中会を組織します。孫文たちのグループと楊衢雲らの輔仁文社とが合併したのです。しかし、日清戦争での敗戦の動揺に乗じて広州義起を計画したのですが、不発に終わってしまいした。その原因としては、会長職をめぐって楊衢雲たちともめたこと、動員した戦力が自前のものでなく、既存の軍隊や秘密結社、アウトロー集団であったので、機密保持が出来なかったことなどがあげられます。

七、ロンドンで孫文が見たもの


 

日本・アメリカを経て、ロンドンに戻っていたカントリー博士のもとに身を寄せました。ところが清国の密偵が網を張っていまして、一八九六年十月十一日、突然清国公使館に拉致されてしまったのです。危うく袋詰めにされたまま香港に移送されそうになったのです。

身辺の世話にあたってくれた公使館雇員コールにカントリー博士に公使館に居ることを連絡してもらって、カントリー博士がマスコミを動かしてやっと釈放されたのです。そこで孫文は、“Sunn Yatsen, Kidnapped in London”(『倫敦被難記』)を著し、これが大評判を呼びました。孫文は中国の革命運動の代名詞的存在として一躍脚光を浴びることになったのです。

イギリスで二年間滞在し、大英博物館などで西洋事情を学びました。そこで近代化されたイギリスの現実が決してばら色ではなく、さらに社会革命を目指して活動している労働者たちの姿があったのです。

「ロンドンで難を逃れたのち、しばらくヨーロッパにとどまり、その政治風俗の視察を行い、また朝野の人士と交わりを結んだ。二年のあいだ、見聞するところ、ことに大なるものがあり、ヨーロッパ列強のように、単に国家が富強となり民権が発達しただけでは、まだ人民を極楽の世界に登らせることはできないこと、それゆえヨーロッパの志士たちは、さらに社会革命の運動をしていることを、はじめて知った。私は一労永逸(一度の苦労で永久に楽をする)計をなさんとし、民生主義を採用して民族・民権の問題と同時に解決しようとした。これが、三民主義の主張が完成したゆえんである」(『孫文学説』第八章〉

欧米列強による植民地化の危機を脱し、清朝の圧制を覆して民権を取り戻すと共に、富の分配を公平にして、人民の生活を安定させる民生主義が加わったということです。やはり孫文は幼い頃の極貧の生活を原点にもっていますから、欧米に行っても表面の繁栄だけに目を奪われるということはないわけです。

大英博物館でアメリカの経済学者ヘンリー・ジョージの土地単税論に関心を持ちました。社会発展と共に地代が高騰して地主が労せずして利益を得るので、土地にだけ重税をかけて、他の税は廃止しようという説です。孫文は「平均地権」を後に唱えます。それは地主に地価を申告させ、それに基づいて地税を課します。そして地価上昇による利益はすべて国家に帰属させるというものです。

八、日本での工作


 

一八九七年八月十六日に孫文は横浜に着きました。外国に亡命するにしても、中国から遠く離れていては革命工作になりません。やはり日本を在外拠点にしなければなりませんし、日本の政界、財界、ジャーナリズム、文化人の支援が不可欠になってきます。横浜で先に来ていた陳少白の寓居に落ち着きまして、そこに九月に宮崎滔天が尋ねてきたのです。

宮崎の『三十三年之夢』によりますと、次の四つが大事だというのです。堀川哲男著「」人類の知的遺産 孫文』六五頁より引用します。

「第一に、「人民自ら己を治むるをもって政治の極則なるを信ずる」がゆえに、共和主義を堅持すること。
第二に、現在の中国においては、満州族のたてた清王朝が政権を握り、人民への弾圧と搾取を行っているがゆえに、清朝打倒が先決問題であること。
第三に、「共和政体は支那の野蛮国に適せず」という一部の人々の言説とは逆に、「共和なるものは、我国治世の神髄にして先哲の遺業」であり、かつ中国の「僻地荒村」には共和の伝統が脈々と生きつづけていること。
第四に、中国革命は単に中国のためばかりでなく、アジアの黄色人種のためであり、ひいては世界人道のためであること、以上のごとくであった。」

 この説明に感動した宮崎は犬養毅ら有力政治家を紹介し、孫文は多くの日本人と親交を結ぶことに成功したわけです。それで以降の孫文らの革命軍に武器や資金を調達したり、日本人が革命軍に参加したりするようになります。これもあまり日本人に深入りさせると、日本の帝国主義的な中国侵略の道具にされかねませんし、かえって中国人民の反感をかうおそれもありますね。

一八九八年に戊戌変法と戊戌政変があり、康有為・梁啓超らも日本に亡命してきました、犬養毅宅や康有為宅で犬養毅・宮崎滔天・平山周の仲介による「救国」のための合作計画が進められました。康有為たちはいわば清朝政府にクーデターで放逐されたわけですから、革命路線に転進してもいいようなものですが、光緒帝が幽閉されたままですから、その救出が第一で、どうしても革命路線には踏み切れなかったのです。

それに康有為は儒学の伝統にたち、士大夫として民衆を統治するエリート的な立場に凝り固まっていましたから、人民自らが統治する政治とか、窮民を集めた民間武装集団である緑林まで革命軍に加えようとする孫文たちの発想は到底理解できなかったということです。

 九、義和団の乱と恵州起義の失敗


 

 一九〇〇年に反キリスト教の山東・直隷の暴動が義和団という大きな塊になって盛り上がり、「扶清滅洋」を掲げて北京に入ってきました。これに対して西太后は、義和団を支持して、 とうとう列強に宣戦布告するにいたりました。これに対して列強は北京に入城して北京を占領したのです。これを北清事変といいます。清軍ですら銃火器の使用に慣れていず、義和団にいたっては、その装備していた武器は刀槍がほとんどで、銃器を持った者などわずかしかいなかったそうです。

 それで当然列強の連合軍が勝利したわけですが、民衆が屍骸の山を築いても、列強の支配に抵抗した義和団の戦いは、欧米列強が中国を分割統治しようという目論見を見事に粉砕したと孫文は評価しています。

この動きに孫文たちは絶好の好機と捉えたのか、恵州起義を試みますが、失敗しました。これはイギリスの香港総督ブレークの支持や、日本からの武器調達や台湾からの兵員輸送なども含む大掛かりのもので、日本人も参加したものです。外国の支持をあてにしたものの、使い物にならない武器を掴まされて、せっかく参加者が一万人を超えたのに途中で断念せざるをえなくなったのです。

負け惜しみではありませんが、孫文はこの二度目の敗北にもめげませんでした。だって最初の敗北の際は、世論は「乱臣乱賊、大逆不道」と「呪詛慢罵」したのですが、今度は、「切歯扼腕して、事の成らないことを惜しんでくれた」と孫文は語っています。

十、中国同盟会発足


 

中国同盟会

一九〇五年、孫文たちの興中会は、東京で華興会・光復会と合同して中国同盟会を結成し、孫文は総理となりました。革命勢力の大同団結がなったわけです。孫文は、それまでは自分の生きているうちに革命が成るとは思っていなかったけれど、中国同盟会の成立で

「私ははじめて、革命の大業が自分の生涯のうちに成就するであろうことを信ずるに至った。」

と『孫文学説』第八章で語っています。

堀川哲男は、この成功を、革命の風潮が生まれたこと、革命組織が同郷団体でしかなかったのがその制約に気付き、全国統合を求めたこと、革命諸派が国を追われて東京に集まってきたこと、留日学生が急増し、彼らが祖国の危機を感じ、革命に活路を求めようとしてきたこと、日露戦争における日本の勝利が立憲政体の勝利と受け止められ、ロシアと同じ専制体制をとる清朝への反発を強めたことなどに原因を求めています。

綱領は「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」が採択され、孫文の提案がそのまま通りました。しかし「平均地権」についてはまだまだしっかり浸透している考えとはいえなかったようです。

 一九〇五年十一月に発刊された中国同盟会機関紙『民報』創刊第一号の「発刊の詞」ではじめて民族主義・民権主義・民生主義の「三民主義」が三大主義として提唱されました。

「私の考えるところでは、欧米の進化は、およそ三大主義にもとづいている。すなわち民族・民権・民生である。ローマが滅びるや民族主義が起こり、ヨーロッパ各国が独立した。だが、その国の帝王となったものが、威力をもって専制を行うにおよんで、下にあるものはその苦痛にたえられず、ここに民権主義が起こった。一八世紀の末から一九世紀のはじめにかけて、専制が倒れ、立憲政体がうみだされた。そして世界が開化し、人智がますます向上し、この百年は以前の千年よりも急激といった勢いで物質面が発達すると、経済問題が政治問題のあとをうけて起こり、民生主義が猛然として動きはじめた。二十世紀は民生主義の独壇場とならざるをえない。―略―いま中国は千年来の専制の毒が解けていないために、異民族が国をそこない、外国がこれにせまっている。民族主義と民権主義は一時もゆるがせにすることができない」。

 

十一、相次ぐ蜂起失敗から辛亥革命へ


 

 一九〇六年の萍瀏醴起義、一九〇七年五月潮州黄岡起義、六月恵州七女湖起義、九月防城起義、十二月鎮南関起義、一九〇八年三月欽廉上思起義、四月河口起義など以後数次の武装蜂起にことごとく失敗しています。当然中国同盟会の幹部の責任が問われるところで、孫文の見通しの悪さが指摘されています。孫文の総理罷免要求が強くなっていきます。どうしてそんなに蜂起に失敗するのか、それは自前の軍隊を持っていないからだという解釈があります。中国の非宗教的反体制秘密結社である各地の会党の寄せ集めで蜂起していたので、訓練も行き届かず、機密保持も難しかったといわれます。元々中国同盟会は革命派の連合だったので、指導権争いも熾烈になってきたのです。

 まあ上帝会の太平天国の乱と比較すれば、強固な思想的統一と自前の軍事組織、拠点構築という点で、孫文たちは立ち遅れていたといえるでしょう。もちろん孫文たちも起義で一挙に革命達成とは考えていなくて、広東省や広西省を分離して臨時政府を作って、力を蓄え、そこを拠点に北伐という考え方でした。そのために李鴻章を担ごうとしたり、両広をイギリスの保護国にしていったん分離することまで考えていたようです。ですから戦術的には帝国主義の手先と見られかねないことまでやろうとしていたといえます。武力革命ということで結着をつけようとすればどうしてもきれいごとではすまない面もでてきます。

 一九一一年、起死回生を狙った黄花岡蜂起にも失敗します。資金繰りがうまくいかず武器搬入が間に合わない上、密偵の工作で情報が漏れ、追い詰められて少ない銃器で蜂起を決行し、多数の殉難者を出しました。この失敗で革命陣営内での孫文のリーダーシップは決定的に低下したのです。しかし孫文は自伝で、こう述べています。

「この事件は、各省革命党の精鋭を結集して、かの異民族に対しての最後の一撃であった。事は成らなかったけれども、黄花崗七十ニ烈士の壮烈な気概は、すでに全世界をゆり動かし、国内の革命の趨勢は、実にこれによって作られたのである」と。

長江の中流武漢市の武昌で辛亥革命が勃発しました。孫文たちは両広で蜂起を繰り返していたのですが、それは下策だという批判があったのです。どうせやるなら、北京やその周辺、それが駄目なら長江流域でやった方が、効果的だという発想です。従ってこの地域では孫文の指導力はなかったようです。文学社と共進会という革命組織が中心になって敢行されたようです。弾圧が厳しくなったので、蜂起に打って出て退勢を挽回しようとしたら、意外に敵が崩れてしまって、革命勢力が武昌を占拠し、中華民国湖北軍政府が成立したということです。一九一一年、十月十日のことです。

そのとき孫文は、アメリカで革命宣伝活動中でした。彼は内心一刻も早く帰国して戦列に加わりたいと思ったのですが、革命の成功には列強の支持を取り付けることが不可欠だと考え、イギリス・フランスにも渡って、承認を取り付けようとしたわけです。なんといっても孫文が指導者だと列強は見なしていましたから、孫文が折衝するのが一番いいわけですね。それに革命後の首班になるのも列強から外交手腕が評価される必要がありますね。

十二、袁世凱に総統職を譲位する


 

一九一一年の十一月末までに全国の三分の二の省が清朝からの独立を宣言したのです。しかし必ずしも革命派がイニシアチブを持っていたわけではなく、立憲派や保守派が清朝と運命を共にするのを避ける為に独立を表明した場合が多いようです。

清朝は、隠棲していた袁世凱を湖広総督に命じて革命の鎮圧を期待しました。袁世凱は北洋軍を用いて革命軍を攻め、漢口、漢陽を陥落させ、武昌に圧力をかけてきました。そこで清朝としては袁世凱を内閣総理大臣にして、全権を任せたのです。それで袁世凱が北京入りしたわけですが、彼は清朝と革命政権の間に立って「漁夫の利」を得ようとしたのです。

ところで革命政府の首班をだれにするかで、当初は、臨時総統は空席にして袁世凱の「反正来帰」を待つという決議が通りました。つまり袁世凱が清朝を裏切って正道に戻れば総統に据えてもよいとしたのです。

その後十二月に南京が革命軍の支配下になり、そこで南京が臨時首都となり、黎元洪を大元帥に、黄興を副元帥にしました。しかし両者ともに受けなかったようです。それで孫文が十二月二十五日に帰国し、二十九日に臨時総統に選出されたのです。でも袁世凱が清朝皇帝を退位させてくれれば、臨時総統にしてもよいというのが、総意になっていたので、孫文としてもこれに逆らうわけにいかず、その旨、袁世凱に伝えています。

一九一二年一月一日、孫文は、南京で中華民国臨時大総統に就任しました。しかし二月十二日ラストエンペラー溥儀の退位の詔勅を受けて、袁世凱に譲位することになります。三月十日に袁世凱は南京に来ずに、北京で総統に就任したのです。

離任した孫文は、南京での餞別会で、革命により三民主義のうちの民族主義・民権主義は達成されけれど、民生主義はこれからだとし、平均地権の実現、鉄道の国有などを内容とする民生主義実現に邁進すると誓いました。

十三、革命未だ成らず


 

一九一二年三月、中華民国の成立に伴い、革命組織は政党に模様替えすることになり、中国同盟会は秘密組織から公開政党に改組されました。総理は孫文でしたが、実際に取り仕切っていたのは宋教仁でした。そして同盟会は他の四党と合同して国民党になります。その理事長には孫文になったのですが、彼は鉄道建設に専心したいといいだし、政治から身を引くようなそぶりをみせます。しかし宋教仁の主導する国民党は、選挙で衆参両院とも第一党になっています。

袁世凱は与党を統一させて進歩党を作ると共に、一九一三年三月二十日、国民党を勝利させた宋教仁を上海で暗殺させたのです。租界警察の捜査で国務総理趙秉鈞の指令だと分かったので、袁世凱ガ黒幕だということは疑えません。その時に日本にいた孫文は二十七日に上海に帰り、その夜ただちに各省の主要な同志を前に袁世凱討伐軍を起こすことを提起したのです。

つまり袁世凱のねらいは革命勢力を消滅させて帝政を敷くことだから、袁世凱の権力基盤が整う前に、今こそ蜂起すべきだというわけです。しかし袁世凱の帝政計画の証拠もでそろっていないし、こちらもまったく準備もないのに無理だとみんなに反対されたわけです。

ところが袁世凱は列強の銀行団に二五〇〇万ポンドの借款を議会の承認なしに成立させしまいます。それでついに革命勢力は各地で挙兵し、第二革命が開始されました。しかしこれは二ヶ月で袁世凱に鎮圧されてしまい、孫文は日本に亡命したわけです。

袁世凱は、議会を脅迫して自らを正式総統に選出させ、国民党の解散、国民党国会議員の議院資格剥奪を行いまして、実質的な国会消滅を行い、責任内閣制を総統制にして、総統の権力を肥大化させました。そして終身総統を続けられるように新総統選挙法を制定したのです。つまり古代ローマのカエサルのようなやり方で帝政復活を実現しようとしていたわけですね。

袁世凱は一九一五年十二月中国参政院は袁世凱を皇帝に推戴しました。そして翌年一月一日に即位を強行したのです。

十四、中華革命党―党首の命令には絶対服従


 

一九一四年、孫文は東京で中華革命党を結成し、反袁闘争を指揮します。その際、革命党の精神に戻って再び秘密組織にしました。そして民権・民生の二大主義を掲げます。民族はこの時期抜けています。中国の列強による植民地化の危機は続いているのですから、民族を抜かすのはおかしいですね。民族主義には反満州という意識が強かったのでしょうか。それから最大の特徴は孫文の命令への絶対服従を明記したことです。余程、宋教仁が殺された時にすぐに武装蜂起できなかったことが悔しかったのですね。黄興たちがこの規約に猛反発したのに対して孫文は五月の書簡でこう述べています。

「もし、あなたがあの日、私の言を容れて、宋事件発生の時点でただちに兵を動かしておれば、海軍も上海製造局も上海も九江も袁氏の手中には落ちなかったでしょう。いわんや、あのとき兵を動かしておれば、大借款(英・仏・独・露・日五国銀行団との二五○○万ポンド善後借款)はきっと成功せず、さすれば袁氏は議員を買収することも、軍隊を買収することも、新聞社を買収して世論をくつがえすことも、断じてできなかったでしょうから。このときのチャンスは必勝への道であったのに、あなたはそのことを理解されなかった。すでに借款が成立して大事が去り、四都督が罷免されるや、私は第八師営長に働きかけ、険をおかして発動し死所を求めんとしたが(死を賭して決戦せんとしたが 、またあなたに阻まれて果たせなかった。これらのことは私があなたに不満を抱くゆえんです。今、みたび事をはからんとするにあたって私は完全に責任を担おうとしており、《附従》する者は全面的に私の命令を聞くべきだと願っております…」

まあ孫文がそう思ったのは分かりますが、しかし孫文はその前に何度も何度も蜂起で失敗しているのではなかったでしょうか、そのことをお忘れではないですか、と黄興は反論したかどうかはわかりません。孫文の三民主義とか革命の思想には共感したとしても、具体的方針の決定にあたってはやはり多数意見に従うというのが、いかに革命組織であっても独裁者を生まないためには絶対に必要な原則でしょう。それにこの規約のせいもあって、中華革命党に参加したのはせいぜい数百人にすぎなかったということです。ですから袁世凱の皇帝になることを阻止する闘争においても孫文は主導権を握ることはできませんでした。

一九一五年梁啓超が「異なる哉、いわゆる国体問題」で袁世凱を批判し、それに呼応して西南軍閥が討袁を掲げて挙兵したのです。そして列強は帝制延期を勧告し、麾下の五将軍も帝制取り消し勧告をしたので、袁世凱は孤立してしまいました。しかたなく袁世凱は取り消したのですが、かえって反袁勢力は勢いづき、各省の独立が相次いだのです。これが第三革命です。しかし六月袁世凱が尿毒症で死去しますと、第三革命を起こした人たちは、地位を求めて北京政府に帰順しました。

 

十五、対華二十一か条要求と孫文の「日中盟約案」


 

袁世凱政権は 、第一次世界大戦で中立の立場をとりまして、山東半島や青島に日本の戦闘地域を限定しました。その域外での日本軍の活動を制止していたのです。これに対して日本は、『対華21か条要求』を突きつけまして、中国の主権を著しく侵害しようとしたわけです。と言いましても、列強も同様な要求を考えていたと思いますが、日本は欧州大戦の隙を見て、いろいろ利権や干渉権を手に入れようとしたものですから、世界から反発されたわけです。

第1号(4条) 山東省におけるドイツ権益の処分について事前承諾を求める
第2号(7条) 南満州、内蒙古に於ける租借期限の延長、土地所有権、営業権、鉄道建設、顧問などの優先権の要求
第3号(2条) 漢冶萍(かんやひょう)公司を日支合弁とする
第4号(1条) 支那沿岸の港湾や島を他国に割譲せぬこと

特に条約締結前に取り下げた第5号(7条)の希望条項は次の通りです。
1条、日本人を政治・軍事顧問として招きいれること
2条、日本の病院、学校などに土地所有権を認めること
3条、必要な地方で警察を日支合同とすること
4条、日本に一定数量の兵器の供給を求めること
5条、南支での鉄道敷設権を与えること
6条、福建省における鉄道鉱山港湾に関する優先権を認めること
7条、日本人による布教権を認めること

これらに対して中国人民は猛反対をしました。孫文は、これは袁世凱の方から日本から莫大なな報酬を当てにして、拒否できなかったのだと北京の学生への手紙に書いています。袁世凱は皇帝になりたかったから、莫大な買収資金を入手するために国の主権を危うくする売国行為をしたのだというわけです。

しかし問題は日本からの要求が既に出ていた3月に孫文は、次の「日中盟約案」を日本の外務省に送っています。
 

「日中盟約案」

1、兵器はすべて日本と同式にする
2、政府および軍が外国人を雇い入れるときは日本人を優先する
3、鉱山鉄道港湾のため外国資本を入れるときは、まず日本と協議する

つまり孫文は、袁世凱と取引していた日本に対して、日本を味方につけて袁世凱をやっつけようとしていたわけですね。これだって主権を売り渡して、日本から武器や資金援助を受けて革命をやろうとしていたことにはならないでしょうか。

もちろん孫文の気持では日中同盟を結んでも、それは日本に従属するのではなくて、対等の同盟・協力関係であり、外国人雇い入れは袁世凱の場合のような主権譲渡では有り得ない。日本に開化期のお雇い外人と同じだというでしょう。この時期の孫文は、列強の資金や権益を利用してでも袁世凱に対抗しようという気持が強かったようですね。その分、民族主義や反帝国主義が希薄だったといわれています。

十六、知るは難く行なうは易し


 

袁世凱の後継者たちは、大総統に昇格した黎元洪はアメリカと、国務総理になった段祺瑞は日本と結びついて、総統府と国務院の争いという異常事態になり、一九一七対年に独参戦問題で衝突しました。この混乱に乗じて「張勲の復辟」と呼ばれた旧清朝皇帝溥儀の復辟事件まで起こりました。こうした混乱の中で各地の軍閥支配が起こり、これらと列強が結びつくことによる中国の分割が危惧されたわけです。

この時期に孫文は上海に戻り、『民権初歩』『孫文学説』『実業計画』の三部作を書き上げました。これを『建国方略』三部作と呼びます。

『民権初歩』ではせっかく議会選挙を勝ち取っても議会の運営の仕方、会議の仕方を知らなければ、権利を行使して共和政治、民主政治が実現できないので、その基本ルールを説明したものです。

『孫文学説』は、「知るは難く、行なうは易し」という孫文の考え方を展開したものです。つまり、「知るは易し、行なうは難し」といっては、孫文の提案を反故にして、革命の好機を逃してきたのが悔しいのでしょう。「先知先覚(先に知り、先に覚っている)」指導者の指導に従わなければ、志は成らないのだと言いたいのです。

『実業計画』は、第一次世界大戦後の先進国の余剰資金を積極的に導入し、技術協力を得て中国のインフラ整備、総合開発を行なうというものです。「外国の資本主義をして中国の社会主義を造成せしめ、この二種類の人類進化の経済能力を調和して、相互に利益あるものとし、将来の世界の文明を促進せしめん」と構想しています。これはすごい慧眼かもしれません。やはり非凡なところがありますね。

世界が彼の提案に従えば、世界恐慌が防げて、第二次世界大戦も防げたかもしれませんね。要するにグローバルなケインズ政策の実施ですから。現在、百年に一度の世界金融危機ということですが、なんとか回復軌道に乗りそうなのは、中国に資本が集まって、中国の経済発展が牽引しているからかもしれませんね。

 

十七、ロシア革命と五四運動


 

 一九一七年、ボリシェビキの指導でロシア革命が起こりました。それからしばらくは、反革命勢力との内戦が続くわけです。欧米列強は反ボリシェビキ勢力を支援していましたから、なかなか承認しなかったわけです。一九一八年夏に孫文はいち早くレーニンとソヴィエト政府に祝電を送り、レーニンから感謝の返電をもらっています。

  やはり孫文は民族主義、民権主義だけではなく民生主義という立場であり、社会革命が必要だということですから、社会革命を掲げた革命党が指導する本格的な革命政権の誕生に期待するところ大だったのかもしれません。特にそういう革命を可能にした革命党の組織のあり方に強い関心を持ったと堀川哲男さんは指摘しています。そのあたりは孫文への絶対服従を要求した中華革命党の規約の問題とも関連して、個人崇拝やカリスマ支配の問題につながりますね。

 ロシア革命もボリシェビキが成功したのは,戦争に反対する人民のエネルギーに支えられたからです。やはり二十世紀の闘争は圧倒的な世論の支持によってはじめて勝利できる場合が多いわけです。たとえ軍事決戦で勝っても,世論の支持を失うと政権を持ちこたえるのは難しくなります。中国でも日本の山東省利権の返還を求める中国の要求が拒否されたヴェルサイユ講和条約に反対する運動が盛り上がりました。

 「外 国権を争い、内 国賊を除け」というのが五四運動の学生たちのスローガンでした。よく日本でも日本が中国で獲得してきた利権は、欧米列強と争い、清国との戦争や平和的交渉によって得てきたものであるから正当な利権だという人がいますが、それは列強や清朝、軍閥たちとの関係においてであって、中国の人民にとっては欧米列強や日本などの外国もそれと癒着した軍閥も、みんな中国を勝手にかき回していただけであり、みんな出て行って欲しいということですね。

 中国が発展するには、欧米の科学技術も日本人の協力も必要じゃないのか、中国人民だけで一からやっていけるのかと言いますと、そりゃあ大いに先進技術を学び、資本や人材を導入して中国近代化を助けて欲しいわけです。でもそうして欲しければ、都市や省を割譲しろとか、鉄道利権や鉱山管理権をよこせとか、役人や警察官や軍人に採用しろとか、政府顧問にしろとかいうことまで要求したり、「希望」してもいいでしょうか。

 そこまでいうなら出て行ってくれというのが、五四運動の立場ですね。自分たちは自分たちで自分たちの国を作るのだというのが「民国」の立場です。四億の人民が智恵と労力を出し合い、協力し合えば必ずどこの国にも負けない豊かな国づくりができるに違いないというのが「自力更生」ですね。人民中国になってからこのスローガンに固執しすぎて立ち遅れてしまったことがありますね。独立精神というのにこだわっていたわけです。

 孫文自身がこれまで革命のために日本やイギリスなどの資金や武器や人材に頼ってきました。しかしそれは中国を売り飛ばすつもりは全くありません。中国革命が成功して、中国が平和で豊かな国造りが行なえれば、それは日本やイギリスの繁栄にも大いに貢献できることに違いないという確信があったからです。しかし相手は帝国主義的な対外進出を推し進めているわけですから、自分たちに協力してくれるのは善意であって、軍閥に協力するのは帝国主義的下心からだと区別するのは難しいですね。

 では第三者的にみてどうでしょう。袁世凱をはじめとする軍閥や政治家たちは中国を外国の植民地にしてよいと考えていたでしょうか。やはり自分が中心に権力を固めれば、中国が発展して植民地状態からいつか脱却できるのだと、主観的には思っていたでしょうね。

 ロシア革命が起こり、世界中で民族自決運動が高揚してきていまして、その流れで五四運動があるわけです。これに共鳴し、人民の反帝国主義のエネルギーを吸い上げなければ、中国革命の前進はありません。そこで孫文は、中華革命党には抜け落ちていた民族主義を復活させ る必要に迫られたのです。

十八、中国国民党と正統政府樹立


 

 一九一九年十月十日、中華革命党は中国国民党に改組されました。中華革命党党章第二条「本党は民権・民生の二主義を実行することをもって宗旨となす」が中国国民党規約第一条では「本党は共和を強固にし、三民主義を実行することをもって宗旨となす」と変更されました。この場合の民族主義は「漢・満・蒙・回・蔵の人民を一つに融合した《中華民族》という捉え方になっていたのです。」もうこの段階では「駆除韃虜」は叫ぶ必要はなかったわけです。しかし人口的には漢民族が圧倒することになりますから、融合という立場では、漢民族以外は漢民族に吸収されることになりかねないですね。後に「新三民主義」では「各民族の自治を基礎とする自由に連合した中華民国という考え方になります。

 中華革命党は大政党にはならなかったのわけですが、ロシア革命や五四運動などに未来を見た孫文は、武装蜂起のための革命団ではなくて、労働者や学生、知識人など国民大衆を組織した国民政党に脱皮する必要を感じたのでしょう。

 そして広東軍政府を正統政府化し、これを基盤にして北伐を行い、統一を実現するという戦略を立てていたわけです。そのために陳炯明(ちんけいめい)の率いる軍隊を利用して、一九二〇年十月に、広東省を制圧させたわけです。そして翌一九二一年四月には参衆両院会議を開きまして、中華民国政府組織大綱を議決し、孫文を圧倒的多数で非常大総統に選出しました。

 この国会開催ならびに大総統選出については陳炯明たちは賛成ではなかったのです。第一、北京政府が正統政府でないというのは法を遵守していないからだと主張しているくせに、政府大綱や総統選出は総議員の三分の二の賛成が必要で、半数も参加できない議会で決めたことが合法であるはずがない、自らの主張を裏切る行為だというのです。

 彼らは元々広州人による広州支配という自治派なのです。中央集権国家では国家権力の横暴で地方が疲弊するので、各省の連合国家のような形がいいのではないかという考えですね。孫文が性急に中央権力を狙いたがり、北京政府を倒そうとしたがるのを牽制していたのです。そんなことをして、たとえ総統になっても袁世凱の二の舞ではないかということです。権力を維持する為に帝国主義とつるんで、軍閥と戦ったり、議員を買収したりですね。

 孫文に言わせたら、結局北京を握っているものが諸外国から認知され、多額の借款を手に入れて、見返りに各地を割譲させて国を滅ぼしていっているじゃないかということで、地方自治は革命勢力による全国統一が出来てからの話だというのです。結局正統政府樹立を強行し、翌年北伐も実行します。一九二二年二月は陳の策謀で途中で中止され、五月に再開されます。そしてとうとう六月六日陳炯明は観音山総統府を包囲攻撃するクーデターを敢行したわけです。 

十九、中国国民党改組と連ソ・容共


 

 露骨な「対華二十一か条」に見られる日本の帝国主義的企図に対して、中国人民は五四運動で応えました。人民のエネルギーは反帝国主義で盛り上がっているわけですから、これを中国国民党は組織しようとします。ということはこれまでのように日本の政財界や国士たちの善意の協力をあてにしたような、武装蜂起工作や日本との取引は中国人民には背信行為に写るでしょうからできません。勢い外国勢力としては、ツアー専制を倒した革命ロシアと協力し合おうということになります。 

 陳独秀らによる中国共産党の結党は一九二一年七月のことですが、中国共産党からみれば孫文のやり方は、外国を回って資金を集め、いくつかの武装集団に武器と金をばらまいて蜂起させる一揆主義でしょう。労働者や農民の運動を組織して粘り強く、啓蒙活動を行なって自覚を高め、戦いを積み上げていくといういわゆる階級闘争的なスタイルではないわけです。しかも入党にあたっては孫文先生の命令には絶対服従という権威主義ですから、あまり一緒にやりたくない気分だったようです。

  でも李大劉は「国民党の組織はひじょうにルーズで、無政府主義者は国民党に加入してすでに何年もたち、国民党の党籍を掛けて依然として無政府主義の宣伝を行っているが、なんの拘束もうけていない。純粋な国民党員でさえ各種異なった政見を抱いていて、独自に政治活動に従事している例も少なくない。だから共産党員が国民党に加入しても、同様に拘束を受けるはずがない。私も、連合戦線は実現がむずかしく、国民党加入の方式をとるのが連合戦線を実現する上でやりやすい方法だと判断する」(張国Z『私の回憶』) と述べたと伝えられています。

 コミンテルンの方針で植民地や後進国の革命運動との同盟を模索すべく、一九二二年にマーリンがやってきまして、陳独秀の紹介状をもって孫文に面会したのです。それでマーリンが孫文を高く評価しまして、コミンテルンは孫文と協力していくことになったわけです。

 この年の春までにマーリンと孫文の間で、第一次国共合作の基本合意が出来ていたといわれます。当時の中国共産党はそれほどの勢力はなかったのです。一九二二年七月の二全大会では195名です。ですから対等の国民党と共産党の協力というのは孫文の方で断ったのです。つまり共産党員が国民党に入って、つまり孫文に忠誠を誓ってやるのならいいというのです。マーリンにしたらそれは願ってもないことだったでしょうね。国民党の中で国民党の名前で、共産党が活動できて、国民党が政権をとれば、共産党も与党になれるわけですね。

 一九二三年一月にソ連政府代表団を迎えまして孫文・ヨッフェ共同宣言が発表されました。その中で「孫逸仙博士は、共産組織、さらにソヴィエト組織さえも、事実上いずれも中国に適用することはできないと考える。なぜなら、中国にはこの共産主義あるいはソヴィエト制度の実施を成功せしめうるような情況が存在しないからである。この見解に、ヨッフェ君は完全に同意し、かつ中国にとってもっとも重要でもっとも緊急の問題は、民国の統一の成功と完全な国家の独立を獲得することにあると考える。この大事業について、ヨッフェ君は孫博士に対して、中国はソ連国民のもっとも真撃で熱烈な同情をえるはずであり、かつ、ソ連の援助を頼りにすることができるであろうことを保証した」と述べられています。

 もちろん国民党の中には、共産党員を入党させたら「庇を貸して母屋を取られる」結果になると猛反対する人もいたのですが、ただ孫文が共産主義をどのように理解していたのかが明確ではありませんね。孫文の民生主義と共産党員の信奉する主義とは対立するものではないという説明を「中国国民党第一次全国代表大会」でおこなっていますが、それによりますと、民生主義には社会主義が含まれ、社会主義に集産主義と共産主義が含まれるとしています。集産主義は国家が鉄道や大工場を起していくという国家社会主義ですが、では共産主義はそれとは違うかというと、ソ連の方向も実際には集産主義であったわけです。

 孫文も平均地権も土地価格の上昇による利得を国家が獲得して、それを資本に国家資本がインフラ(社会資本)を整備していくというものですから、国家社会主義です。しかし国家資本でするという意味では国家資本主義とも言えます。この国家資本の割合をどの程度にするかで孫文の社会主義は、ソ連型にもイギリス型にも成り得るわけですね。

 この共産党員の入党によって労働者など一般大衆の国民党への加入が増え、地域や職場に根を張った国民政党へと脱皮していったわけです。それは同時に共産党の急成長をもたらすということになり、国民党内に左右の対立を惹き起こす原因にもなります。

 一九二四年末に、孫文は北京政府の執政段祺瑞に、国民各層の代表で構成する「国民会議」の開催を要請しますが、北京政府は軍閥や学識経験者など有力者で構成する「善後会議」の開催にこだわりまとまりませんでした。一九二五年三月十二日に北京で肝臓癌なくなりました。北京政府の国葬令を国民党は拒否し、北京中央公園で市民参加の葬儀を行ないましたが、会葬者は数十万人にのぼったといわれます。

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