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                                               中国思想史講座

                  
 

24.蒋介石と中国国民党
やすい ゆたか

一、生い立ち


 

  蔣介石は、1887年に生まれたとあるから1866年生まれの孫文と は21歳年下です。浙江省奉化で塩商人の蔣肇聰と王采玉の間に生まれました。

彼も早婚させられています。まだ満では14に満たない1901年に四歳年上の毛福梅(1882-1939) と結婚しています。長男蒋経國が誕生したの1910年で結婚八年目です。なんと1912年に上海の歌姫姚冶誠を愛人にして、次男蒋緯国をもうけています。

そして1921年、 彼が34歳の頃です。16歳の女学生だった陳潔如に「自分の愛を証明するため 指を一本切り落としてもいい」とプロポーズしています。毛福梅は失意の中、仏門へ入り離婚しました。

一方職業では軍人を志し、1906年保定陸軍速成学堂で軍事訓練を受け、その推薦で翌年日本の東京振武学校へ留学しています。そして1910年高田第十九連隊野戦砲兵隊に二等兵として入隊しています。1911年辛亥革命に参加するため上海で陳英士の上海独立運動に参加して、団長に任命されています。

国民党軍に従軍した黄仁宇の『蒋介石―マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記』(東方書店)によりますと、その頃の蒋介石は「遊侠浪人と革命志士の生活を行ったり来たりしており、専門家も当時の足取りを断定するのは難しい」としています。

 ええ?遊侠浪人て、ひょっとしてチャイナ・マフィア?と思って調べますと、ウィキペディアでは、

「辛亥革命前後に青幇(チンパン)に加入し杜月笙とは義兄弟の関係であり[弟分]、上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害を行なった。その後も青幇の麻薬資金が蔣介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蔣介石揮毫による「義節聿昭(ぎせつりっしょう,義の操はここに照り輝いている)」の牌がある」

とされています。青幇は最大のチャイナ・マフィアです。杜月笙はまあゴッド・ファーザァといったところでしょうか。

「遊侠浪人と革命志士の生活を行ったり来たりしており」と言われていますが、彼自身堅気になれない性格のようにも受取れることを言ってます。

「人々が私を好色というが、無聊の挙句にしたまでで、やむを得ないのである」(1924年3月24日)

しかしいざ蜂起だという時に即戦力として彼らは使い物になるわけで、孫文たちのこれまでの蜂起でも活躍していたと思われます。蒋介石のやくざな性格がそういう場合に青幇に動員をかけてくれるので、大いに役立っていたのでしょう。もちろん蒋介石のためなら、革命にも反革命にも活躍してくれるということです。

 

 

 、 「赤い将軍」と呼ばれた蒋介石


 

 彼は日本で軍事訓練を受けているということが大変買われたのでしょう。かなりしごかれて鍛えられているわけです。

「厳冬の大雪の中でも、兵士は水で顔を洗い、一時間かけてわらで馬をふいて、血の巡りをよくして全身が発熱するようにしなければならなかった。食事はいつも満腹にはならず、そのうえ二等兵は上等兵から雑用を言いつけられたり、リンチを受けたりした。能力と忍耐力を増強させるために、これらすべてのことは中国の軍人が見習うべきだと思った」

と語っています。

 清国の軍隊では根性を叩き込むという点で甘かったわけで、その差が日清戦争で出たということもできるかもしれません。それで青幇にも中国国民党にもコワモテしたのかもしれませんね。孫文は軍事は蒋介石にまかせるしかないと思ったのです。

 1923年孫文の指示により、蒋介石はソ連の軍制を視察しています。そして1924年にソ連の援助でつくられた広州の黄埔軍官学校の校長に就任しました。台湾独立派は、蒋介石の統治は実はソ連の党国家体制なのだ、元々と 黄埔軍官学校の校長の頃から「赤い将軍」の異名をとっていた、ソ連仕込であるということを強調します。確かに1925年12月5日の『軍校第三期同学録序』では次のように語っています。

 総理は逝去し先烈も今はない。その精神と霊魂は定かでないが、ただ本校を遺した後に死したことがわずかな命脈である。我々が先烈を慰められるのは、本校があるからである。このわずかな命脈を遺したのはなぜか。総理の思想を継承した国民党内の共産と非共産の二者が、力を集中してその血統を守るためである。我らは今になっても、当時の先烈の死が共産をなさんがためであったのか明らかにしておけばよかったと悔やんでいる。

 では、非共産を三民というのか。私中正は私より後に死ぬ者にあらかじめ言っておく。

「私は国民党内の共産と非共産の同志諸君を率いて、国民党の晴天白日旗の下に集合させ、我が総理の革命主義を実行して死んでもよい。私は党内の死した同志諸君が合葬され、あの世で安眠するよう願っている。

 私は本党の後に死する同志諸君が、快を分かつことなく分裂を生じずに終始生死をともにして、我が親愛至誠の校訓と精神的団結をもって、我ら死せるものたちの事業を継統して、国民革命を完成する責任を持っように願っている。直接には我が総理の三民主義を実行し、間接には国際共産主義を実行するのだ。

 三民主義の成功と共産主義の発展は、ともに必要であり相反することではない。私は後に死する諸君が互いに快を分かったり、氷と炭、火と水のように長く争うことも望まない。これは、我らがすでに死せる者の命脈を断絶することになる。でなければ生ける者はどうして安心できようか。すでに死せる者は非業の死を遂げたのに、冤罪で死んだ魂となってしまう。これでは成仏できないのだ。

 この文章では共産主義がどういう主義かという規定がありませんので、孫文の三民主義に包摂されるものとして許容していたということでしょう。後に蒋介石の実現しようとした三民主義は、極めて限定的にしか民生主義を実現しようとしなかったので、ソ連型の社会主義とは全く乖離してしまいます。その意味では蒋介石を共産主義者とみなすことは出来ませんが、ソ連を参考にし、ソ連から学んだものはあるでしょうね。

 ただ孫文も党による支配体制の確立を課題だと考えていたようでして、その見本はソヴィエトだったかもしれませんね。それに相手のソ連の方も、毛沢東よりも蒋介石を高く買っていたようで、西安事件のさいに毛沢東は蒋介石の死刑を望んだけれど、スターリンは許さなかったと言われています。まあそれは毛沢東の農村が都市を包囲するという田舎臭いやりかたにスターリンは納得できなかったので、毛沢東を信用しなかったことの表現だったのかもしれません。

 、 孫文死後の北伐再開をめぐって


 

孫文の悲願は、もちろん北伐統一だったのですが、そのためには北京政府や北方軍閥を圧倒できる武力が必要でした。それで陳炯明の武力に頼ったのですが、陳の本音は「広東人の広東支配」でした。つまり自治派だったので、結局、北伐決行という段になってクーデターを起こされてしまったということです。

それで体制を建て直し、蒋介石を中心に革命軍を再組織しようとソ連の支援で黄埔軍官学校を作ったわけです。でも陳炯明の勢力を完全に駆除できたわけではなく、広東や広西の情勢も不安定だったのです。第一国民党軍はたいした装備はなかったようです。とても北伐どころではないので、孫文は「国民会議」を提唱し、北京政府は「善後会議」を提案したということで、孫文の死を迎えてしまったのでしたね。

それでは孫文の死後はやはり北伐に討って出て結着を計るべきか、そうではなく、議会を正常化して、大総統を民主的に選び直して平和的統一を計る方向に運動を進めるべきかということです。そしてどちらが孫文の遺志を継ぐことになるのかということですね。これは大変難しい問題です。

北伐統一というのが、太平天国以来の伝統的なやり方ですね。もっと遡れば、南宋の時代もいつの日か北伐統一を成し遂げようということでした。蒋介石たちにすれば北伐は既定方針であったのです。それはアイデンティティと言ってもよいかもしれません。蒋介石たちはどうすれば北伐をせずに中国を統一するのかではなく、どうすれば北伐を実行できるのかを考えていたのです。

それに対して国民党左派や伸張著しい共産党は、「国民会議」の開催を求めて全国各地で世論を盛り上げていくべきで、軍事で結着を計るのは好ましくないと考えていたようです。軍事だと勝つか負けるかで、負けたらそれこそ大変ですし、勝っても一時的には支配できても、外国勢力と結びついた軍閥がまた勢いを盛り変えすことになるかもしれません。それより圧倒的世論を背景に、民国をつくるという孫文の遺志を実現すればいいわけで、北伐に固執するのは冒険主義だということです。 

もちろん左派や共産党の理屈はもっともなのですが、それなら国民大衆を下から組織していくということになりますね。それは国民党の革命家が集まって蜂起するという体質とは違うわけです。蒋介石は、武器や資金を調達してゴロツキどもを革命軍に仕立て上げてきました。それがソ連の支援で黄埔軍官学校の校長になり、すっかり洗練されたのですが、軍を握ったら握ったでそれで戦争をしたくなるものですね。そこでしばらくは連ソ・容共を堅持しようとしますが、共産党の台頭に振り回さて、全うな北伐統一が邪魔されるのが我慢できなくなったのでしょう。

蒋介石のことですから、口では連ソ・容共を熱く語っていても、共産党の台頭に対してなんとか対処しなければならないと感じていたでしょう。蒋介石が反共に転身する最大のきっかけになったのが、「中山艦事件」です。1926年3月18日に中山艦という国民党軍の軍艦で蒋介石を拉致し、ウラジオストックに連行しようとしたというのです。これは確かな陰謀というより、蒋介石の鋭い勘でこれはどうもあやしいと気付いたものです。

 午前、汕頭に戻り休養しようとする。敵は私を陥れようとする計画を立てている。私の身の置き所をなくそうとしているのだ。考えるだけで怒髪天を衝く思いだ。

 午後五時、途中まで行ったところで自問する。どうしてこそこそと忍び歩きしなくてはならないのか。他人に口実を与えておいて、気骨があるのか。そこで、東山に帰り、党と国家に報いるため、私個人が犠牲になることを決心した。でなければ、国民精神は消滅してしまう。夜を徹して事を議し、四時に経理処に行き、中山艦の陰謀鎮圧の命を下す。私を陥れようとする輩を処理するためである。(一九二六年 一二月十九日から二十日)

            疑われた友人汪精衛(汪兆銘)

 十九日午前、汪兆銘(汪精衛)に会う。自宅に帰り客と会う。共産党は離間を挑発する行動と、政治上のペテンにかけるような卑劣な行動をとり、本党を陥れ革命を纂奪しようとする腹づもりだ。このことは今や、道行く人でさえ知っている。この場で即刻決断しなければ、いかにして党を救うというのか。いかにして自らを救うのか。私個人を犠牲にして一切を顧みず、党と国家に報いようと誓う。夕方に各幹部と密議する。四時に経理処に行って命を下す。公曰く、 「権利なぞ役立たずだ。どうして責任を放棄できようか。命は犠牲にできても、主義はぽろ靴のように捨て去れるだろうか。今決心しなくて、いつまで待つというのだ。党に殉ぜずして、いかなる顔をして生きながらえようか。後は突き進んで奮闘するのみだ」。(一九二六年三月十九日)

こうして3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発するという挙に出ました。ことは蒋介石の直感からですから蒋介石に同情的とみられる黄仁宇も「実状は今でも断定しようがない。この事件は永遠に歴史の謎であろう」としています。実際証拠も自白もないので李之竜も二十日あまりで釈放されています。

ともかく当時、ソ連の顧問キサンガは北伐には猛反対で、蒋介石と黄埔軍官学校の力が増大していくのには警戒していたのです。すでに5500人が黄埔軍官学校で訓練を受けており、彼らが配下に20人を指揮するとすれば配下の軍隊は10万人を超えていると黄仁宇は、蒋介石の台頭を語っています。この言い方はおかしいですね。校長だったというだけで、みんな言うことを聞くというのはまた別でしょうから。それを言うなら、どれだけ蒋介石が生徒たちに尊敬され、信頼されていたかを実証すべきです。

http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/southern%20government.html

中山艦事件の真相

  もっとも説得力があるのは陳公博によるものであろう(『中国国民党秘史』松本重治監修、岡田酉次訳 講談社 1980)

  「それはまるっきり違う。伍朝枢(右派)が演じた小細工に過ぎなかったのだ」と鄒(魯/西山派=右派)は言った。そして更に話を続けて「君は知っているかどうか判らないが、胡漢民(右派)がモスクワに亡命したあと、我々は皆これではどうしようもないと思った。

  そして広州の局面を打開するためには共産党と蒋介石を引き離さなけれぱならないと考えた。そこで我々は外部で対策を練り、伍朝枢は広州で策を工夫していた。

  ある日伍朝枢はソ連の領事を食事に招き、次の日蒋介石の側近たちを食事に呼んで、その席で彼はさりげなく『昨夜、私はソ連領事と食事をしたが、領事は蒋先生が近いうちにモスクワヘ行くことになっているが、いつ発つつもりかと尋ねていた』と言った。

  側近は当然この話を蒋介石に報告しただろう。蒋介石は大変猜疑心の強い人だ。この話の真偽を伍朝枢に直接質すわけにもいかず、ソ連領事に聞くこともできずに心の中にしまい込んで、さんざん思い惑った揚句、共産党が自分を排斥しようとしているか、或は汪兆銘(左派)が自分を陥れようとしているのに違いないと思うようになった。

 ある時、蒋介石は汪兆銘にさぐりを入れるつもりで『自分は極度に疲れたので東江と南路が統一できたのちに暫く休みたいが、上海へは行けないのでモスクワに行ってみようと思う。モスクワヘ行けぱソ連当局と接触できるし、いろいろな軍事知識を得ることもできるだろう』と言った。

 汪兆銘は正直一途の人だから蒋介石のさぐりだとは気付かず、軍事なお多端な折だから外遊すべきではないだろうと一所懸命に引き止めた。

 次にさぐりを入れたときは蒋介石は『今では戦況も一段落ついたので、自分が広東にいるかいないかは大して重要な間題ではない。ぜひこの機会に短期間外遊し、休息をとって元気を回復したい』と言った。

 相手を信じ切っていた汪兆銘は蒋介石のもっともらしい態度に惑わされて、とうとう彼のさぐりに乗ってしまった。汪が承知したのを見て、蒋は自分の判断が間違っていなかったと信じ、更に第三のさぐりを入れた。

 つまり、汪注夫人および曾仲鳴をも一緒に外遊させてほしいと要望したのである。君も知ってる通り汪夫人は弥次馬根性の強い人で、モスクワヘ行けると知ったら断わる道理がない。ソ連は寒いと思って毛皮のコートを用意したり、荷づくりをしたり、てんやわんやで旅の仕度を整え、何度となく蒋介石に出発の催促をした。

 蒋介石はもともと行く気などなかったのに、汪夫人から毎日のように催促を受けれぱ、ますます汪が自分をやっつけようとしていると確信するようになるのも当然である。丁度その頃ソ連の船が一隻入港し、蒋介石は参観するよう招待されたが、蒋は汪にも一緒に見に行こうと誘った。

 ところが汪は前にすでに見ているということで断わられた。そこで蒋介石は自分がこの船を見に行ったら、そのままモスクワに送り込まれる手筈になっていると思い込み、遂に意を決して反共と反汪に踏み切った。

 これが三月二十日の事件の真相だ。当初は伍朝枢によって企てられた小細工で、伍自身もこうなる確信はなかったのだが、はからずもその結果は反共だけにとどまらず反汪にまで発展してしまい、人々を驚かせることになった」と。

 私はこの話を聞いてさむざむとした感じに襲われた。悟りをひらいたような心境でもあったし、耐えられないほどの悲しみも覚えた。伍朝枢はすでに世を去り、今や安らかな眠りについているが、存命中の彼の不用意な言葉のために、どれほどの人が命を落としたか知れない。

 私はこの一文を書きながらも泣くに泣けない気持にさえなった。

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 伍朝枢の「悪戯原因説」であるが、中山艦事件について、これまでのところもっとも諸事情をうまく説明している。

 革命とは、暴力による権力奪取であるが、革命党内部の権力闘争であることも思い知らされる。


 ともかくこの事件で蒋介石は国民党の軍事委員会主任になり、そして国民革命軍総司令にもなりました、軍事的な権限を掌中にしたのです。汪精衛は、この事件への関与を疑われていたので、パリに逃れました。ソ連は顧問キサンガを召還して蒋介石に妥協したわけです。こうして北伐を共産党や左派が妨害するのは難しくなったわけです。

1926年7月1日、「北伐」のため広東を出発した蒋介石を総司令官とする「国民革命軍」は、同月12日に長沙を攻略、10月10日武漢を攻略してしまいました。

しかし張作霖率いる奉天派は蒋介石軍を撃退して、北京に入り、張作霖は12月に大元帥に就任して北京政府を掌握し、自ら中華民国の主権者だと宣言しました。

 四、上海クーデター


 

 ここに国民党左派と共産党は国民政府を遷都して武漢国民政府を作ります。逆に蒋介石は南昌に腰を据えます。そして政府を南昌に遷すようにいうのですが、武漢政府の蒋介石の権限を削ろうとします。蒋介石は東征して上海を陥落させようとしますが、27年3月には周恩来の指導で上海暴動が起こります。そして上海市民政府を作ったのです。

ところが蒋介石は国民党の特務機関を上海につくって、共産党の動きをしっかり掴んだ上で、上海に進駐し、4月12日の「上海クーデター」という「清党」を実行するのです。「清党」を実行すること見返りに、前もって列強や商工団体から支援の約束をとりつけました。それで以後の北伐資金を手に入れたということです。つまり北伐には武器や資金が必要なのですが、それまで国民党が頼っていたソ連は北伐を制止しようとしていたわけですから、別の資金源が必要だったのです。

青幇たちに組織をつくらせて彼らに襲わせたわけです。上海で15日までに5000人の共産党員が失踪した、つまり闇に葬られたということでしょう。

上海クーデターの公開処刑

これを上海に止まらず各地に広げていきました。すでに四月六日には北京では欧米列強の支持を得る為に張作霖が 、内政干渉したとしてソ連大使館に捜索を入れました。そして共産党員李大サを逮捕し、「ソ連と和し、外国に通謀しているという」罪で二十八日に絞首刑に処されたのです。

 冷静に考えますに、蒋介石の共産党へのむごたらしい処置、これはやはり孫文の負の遺産という面がありますね。国民党は革命政党という性格を持っていて、指導者支配、党の国家支配を目指す政党です。

国民党の中に共産党というやはり革命党があれば、国民党を指導し、国家を支配しようとする蒋介石は、共産党をコントロールできなければならないということです。共産党が急成長してしまったうえ、コミンテルンという外部勢力の影響下にあり、蒋介石の北伐に執拗に反対するとなれば、党と彼が考えていた革命のためには、共産党を根絶しなければならないと考えたのも必然性があります。と言っても決してこうした非人道的な行為は許されるべきではないでしょうが。

  五、北伐の完成


 

帰国した国民党左派の汪精衛は武漢国民政府の主席になります。共産党との連携は七月には崩れ、共産党は武漢からも引揚げます。結局蒋介石の南京国民政府に統合されたわけです。そして八月、南京政府内で蒋介石はかえって孤立しまして、下野を宣言し、なんと日本へ脱出しました。

共産党は八月に南昌で蜂起しました。共産党はこの南昌での蜂起によって共産党軍が建軍されたとして、八月一日を建軍記念日にしています。しかしコミンテルン中国委員会は、これは陳独秀コース、トロキスト路線として批判しました。十二月に広州で蜂起して、「広州コンミューン」樹立を宣言しますが、すぐに鎮圧されてしまいます。一九二九年になってコミンテルンはこの失敗を「左翼暴動主義」として批判しました。

さて蒋介石は孫文未亡人宋慶齡の妹である宋美齢と一九二七年に結婚しました。上海の浙江財閥だった宋家の自宅で豪華な結婚式をあげまして、世界中に孫文の後継者であることをアピールしたのです。そして一九二八年一月には国民革命軍総司令に復職し、いよいよ北伐の総仕上げをすることになります。残る反国民党の軍閥は奉天軍閥張作霖だけだということです。当時張作霖の奉天軍は北京にいたのです。途中五月三日済南で日本軍との衝突があり、手酷い損害を蒙りました。日本軍の戦死者は二十八人でしたが、中国人死亡者は三二五四人でした。

ここは日本軍と総力戦になってしまうと、肝心の北伐の夢も破れてしまうので、一路北京に向かったのです。この済南事件で中国最強の国民革命軍といえども日本軍にかかったらイチコロじゃないかと日本軍の方はどうも思ったようですね。それがいけなかった。

国民革命軍が北京に迫ったので、日本政府は閣議決定をしました。五月十六日です。
 

@     南軍が京津地区に達しないうちに奉天軍が引き上げる場合、日本はこれを拒まない。

A     南北両軍が京津地区で交戦したり、あるいは著しく両軍が接近して北軍が満州に退却するときは、南北両軍の武装を解除する。

  もし国民革命軍と奉天軍が北京や天津で決戦するのなら、居留民の安全などの理由で内戦に干渉して、日本軍が平定するということです。そうしたらどういうことになっていたか、結局日本政府が両者の仲介に入って、統一政府を作らせ、その政府の軍事・警察外交などの顧問のポストを要求するということになったでしょう。

そして張作霖があきらめて舞い戻ってくるのに対しては、関東軍司令官村岡長太郎が、奉天に関東軍を集中させようとしました。舞い戻ってくる奉天軍と一戦交えるつもりだったのでしょうか。これに対してアメリカ国務長官ケロッグは「満州の主権は中国にある」と牽制しました。それで参謀本部は村岡の動きを制止したのです。ともかく張作霖は奉天軍を北京から撤退させるしかなかったのです。五月三十日に撤収を決定しました。

ともかく関東軍は張作霖が満州でまたのさばるのを我慢ならんと思ったのでしょう。北京から戻る張作霖の列車を爆破して殺してしまったのです。六月四日でした。これを「満州某重大事件」と呼びます。

http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku.htmlには河本大作の手記「私が張作霖を殺した」が転載されています。最近ソ連の陰謀説が出ていますが、この手記は「河本大作大佐談 昭和十七年十二月一日、於大連河本邸」(森克己『満州事変の裏面史』 二六二〜二七〇)とも一致しているので間違いないようです。

張作霖爆殺の瞬間ーなんと犯人の一人が写真に収めていた

六月八日に国民革命軍の一部部隊が北京に入り、蒋介石は遅れて二十六日に北京入りし、七月三日、蒋介石は、北平の碧雲寺の孫文霊廟に北伐達成を報告したのです。果たして孫文は喜んだでしょうか。

いずれにしても中国には、先知先覚の聖人君子か覇者か革命党が一元的に天下をとってしまわないことには、平和にならないということがあり、それをできるのは相当の独裁的権力でないと無理ということがあったかもしれません。やがて軍閥は淘汰されていき、国民党と共産党が残って、日本の侵略と三つ巴になり、西安事件で張作霖の息子張学良に捕らえられた蒋介石が第二次国共合作に踏み切りますが、日本敗戦後、内戦再開で、最後には共産党の支配が実現することになります。結局共産党のように非常に強力な組織によって独裁的に統治するしか安定がないというのは、中国の伝統に根ざしているということでしょうか、それでは孫文の「民国」という理念はどうなるのでしょうか。

 

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