21.洋務運動とは何かー中体西用論―
アヘン戦争直後魏源は『海国図志』(一八四三年初版、一八五二年増補)で「本書を編纂した意図、それは夷をもって夷を攻め、夷をもって夷と和し、夷の長技(進んだ技術)を学んで夷を制することにある)と主張しました。
アヘン戦争で負けただけでなく、太平天国の乱に対しても清国の正規軍では歯が立たなかったのです。曾国藩らの湘軍などの義勇軍とイギリスやアメリカから公然と支持を受けたウォードやゴードンらの欧米人の将校と中国人の兵士からなる傭兵の常勝軍の活躍が必要だったのです。つまり欧米式の軍隊制度と近代兵器がなければ清国は持たなかったわけです。
曾国藩(1811〜1872)はこう語っています。「目前は、夷の力を資(か)りて、以て勦(しょう)を助け運を済いて、一時の憂いをとくことを得、将来は夷の智を師として、以て勦(そう)を助け運を済(すく)いて一時の憂いを紓(と)くことを得、将来は夷の智を師として、以て炮(ほう)を造り、船を制(つく)り、尤(はなは)だ永遠の利を期すべし」(『曾文正公全集』奏稿「覆陳洋人助勦及採米運津摺」咸豊十(一八六〇)年十一月初八日)
1860年といえばアロー号事件に端を発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)があり、17000人の英仏連合軍が侵攻し、北京の円明園が掠奪に遭いました。1858年の中英間の天津条約で英国側は「夷」の字を公文書に使わないことを要求し、清国も承認しました。それで欧米列強との外交に対して使われていた「夷務」は「洋務」と呼ばれるようになったのです。
「洋務運動」というのは、欧米列強に対処するには欧米列強から進んだ西洋機器、特に洋式軍事技術を摂取することによって、欧米列強の侵略を防がなければ、清国は滅んでしまうという動きなのです。愛新覚羅
奕訢(あいしんかくら
えききん、1833年−1898年)は、道光帝の第六子で恭親王と呼ばれますが、彼はアロー戦争で屈辱的な北京条約の当事者になり、排外主義者から「鬼子六(洋鬼とつるむ六男坊)」と渾名されて悔しい思いをしていました。1861年の咸豊帝の死後、西太后・東太后と結んでクーデターを起こし、実権を掌握しまして、洋務派の漢人官僚を登用したわけです。この恭親王や西太后の意図するところはあくまで皇帝独裁の王朝体制の枠内で、欧米から受けた屈辱を晴らす為に、欧米の科学技術を取り入れて清国の富国強兵を成し遂げるということです。それで「中体西用」がスローガンだということです。
「体用」というのは体言、用言という時に使いますが、朱子学では一つのキーワードです。本体とその働きが体用です。ですから「中体西用」というのは、中国という本体が先ずあって、これが今欧米諸国が進出してきまして、脅かされ、存亡の危機にあるわけですね。中国という本体が、今までのような中国のまま働いても欧米に対抗できません。ですから、欧米から科学技術を導入して、西欧諸国のように働かなくてはならない、これが「西用」です。でも働くのは決して西欧ではなく、中国ですから、「中体」ということを踏まえていなければならないという論理です。
つまり何が言いたいか、欧米諸国に対抗しようと思えば、欧米諸国のように中国を変革しなければならないという議論が起こります。西洋の武器弾薬を輸入して軍備を整えても、それを有効に使用できる訓練された西洋式軍隊が必要ですね。それに武器弾薬を輸入ばかりしていては、財政が持たないし、西洋諸国も敵対してくれば売ってくれないので、近代産業を興す必要があります。
製鉄や綿工業などの大工場は、最初は国営で始めるとしても、やがては民営で行なわなければ、競争原理が働かず、発展していきません。そうすると民間産業が発達するような政治制度の導入が求められ、近代的な憲法や議会制度を設けようということになります。そうしますと、皇帝独裁の体制が維持できなくなるわけです。ですから洋務運動は工業化で成果をあげればあげるほど、清朝の皇帝独裁体制が邪魔になってくるという矛盾をはらんでいます。
ひとまず洋務運動の主な事業を表示しておきます。
事業所名 |
創業 |
場所 |
設立者 |
事業内容 |
江南機器製造総局 |
1865 |
上海 |
李鴻章 |
米人工場買収、米製機械で武器弾薬等製造1869「広方言館」「翻訳館」附設 |
金陵機器局 |
1865 |
南京 |
李鴻章 |
主として銃砲を製造 |
福州船政局 |
1866 |
福州 |
李鴻章 |
造船・製鉄,
船政学堂附設造船・航海術教授 |
天津機器局 |
1870 |
天津 |
李鴻章 |
鉄砲・弾薬を製造 |
輪船招商局 |
1872 |
|
|
中国初の汽船会社,官営から翌年民営化 |
開平鉱務局 |
1878 |
|
李鴻章 |
招商局の汽船が使う石炭を補給 |
上海機器織布局 |
1878 |
上海 |
李鴻章 |
綿布を近代的な工場でつくる |
陸上有線電信敷設 |
1881 |
上海・天津間 |
李鴻章の企画による |
唐山鉄道敷設 |
1881 |
|
李鴻章 |
開平炭鉱の石炭を輸送,11km. |
漢陽製鉄局 |
1890 |
漢陽 |
張之洞 |
93年に基本的に完成、94年一部操業開始 |
天津水師学堂 |
1880 |
天津 |
李鴻章 |
海軍士官の養成 |
北洋艦隊編成 |
1888 |
|
李鴻章 |
戦艦四隻、巡洋艦六隻、砲艦十二隻 |
旅順軍港完成 |
1891 |
旅順 |
李鴻章 |
一応の近代海軍の体裁を整えた |
|
洋務運動のスローガンは「中体西用」論だといわれます。魏源の『海国図志』を読んだ佐久間象山らは「東洋道徳、西洋芸術」を唱えました。しっかり東洋の道徳を身につけた上で、西洋の科学技術を学ぶべきだという考え方です。
これを「和魂洋才」と表現する人もいます。日本人としての魂を養った上で、西洋の進んだ科学技術を学ぶべきだということです。己の主体を確立しておかないで、西洋の進んだ科学技術を学びますと、中国や日本の思想は遅れていて役に立たないかのように、自国の文化や思想を蔑視してしまうことになるからです。
ただ「和魂洋才」の「魂」は精神的なもので形がないので、あまり束縛にならないのですが、「中体西用」論では中国的な教えが体として確固としてあって、その上にその体を守る為に西洋の科学技術を用として導入するということになりますので、中国の皇帝独裁の王朝体制の維持、補強のための欧化にすぎないという限界が生じます。
「中体西用」という言葉を積極的に遣って論じているのはあまり見つからないのです。まあそれは大前提ということかもしれません。洋務派の漢人官僚の代表格は曾国藩、李鴻章(1823〜1901)、張之洞(1837〜1909)ですが、一番若い張之洞の『勧学篇』に分かりやすい説明があるので紹介しましょう。「(1)内篇第七 順序を守る」野村浩一訳(『原典中国近代思想史第二冊』より)
張之洞の『勧学篇』「(1)内篇第七 順序を守る」
野村浩一訳(『原典中国近代思想史第二冊』より)
「いま、中国を強盛に導き、中学(中国の学)を保持しようと望むのなら、西学(西洋の学)を学ばないわけにはいかない。しかしながら、先ず中学によって土台を固め、識見、志向を正しておかないならば、強者は反乱の首魁となり、弱者は人の奴隷となって、その禍いは、西学に通じないことよりも一層はなはだしいことになろう。
最近、イギリスの新聞は、「中国が変法自強を肯んじないのは、ひたすら孔教を信奉するところからくる弊害だ」とそしっているが、これは、大きな誤まりである。彼らが翻訳している四書五経は、すべて俗儒、町学者の解釈論であって、孔教とは、どのようなものであるかを知らず、そもそも非難することもできないはずのものである。
浅薄、卑陋な講釈、腐り切った八股文、禅寂の境地を求める性・理の学、雑駁でやたらに広い考証、浮薄で誇大な詩賦雑文は、孔門の学ではない。
官公文書、法律規則一点ばりで、官吏を先生とするのは、すなわち韓非子、李斯の法家の学ー暴虐な秦の始皇の政治を導き出すもととなったものである。俗吏がこの学問を利用し
た。
事がらを回避することをば老成だとし、安逸をむさぼっておいて民を休息させるものだといい、弊害を除去しないでおいて元気を養うものだというのは、すなわち老子の学―歴朝末世の政治を導き出すもとなったものである。佞臣がこの学問を利用した。これらはいずれも孔門の政治ではないのだ。
孔門の学とはひろく学んだうえ、礼によって集約し、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知り」(『論語』「為政」、『中庸』)
、天地とならんで、万物の性をつくすものである。孔門の政治とは、尊ぶべきを尊び、親しむべきを親しみ、民の生活を先ず豊かにして、しかるのちに教え導き、文明であって、しかも武を備え、時に応じてそれにかなった制度を整えるものである。孔子は、千人もの聖人を合せ、百代もの帝王と肩を並べ、天・地と並びたって、万物の化育を賛(たす)けた。かつて盗跖(とうせき)がそしり、墨翟が非難したような迂遠、鄙陋で役立たずの老儒ということがどうしてあろうか。
こんにち学問をするものは、必ずや先ず経書に通じて、わが中国の先聖先師たちが教えを立てた主旨を明らかにし、史書を考察して、わが中国の歴代の治乱、天下の風俗を識り、子・集〔諸子百家の書と詩文集〕を渉猟して、わが中国の学術、文章に通じなければならない。
そうしてのち、西学の中で、われわれの欠けたる所を補いうるものを択んで、これを取り入れ、西学の中でわが国の病弊を手当てしうるものを採用するようにすれば、それこそ益あって害はないのである。
たとえば、生命を養うには先ずその基となる穀物をとってのち、もろもろの美味なるものを喰べることができるのであり、病気を治療するには、先ず臓脈をよく調べてのち、それから薬を施すことができる。
西学を学ぶには必ず先ず中学を学んでから、というのもまたちょうどこれと同じである(華文に造詣の深くないものは、西洋の書物を訳すこともできないのだ)。
外国の各学校では、毎日、必ずヤソ経
(聖書)を朗読する。その宗教を重視するからである。小学険では先ずラテン語を学習する。古来の文物を保持せんがためである。本国の地図に先ず習熟してそれから地球全休の地図を観察する。ものには順序があることを教えんがためである。
学校の書物はおおむね自国の先君の徳政を叙述し、公私の歌曲の多くは自国の強盛を称揚している。これは、国を愛することを指し示すものである。もし、中国の士人であって、中国の学に通じないならば、それは、ちょうど自分の姓を知らない人間、轡(くつわ)のない馬、舵のない船のようなものである。そういう人間は、西学を学ぶことが深ければ深いにど、中国を憎悪することもいよいよ甚だしくなる。博識多才の士であったとしても、これでは、国家も、どうして用いることができようか。」 |
洋務運動というのは、日本でいえば殖産興業政策ということです。つまり上からの工業化ですね。国家の財政から投資して軍需産業や民需産業を興していこうというものです。そうしますと必ず反発が起こると予想されますね。必要な資金を増税によって賄いますと、国民の生活を圧迫します。他の予算を削って回すとなりますと、そこから不満が起こることになります。宮廷費などが削られると、宦官や保守派の官僚貴族からどうして野蛮な西洋のまねをするのか、中華には中華のやり方があるだろうと反発します。
アヘン戦争やアロー戦争などで勇敢に清国軍は、騎馬で近代軍隊に立ち向かったようですが、全く歯が立たないわけですね。清国軍には最新兵器もあったようですが、軍事訓練が行き届いていないので、きちんと使いこなせなかったようです。新式の銃と古い銃が混ざっていたりして、統一した指揮が取れていないこともありました。アヘン戦争の開戦時に海戦では、二隻イギリス船に二十隻以上の清軍船がやられています。
もちろんアヘン戦争の場合には、イギリスは遠路はるばるですから、少々暴れても、補給が続かないので、粘り強く持久戦に持ち込めば清国が敗北することはありえないのですが、形勢が悪くなった清軍は民家などを荒らしまわったので、漢人から攻撃を受けたりしています。元々侵略王朝であったという限界もあるわけです。ですから洋務運動では漢人官僚が中心になって、洋式の工場だけでなく、英語の教育機関を付設したり、海軍士官の養成も行なっています。海軍の場合は、日本より先に北洋艦隊という近代海軍をつくりあげました。
反洋務派の言論などが残っていれば、そのあたりの事情もわかるのですが、残念ながらなかなかみつかりません。日本で考えれば明治維新を幕府側が主導でやっていれば、果たして近代化できただろうかという問題ですね。やはり幕府の体制が限界になってなかなか進まなかったのではないでしょうか。
洋務派の実業家としては、李鴻章の片腕として活躍した鄭観応(一八四一〜一九三三)が注目されます。というのは彼は議院の設立の必要を堂々と説いたからです。
もっとも洋務運動は清朝体制と衝突しないことが建前でしたが、科学技術だけ導入し、産業を興すだけで、それに相応しい政治制度を全く取り入れないというのではありません。
「西学の中で、われわれの欠けたる所を補いうるものを択んで、これを取り入れ、西学の中でわが国の病弊を手当てしうるものを採用するようにすれば、それこそ益あって害はないのである。」と『勧学篇』にもありますから、政治制度でも西欧の近代的な政治制度を必要に応じて取り入れていいはずですね。ただし清朝の皇帝独裁と矛盾しない範囲でということです。
皇帝専制と矛盾しがちな制度としては議会制度の導入があげられます。ご存知のように清朝というのは少数民族の満州族が、圧倒的多数の漢族を支配していたわけですから、議会ができますと、漢族の議員が大多数を占めて満州族支配を覆そうとするかもしれませんね。そうなると大変なのでなかなか応じなかったわけです。
結局正式の議会でなく諮問会議ということで、最初に選挙をしたのが一九〇九年で有権者は総人口の約0.4%しかいなかったようです。さらに国会開設を一九一三年に行なうことを約束させられます。この選挙は辛亥革命後に清朝が滅んでから実現したわけです。
ですから西太后や恭親王の配下であった洋務派官僚から議院設立の必要を堂々と説くということはなかなか困難であっただろうと推察されます。そこで鄭はあくまで「中体西用」論者ということを強調しておいてから、議院の必要を説いています。議院の設立は重大な変革つまり変法ですから、鄭観応は洋務派であると共に変法派でもあるという解説もあります。李鴻章は彼の主張を知っていたのですが、才腕を買って彼を官営企業の経営者に登用していたわけです。ということは、李鴻章自身も議院開設の必要は理解していて、立場上言えなかったのかもしれません。
彼の提言は一八七五年『易言』で公刊され、一八九二年には『盛世危言』が出ました。その増補がでた時は光緒帝の批准を経ていたのです。つまり清朝政府もその時期には議院開設の必要は認めていたということでしょう。それでは『盛世危言』「⑵議院」野村浩一訳(『原典中国近代思想史第二冊』より)
から紹介します。
『盛世危言』「⑵議院」
野村浩一訳(『原典中国近代思想史第二冊』より)
「中国の人口は四億をくだらない。もし議院を設立して多数の人々の気持を一つにつなげ、ちょうど体が腕を使い、腕が指を使うように、四億という人間を合せて、あたかも一人のようにすることができるならば、四海を併呑することも難しいことではない。そうすれぼ、かの国々が九万里を越えて、むらがり到来し、ほしいままに振舞い、勝手きわまる要請を行ない、無礼の要求を提出し、事がらの大小を問わず一つでも齟齬があると、ともすればたちまち武力にかけてもと威嚇し、あきらかに公法に違反するのを坐視するほかないというような事態に、どうして立ち至ろうか。それゆえに、議院とは、大きく用いれば大きな効果があり、小さく用いれば小さな効果があるものなのである。
そもそも国の盛衰は人才にかかっており、人才の賢否は、選挙においてみることができる。議院は国人が設立するものであり、議員とはとりもなおさず国人が選挙するものである。一人から選ぶとなれば、賢であるか否かについては、おもねり、私するということがあるが、多勢の人間から選ぶとなると、賢否は、公正な論議を逃れることは困難である。
しかも、選挙は多数の人々によって行なわれるとはいえ、被選挙人は十年以上その地に居住し、年齢は三十歳以上に達し、かつ財産、家柄があり、教養をそなえ名望を得ているものでなければ、名のり出て議員に推挙されることができない。その弊害を防ぐにきびしいことは、またこのようである。
ヨーロッパの通常のきまりをみるのに、議員の議論は、すペてつつみかくすことなく公刊配布され、朝に一事を議論すると、夕方には新聞に掲載され、人々すべてに知らせる。その論議が妥当であれば、こもごもこれを賞讃するし、不当であれば、人々はみなこれを非難する。人民の正しい道を行なうという公正をば基本として、それを国中から賢者を採用する準則としている。かくして人才は輩出し、国の興隆は勃然たるものがある。
まことに、中国の郷挙里選の制をもととし、ヨーロッパの投票公選の法を参考にして、才能、名望ある議員を選び、さらに各省に多くの新聞社を設立して議院の是非を広く知らせれば、天下の英雄、奇傑の士、才能、智力にすぐれた民は、みなその忠誠をつくし、その抱負を伸ばすことができ、君主がひとりで労をにない、民は安逸をむさぼるという片寄ったことにはならない。
君民はあい和し、情誼は互いに通じ合い、天下には、是非を公にし、また公明な賞罰が存在する。こうして四海の大、万民の衆(おお)きが、苦楽を共にし、人に先んじて憂え、後れて楽しみ、あたかも一人の人間を治めるように上下一心、君民一体となる。こうしたうえでなお「敵国が我を侮り、外患が我を侵すということが、どうしてあるだろうか。
あるいは、漢代の議郎(論議を掌る官、特に賢良方正の士を徴してこれに任じた)、唐宋以来の台諌御史
〔御史台官と諌官。台官は百官の罪悪、過失を弾劾し、諌官は天子の公・私の言動を規正する〕は、つまり今のヨーロッパの議員ではないのかというものがあるかも知れない。しかし、これは、爵禄を君主から賜わるので、私的な恩をかえりみないわけにはいかず、また、その階級が高貴の家柄から出るので、民の苦しみにくまなく通ずることができず、しかも出身は各地に分布させることができず、ふだんの行ないは調べることができず、智愚賢否は一様にすることができない。そこで私ごとにはげみ、徒党をつくり上げ、売名営利をはかるという弊害が発生することを知らないものである。
議院の官・紳が各地から均等に、かつ民間から選ばれ、それゆえに野にある人々の苦しみをつぶさに知り、あちらとこちらを差別するという私にかたよった行ないがすべてなくなり、気持が通じて鬱積することなく、その意図は公平無私、諸々の利益がみな興り、諸々の弊害がことごとく除去されるのにどうして及ぼうか。
したがって、公法を行なおうとすれば、国勢を伸張するより重要なことはなく、国勢を張ろうとすれば、民心を得るより大事なことはなく、民心を得ようと思えば下情を通ずるより重要なことはなく、下情を通じようとすれば議院を設けるより大事なことはない。
もし中国がいつまでも卑賤弱体に甘んじ、富国強兵によって天下に仰ぎみられる国になろうと思わないというのなら、これはそれまでである。しかし、いやしくも国内を安んじ、外患を攘い、国に君として立ち、民を子の如くい
つくしみ、公法をたのんで太平の局面を保とうとするなら、それは必ず議院の設立から始めなければならないのである。」
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洋務運動は、中体西用思想ですから、清朝の皇帝独裁体制はそのままにして、欧米の近代科学技術を導入して、富国強兵を実現しようというものです。その意味では、日本の明治維新とは違いますね、日本は幕藩体制を維持したまま近代化をしていくという方針は貫けなかったわけです。
一時「安政の大獄」で佐幕開国を試みますが、桜田門外の変で大老井伊直弼が勤皇攘夷派のテロに斃れますと、公武合体となり、西南雄藩を取り込もうとします。そして薩長同盟が出来て、倒幕開国に進み、薩長藩閥の覇権のもとで天皇を統合の中心とする中央集権国家を形成する明治維新が断行されたわけです。
日本は徳川幕藩体制では日本が一つにまとまり、欧米列強の圧力を跳ね返し、欧米の科学技術を取り込んで近代化することはできないと見切ったわけですね。この論理を中国に当て嵌めれば、清朝では中国の億万の民をまとめることはできないということです。
その意味で「太平天国の乱」はタイミング的にはよかったのです。しかし中身
にまずいところがあった。清朝に取って代わるのに、彼らも王朝的意識が強すぎました。そして大同思想の影響で理想主義に奔ったので、知識人や富農層が離反してしまいました。そして宗教的な全能幻想が強くて、それが原因で仲間割れを起してしまいました。たとえ一時的に全国制覇できたとしてもすぐに崩壊していたでしょう。
結局日本の方が殖産興業政策や軍事技術の近代化が順調にすすんだわけです。その結果がはっきり出たのが、日清戦争における清国の敗北です。中体西用論の枠に収まっていては駄目であり、はっきり変革つまり変法し、自強しなければならないということで、「変法自強」に舵をとることになります。
http://coffeejp.com/u/space.php?uid=149528&do=blog&id=27770『運ちゃん的日志』の「和製漢語の形成とその展開について」のサイトによりますと、一八九八年には、張之洞が『勧学篇』の中で「留学先としてはその便宜性において西洋は東洋(日本)には及ばない。」と述べています。その理由を箇条書きします。
@
近いために旅費を節約でき、多くの留学生の派遣が可能であり、また視察にも便利。
A
同文同種ゆえに西洋文に比して日本文の学習は容易である。
B
西洋の本は膨大過ぎて要領を得難いが、日本人はそれらを既に取捨選択してくれている。だから半分の努力で倍の効果が期待できる。
C
日本の風俗も中国に似かよっており、模倣も容易で、これに勝るものはない。
D
それで尚、更に詳しい知識を得たいと考えるなら、その時に改めて西洋へ渡ればよいのである。隣国ゆえに留学費用も西洋に比して安価である。
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張之洞の意見が採用されまして、一九〇三年に『遊学卒業生奨励規定』が制定されまし
た。それで日本への留学が大ブームとなりました。日本には清国からの留学生が一九〇五年は八〇〇〇人、一九〇六年は一三〇〇〇人いたそうです。孫文も周恩来も日本で勉強しているのです。日本が中国近代化の「方法」として大いに貢献したわけですね。
一九〇二年〜一九〇四年には五三三翻訳書が出版されましたが、そのうち三二一が日本語書籍の翻訳でした。ですから日本で生まれた和製漢語が中国に輸入されたわけです。『漢字外来語詞典』によりますと外来語の一割が日本からのものだそうです。
「和製漢語」八九六の一部を『運ちゃん的日志』から紹介します。
一、
漢字を利用して欧米の語彙の音訳が中国へ伝わったもの
瓦斯、基督教、倶楽部、珈琲など
二、
漢字を利用して欧米の語彙の意訳が中国へ伝わったもの
温度、概念、科学、観点、基準、義務、客観、金融、銀行、経験、経済学、芸術、系統、原則、現実、公民、講座、広告、工業、国際、雑誌、質量、社会、宗教、集団、出版、情報、所得税、人権、政策、体育、直径、通貨膨張、定義、哲学、電話、内容、反応、悲劇、美術、否定、評価、不動産、方案、目標、輸出、冷戦、論理学など
三、
日本が独自につくった漢字が中国へ伝わったもの
腺、糎など
四、
漢字を使用してつくった日本語が中国へ伝わったもの
奥巴桑(オバサン)、歌舞伎、仮名、茶道、榻榻米(タタミ)、不景気、和服など
五、
古代漢文の中にあった語彙を使った欧米の語彙の意訳が中国へ伝わったもの
医学(旧唐書)、労働(三国志)、博士(史記)、衛生(荘子)、演説(
尚書)、鉛筆(東観漢記)、交際(孟子)、革命(易経)、経済(宋史)課程(詩経)、環境(元史)、機関(易林)、理性(後漢書)、気質(宋書)、偶然(列子)、計画(漢書)、憲法(国語)、保障(左伝)、社会(東京夢華)、消極(周書)、条件(北史)、精神(庄子)、想像(楚辞)組織(遼史)、反対(文心彫竜)、悲観(法華経)、文学(論語)、法則(周礼)、法律(管子)、保険(隋書)など
六、
古代漢文の中にあった語彙を使い、日本が自ら創り出した概念が中国へ伝わったもの。
浪人(柳宗元)など
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