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                                               中国思想史講座

                  
 

20.洪秀全の「太平天国」の夢
やすい ゆたか

 

はじめに


 

 日本でも近代の開始は、幕末の開国からだといわれます。中国でも近代は一八四〇〜四二年のアヘン戦争からなのです。清国がアヘン戦争で敗れたので、アヘンの害から中国を守れない清国に対して反感を強め、漢民族による支配を回復しようという動きが起こったのは当然です。その一つが「太平天国の乱(一八五一〜一八六四年)」です。

 ただし「太平天国の乱」は南京を天京として一時は清国を圧倒する勢いを見せたわけで、世界中が注目しました。そして洪秀全(一八一三〜一八六四年)はイエスの弟を自称し、キリスト教の神を「皇上帝」と呼び、神の子として地上を支配しようとしたわけですから、キリスト教を中華世界に布教すれば、このような過剰な受容の仕方になってしまったということで、宗教史上きわめて興味深いキリスト教の伝播の形になったのです。

 歴史は中国近代史の幕開けですが、洪秀全の思想自体は中国的キリスト教というか、それも正気のキリスト教とは言い切れないものです。もっともキリスト教自体が正気かどうは別にしてですが。

 それに彼は神の子を自称しますので、彼は中国限定の太平天国を築こうというのではなかったのです。世界全体が天王洪秀全の支配に服すべきであるということで、清国打倒はその手始めにすぎません。そして土地も富もすべて天王に帰すべきであり、全人類が公平な配分を受けて、皆豊かな生活ができるようにしようというユートピアの追求でもあったのです。

 それでプロレタリア文化大革命の時期には「太平天国」運動は、先駆的な改革への動きとして高く評価されたわけです。でもそれはほとんど夢想みたいなもので現実的基盤はありませんでした。でも彼は神の子として不可能なことはないわけですから、ユートピアの夢に酔わせて民衆を組織することもできたのです。プロレタリア文化大革命における『太平天国の乱』に対する評価の変遷で、プロレタリア文化大革命を特徴づけることもできるわけです。

 このように洪秀全の波乱万丈の人生は、我々が中国の特色や中国の今を語る場合にとても興味深い材料になっているのです。

 一、科挙に落第で発病


 

 客家(はっか)というのは中原から江南に移住してきた漢族を指します。後から来たので、いい土地はなく、山間の土地で貧しかったわけです。洪秀全の家は下層中農だったようです。洪秀全の故居の前には泥池があって、村中の糞便が雨水で流れ込み、四方に臭気を放っていたということです。そこで三男坊として生まれました。兄たちは勉強の方はあまり得手ではなかったようです。それで利発な三男坊に期待をかけたのです。

 官禄ふには客家のための村塾があり、県試合格ために勉強していました。残念ながら官禄ふから清代で科挙の合格者は一人もでていません、後に洪秀全を名乗ることになる仁坤(じんこん)は村全体の期待を背負って、すごいプレッシャーのもとで挑戦していたのですが、一八二八年満十四歳、一八三四年、そして一八三七年と三回も不合格になりました。

 客家に対しては差別が激しく、試験の審査も不利にはたらいたかもしれませんね。ともかく彼は相当自惚れが強かったはずです。神の子として地上支配を任されたと後に思い込むことになるのですから。ですから三回も不合格させられたという屈辱には耐えられなかったようです。それで病に倒れてしまい、不思議な夢を見まして、それがそもそもの太平天国の乱の原因になるわけです。

 満十四歳で府試にもし合格していたら、大変な天才といわれたでしょう。挑戦するだけでもすごいことです。だから相当秀才と見られていたわけで、十七歳から村塾で教師をしていました。二十一歳の時に広州で二度目の府試に落第した際に、プロテスタントの最初の中国宣教師英国人ロバート・モリソンによる二番目の改宗者梁発の『勧世良言』を入手しました。これがキリスト教の入門書だったのです。後に洪秀全は内容をチラと見ただけで書棚にしまいこんでいたと言っています。でもその時の刷り込みが効いたわけですね、三度目の不合格で、発熱して倒れまして、いろいろ不思議な夢をみました。

 この夢の内容が『勧世良言』が一致するので、夢の内容を真実だと思うようになったようです。その内容はハンバーグが『洪秀全の幻想』という本で紹介しています。かいつまんで紹介しましょう。 

 彼は奇妙な夢や幻想を見るので、きっと死の予兆と思って、家族に親孝行できずに先立つ不孝を詫びたりしていました。そして死んだようになったのですが、霊魂はどうも天上に行っていたようなのです。川で清められて大きな宮殿に入り、そこで五臓を新しい深紅のものに取り替えられました。

 そして壮大なホールに連れて行かれ、一番高いところににる老人にお目通りということになったのです。

「天下のすべての人間は、私が生み、育ててきたのだ。人はみな私の食物を食べ、私の衣服を着ている。だが誰一人として私を記憶し、私を敬う者はいない。さらに悪いことに、私が与えた物を悪魔にささげて仕えている。かれらはわざと私に背いて、私を苦しめているのだ。おまえはかれらを真似てはならぬ。」

こう言うと、仁坤に一振りの宝剣を与えて、

「これで悪魔どもを絶滅せよ、ただしおまえの兄弟、姉妹たちを殺してはならぬ」

と命じたのです。それで邪神を圧伏するための印璽と黄金色の果物を一つ与えたのです。

 天上でも、仁坤がご老人への義務を果たすように説得しますと、老人への義務をやっと思い出したり、友人と楽しく飲んでいればそれでいいだろうと言う者もいたのです。まして地上を見下ろしますと、言い表せないほどの腐敗と悪徳に満ち満ちていたのです。

 目覚めて彼は父に天上の至尊の老人から地上の支配権が与えられたと報告しました。父は息子が元気になったのはうれしかったのですが、すっかり気がふれてしまったようなのでとても心配しました。 

 彼は結局四十日間病床にあって、天上の夢とか、妖魔を宝剣で滅ぼす夢を見たのです。そして孔子が正しい教えが広がるのを妨げたとして糾弾されているのを見たのです。それでこの夢の意識が分かりますね。科挙はすべて儒教の四書五経からでるわけです。その試験に不合格だったので、かれは孔子にまで恨みを抱いたわけですね。

 それで孔子に代わる権威として皇上帝つまり天帝を崇拝しようというわけです。ところが道教の天帝思想は頼りないところがあります。唯一絶対神ではありません。皇帝に徳が尽きたときに天命を改めて易姓革命を行なったりしますが、ふだんは北極星で影が薄くて、中心にいるだけですね。これは物語の世界ですが、孫悟空が天上界で暴れまわって斉天大聖の称号まで分捕っています。お釈迦様には全く歯が立たない孫悟空にかき回されているわけです。ところが『勧世良言』の神天上帝は唯一絶対神なのです。万物の創造神なのです。

 でも夢想の老人と『勧世良言』の神天上帝のつながりはそのときは分かりません。彼は『勧世良言』のことなど忘れていたつもりなのです。とはいえ、病が癒えて、元気を取り戻しますと、何時までも夢想の世界に固執していられませんから、また日常に戻って、塾の教師をしながら府試を目指して受験勉強を再開したわけです。

 二、上帝教の創立


 

 一八四〇年から清国はイギリスとアヘン戦争を戦って敗れてしまいます。一八四二]年には、南京条約を締結します。洪秀全はアヘンによって中国人の富が吸い上げられていくことに悲憤慷慨していました。しかしその怒りはアヘンを持ち込んだイギリスに向けられるのではなく、それを許している清国政府に向けられているようでした。

 翌一八四三年には四度目の府試挑戦です。これも不合格でした。その後母方の従兄弟李敬芳に『勧世良言』について訊ねられたのをきっかけに読み直してみますと、六年前の不思議な夢の謎が解ける気がしたのです。

 夢に出てきた老人は神天上帝爺火華(エホバ)のことであり、彼が悪魔を宝剣でやっつけた時に助けてくれた年長者は救世主耶蘇(イエス)のことではないかということですね。それに悪魔というのは偶像だと考えたのです。当時儒教の聖人君子像だとか、仏教の仏像だとか、道教の神仙像がたくさん祀られていたのです。

 念のために申し添えますが、エホバはユダヤ教、キリスト教のバイブルの唯一絶対神の名前です。現在はエホバとは言いません。ヤハウェとかヤーヴェです。二十世紀中頃まではエホバと呼ばれていたのですが、どうもそれは間違いでヤハウェが読みとしては正しいようなので表記が変わったのです。でも正式には「YHWH」と記され読めないようになっています。「十戒」で「神の名をみだりにとなうなかれ」となっていますから。

 もし爺火華が神天や爺火華としか書いていなければ、それと夢に見た老人とは結び付けられなかったかもしれません。洪秀全は老人を道教の天帝をイメージできても、唯一絶対の神とイメージできないからです。とはいえ、夢自体はチラとでも『勧世良言』を読んでいたので見たのでしょうから、潜在意識では気付いていたといえるでしょうね。

 李敬芳に夢の内容が『勧世良言』に符合しているので、この夢は神から偶像崇拝を打破するように命ぜられたのだと説得して二人で頭から水をかぶって洗礼を行なって「上帝教」を創立したのです。なお「拝上帝教」という解釈もありますが、『洪秀全の幻想』(汲古書院)の著者市古宙三さんの解釈に従って「上帝教」にしておきます。「拝上帝教」は「上帝を拝する教え」であり、教団名としては「上帝教」でいいだろうという解釈です。

われらの罪は天にみなぎる
幸いにイエスの贖罪に救われたり
われら妖魔に従わず
聖なる教えひたすら守り、ただ一つの上帝崇め
われらが心を陶冶せん
天堂の栄光はわれらの前にあり
人みなすべて慕うべし
地獄の悲惨を悔ゆるべし
とくとく頭を回らして
真理の果実を味わわん
世俗の習いにひかるる勿れ

 

洪仁玕と馮雲山も同志に引き入れ早速塾の孔子像を片付けるなど、偶像排斥運動を始めたのです。塾は元々科挙合格のための塾ですから、四書からしか問題が出ないのに、孔子像を片付けるなどとんでもないことですね。彼らは全く孤立してしまい、預言者は故郷に容れられないと『勧世良言』に述べてあるので、馮雲山と馮姓の他の二人の四人連れで異郷へ布教にでかけることになったのです。 

手に三尺(剣)を持ちて山河を定め
四海を家と為して共に和を飲まん
妖邪を檎え尽くして地網に投じ
残れる奸者を究め収めて天羅に落とさん
東南西北は皇極にかかり
日月星辰は凱歌を奏す
虎はうそぶき竜は吟じて世界を光らす
太平一統すれば楽しみいかばかりならん
 

いかにも上帝教で一世風靡する意気込みですが、広州周辺から瑶山区の瑶族への布教をめざしたものの、清遠でやっと数人獲得しただけだったのです。そして広西省貴県の賜谷村に布教しました。洪秀全の母方の親族が移住していたからです。

そこには山で歌垣で野合したカップルを六窠廟に神として祀っていたのです。とんでもない道に外れた信仰だということで、攻撃しました。そして役人に捕らえられていた王家の息子を訴状を書いて釈放させるなどして、客家農民を百人ほど獲得したようです。馮雲山はさらに桂平県に布教しようといい一人で旅立ちました。洪秀全はいったん帰郷して、再起を期すことにしたのです。

 原道救世歌


 

一八四四年、洪秀全は八ヶ月ぶりに帰郷して、また村の塾の先生に返り咲きました。村の人々は洪秀全が失敗に懲りてまともに成ってくれればと願っていたのですが、彼は人々に分かりやすく上帝教の真理を伝えるために、懸命になって布教文書を作っていたのです。

洪秀全の上帝教は広がりやすい素地があったと思います。なぜなら上帝は既に道教の天帝として崇拝されてきていたものですから、改めて知らない神を信仰しなくてもいいわけです。

 それに信仰を上帝だけに一元化しようというのが、上帝教の中心教義ですからこれは分かりやすい面があります。上帝を唯一の創造主とし、絶対的な唯一神とすれば、上帝さえ信仰すれば絶対的な神としてすべての問題を解決してくれるような気がするからです。

道教の場合は、それぞれの地域の山川や大地やそれぞれの自然に宿る力や、怨念や神仙の修行で様々な妖術や神仙術を備えた神々や妖怪変化が信仰の対象になるわけです。中には害を為すので、祀って供物を捧げなければならないものも多いわけです。

しかし頼りきれるかというとあてにならない者も多いわけですね。それにそういった土俗的な信仰にはしっかりした教義はなく、謂れも頼りないものが多いので、信仰も確固としたものではないのです。

ですから信仰を上帝だけにして、他のものはすべて妖魔だということにして、追い払ってもらえればかえって安心できるというのが上帝教の理屈です。では此の時期につくられた『原道救世歌』の一部を紹介してましょう。

天地開きし真神は
  上帝一人おわすのみ
  身分高きも賎しきも
  ひたすら拝みあがむべし
  天の父なる上帝は
  世の人すべての父なるぞ
  天下は一つの家にして
  古えよりぞかく伝う
  そもそも盤古の始めより
  三代(夏・殷・周)の
治に至るまで
  君と民とのへだてなく
  ひとしく皇天うやまえり
  この古き世にありしとき
  王者は上帝これあがめ
  諸侯、士、庶人おしなペて
  みなもろともにあがめたり

天と人とは一つなり
  道理に二つはなきものを
  ただ君王のみが唯ひとり
 (天・上帝を)専有するのいわれなし
  上帝をこそあがむべし
  人々なべてかくすべし

ただ一筋の糸すらも
  上帝これを賜うなり
  ただ一杯のめしすらも
  天の恵みによるものぞ
  朝なタなに拝するは
  人たるもののつとめなり

上帝以外のくさぐさを
  拝み尽くしてみてみても
  なべて空しきことなるぞ
  益なきのみにはあらずして
  害を受くるが果てならん

呼気も吸気もことごとく
  天のおかげと自覚せよ
  五行万物なべてみな
  天の造化のたくみなり
  上帝以外の他の神が
  造化を宰するいわれなし

神によって作られたということで人間はみな平等ですが、そのことと現実の社会では上下尊卑貴賎の区別は当然だということですから近代的な市民革命の思想ではありません。そして儒教道徳は科挙を四度も受験しているだけあって深く染み付いています。

また彼は六つの不正を指摘しています。

@淫行、
A父母に逆らうこと、
B人を殺すこと、
C人の財を盗むこと、
D神や死者の魂を呼び出してその
お告げを伝えること(巫覡)と呪い、
E博打を打つこと、

です。

そして『原道醒世訓』では「大同」思想が説かれていました。大同とは礼儀によって規制しなくてもみんなが自然に睦み合う理想社会ですが、上帝によってすべて作られたとしますと、男はみんな兄弟であり、女は皆姉妹である、みんな家族として睦み合えば、仕事も財も分け合い、助け合って暮らすので、泥棒もいなくなって家の戸に鍵をかける必要もない、これが大同社会だと説いているのです。これは『礼記』「礼運篇」にあります。社会全体が家族のようになれば大同の理想が実現するということですから、素朴な共産主義です。そういう発想が孔子の時代から引き継がれているわけですから、アヘン戦争後の混乱時や、現代になって中国共産党が台頭したのも分かります。

 四、偶像破壊運動とトラブル


 

 さてその頃馮雲山は紫荊山に入って、上帝会を組織し、洪秀全が一八四七年にそこを訪れた際にはすでに三千人の信徒を得ていたといわれます。洪秀全に欠けていたのは現世利益を説くことでした。神は上帝のみというのは、流民だった客家たちにとっては都合がよかったのです。だって、それぞれの土地の神の信仰は先住民が独占していて、よそ者を受け付けなかったからです。ですから排斥された客家たちからすれば、先住民が信仰しているのは妖魔で、上帝だけが本当の神だと言ってくれるのはとてもありがたかったわけです。でも彼らは生活に困窮していましたから、神が豊作をもたらしてくれるとか、病気を治してくれるとか、神のお陰で助かっていることを強調しなければついてこないわけです。

 アメリカ人宣教師ロバーツは羅孝全という漢名を名乗り、一八四四年に広州に入り、一八四六に侵礼会(バプティスト)教会を作まして、伝道を開始しました。一八四七年洪秀全・洪仁玕はロバーツの広州教会に手伝いということで行きまして、はじめて新約聖書・旧約聖書を全部読みました。それからちょっとしたトラブルがあって、結局洪秀全は、馮雲山のいる紫荊山に合流したのです。

 食事の時には日用の糧を与えてくれる神に感謝し、健康を守り、仕事がうまくいき、生活を豊かにしてくださるようにお祈りしたのです。そして災難が消滅し、天国にいけることを願いました。そういう祈りの儀礼化整えば、キリスト教は土着の神仙思想に比べて説得力がありましたし、広がったわけです。そこで「祈り」や「戒律」などを定めた『天条書』が作成されました。その中のモーセの『十戒』に倣って作られた戒律です。
 

     @皇上帝を拝め
A邪神を拝むな 
B皇上帝に勝手な名前をつけてはならない。
C七日ごとに礼拝し、皇上帝の恩徳を讃えよ。 
D父母に孝順なれ。 
E人を殺し、傷つけてはならない。 
F不義、淫乱の罪を犯すな。 
G盗み、掠奪をするな。
H嘘、偽りを言うな。 
I貪るなかれ

  上帝教の特色は偶像崇拝の禁止にあります。上帝教が偶像崇拝をしないというのは勝手ですが、上帝教に属さない人々が偶像を崇拝しているのを許さないわけです。唯一絶対の神を信仰しているだけですまないで、他人の信仰に対して干渉し、神を冒涜している罪深い行為だとしてやめさせようとするわけです。

 大変独善的で、攻撃的宗教になりやすい一面をもっているわけですね。それまでは儒教、仏教、道教は色々トラブルもあったようですが、共存してこれたのですが、上帝教は妖魔を討つといって偶像破壊に乗り出し、神仙思想の神々の像が破壊されたり、孔子の像がしまわれたりしたわけです。

 象州の甘王廟の神像打壊しが代表的です。元々は佃という名の金持ちで貧民によく施したので死後神に祀られたのですが、叔父の武将の霊と混同されて恐ろしい祟り神とされ、母親さえ打ち殺したとされていたのです。それで洪秀全たちはそんなとんでもない奴は妖魔であって、地獄に堕ちろと偶像を破壊してしまったのです。

 彼らは周辺の廟の神像を次々破壊しました。雷廟が破壊されたということで地元の人々に馮雲山は捕えられ、官憲に引き渡されたのです。こうして偶像破壊は敵を作り、弾圧を招きますが 、既成の秩序や権威に挑戦し、迷信を撲滅する啓蒙的な役割を果たし、上帝会の教勢を拡大していったのです。

 もしキリスト教という名前のままだと、いかにも輸入宗教ですから、外国人の神によって中国人の神々に攻撃を加える感じになりますから、中華思想の強い中国人には広がらなかったでしょう。あえて道教的な呼び方で上帝としたことで、彼らは中華民族の信仰を純化し、いかがわしい妖魔信仰を排除する啓蒙運動として上帝教を受容できたのです。それに上帝教では洪秀全が上帝から選ばれた現代におけるキリストとして妖魔退治の先頭に立つわけですから、欧米の中国植民地化の目論見に迎合するのではなく、逆に欧米人もキリスト教に従うなら、洪秀全に従うべきであることになります。

  五、太平天国の建国


 

  一八四八年から洪秀全を現代のキリスト、主とするために、紫荊山に住む農民蕭朝貴にイエスが憑依し、楊秀清に上帝が憑依して洪秀全に命令をつたえたのです。これを「天兄下凡、天父下凡」といいます。これは上帝会が禁止していた巫覡の一種です。

それで「天下万国の真主」は洪秀全だという上帝の言葉を楊秀清は伝えたのです。楊秀清は重病に罹って、人々の罪を償います。これは近代の新興宗教の教祖がよくやる方法です。信者の罪や病気を教祖が引き受けるわけですね。そこまで自己犠牲的に愛してくださったということで、信徒の信仰が深くなるのです。当然上帝会の中で楊秀清や蕭朝貴の重みが増し、地位が高くなります。

一八五〇年七月二十八日天兄イエスは

「秀全よ、天父・天兄がお前に権威を与える。おまえは兄弟たちを率いて、ともに天下を平定して人々に示さなければならない」

と告げ洪秀全は「天兄の命令に遵います」と応えています。

天兄下凡、天父下凡は洪秀全に地上支配権を与えるためでしょうから、一八四八年から武装蜂起の準備は始まっていたということです。そして一八五一年四月八日楊秀清に上帝が憑依して言いました。

「私はおまえたちの主をこの世に降して天王とした。彼の言う一言一言は天の命令であり、遵守しなければならぬ。まごころから主を思い、主を助けようとするなら、気儘に振舞ったり、怠ったりしてはならぬ。主、王を思わぬものは、誰であれすべて災難にあうだろう。」

このように上帝会が洪秀全を天王として天下取りに蜂起することになるのですが、どうしてそれが可能だと思われたのでしょうか。その第一の理由は清朝政府が統治能力を弱めていたからでしよう。相次ぐ災害、飢饉で荒廃していまして、当時広西各地に匪賊とか土匪と呼ばれたアウトローの集団が数十も分立しまして、それぞれ千から数千の兵力を擁していたといわれます。その多くは義賊を標榜して、富者から奪って貧者を救う、天に替って、道を行なうと叫んでいたのです。

元々清のはじめ頃から清を滅ぼして明を復活させようという結成されたのが天地会だったのですが、農村の衰退、アヘン戦争での清国の弱体ぶりを見て、各地で武装闘争が始まったわけです。上帝教という宗教と結びついた「太平天国の乱」も清朝を滅ぼすところは同じですが、漢民族の中国支配という民族主義ではなく、洪秀全を中心にする上帝教の世界支配が目標です。

ところで上帝教からみれば天地会も上帝の命令に従がっていません。つまり上帝のみを唯一神として信仰していません。そして天王洪秀全に従わないので、妖魔であるということになります。天地会系の反乱軍で清国軍に破れた首領たちは、仕方なく上帝会に合流してきますが、戒律が厳しすぎて根を上げてしまい脱落する連中が多かったようです。

一八五〇年にいよいよ一箇所に集結し、拠点を作ることになります。土地や家屋を売って、そのお金を全体の金庫に入れまして、この金庫から食料衣服を得るわけです。これは大同思想の実践ですね。いよいよ戦争となれば軍用金も必要ですから大同思想で団結する必要がありますが、全財産を上帝会に捧げて、衣服や食料が十分支給されなかったり、特権者が優遇されすぎたりしますと、不満がでてきます。また配分が平等だとより多く貢献したと考えている人が納得できるのか心配ですね。

さあその年のうちに何人の上帝会のメンバーが金田村に結集したでしょう。中には一千人もの一族郎党を引き連れてやってきたものもいて、一万人を超える人々が太平軍に結集したのです。そこで先ず厳しい『五条の軍規』を定めました。

             『五条の軍規』

  一、天条および命令に従う。
二、男営、女営に分ける。
三、
秋毫(いささかも)も犯してはならない。
四、
私心を捨て、たがいにわだかまりを持たず、頭目の取り締まりに遵う。
五、
心を一つにして力を合わせ、陣に望んでは退縮してはならない。

清国を滅ぼすまでですが、夫婦や恋人は引き離されて、男営、女営に分けられました。まあこれが一番つらかったようですね。夫婦が会話するときも一メートル以上離れていなければならず、男女が直接物の受け渡しをしてはならないというのです。

「犯してはならない」というのは人民のものを奪ってはならないというもので、路傍や民家で排便することも禁止したのです。故左足を民家に入れたものは左足を、右足を入れたものは右足を斬るという罰が科せられたといわれています。

後に中国共産党の指揮下にあった八路軍は「三大紀律・八項注意」を定めましたが、それと比較しておきましょう。毛沢東は太平天国の乱を高く評価していますから。

     八路軍「三大紀律・八項注意」

          三大紀律:

一切行動聴指揮(一切、指揮に従って行動せよ)
 不拿群衆一針一線(民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな)
 一切繳獲要帰公(獲得したものはすべて中央に提出せよ)。

         八項注意:

@説話和気(話し方は丁寧に);
 A買売公平(売買はごまかしなく);

 B借東西要還(借りたものは返せ);
 C損壊東西要賠償(壊したものは弁償しろ);

 D不打人罵人(人を罵るな);

 E不損壊荘稼(民衆の家や畑を荒らすな);

 
F不調戯婦女(婦女をからかうな); 
 G不虐待俘虜(捕虜を虐待するな)。

 一八五一年一月十一日に洪秀全の誕生日を祝うと共に太平天国の建国を宣言したのです。

 清国軍の包囲にあい、金田村から江口墟、紫荊山、武宣、猪仔峡、台村、三里墟、東へと陣を移しました。清国軍は太平軍のいたところを焼き払い、そこの人々をたくさん殺したので、信仰はあっても太平軍に参加するつもりがなかった人々も太平軍に加わってきたのです。

三月二十三日東郷で洪秀全は正式に天王の地位に就きました。

 そこも清軍に囲まれ、各地を転戦して、永安州に至ってここを占領し、半年間占領しました。そのとき太平天国の体制を整え、馮雲山を南王、楊秀清を東王、蕭朝貴を西王、韋正を北王、石達開を翼王に封じました。永安城に立て籠もった太平天国軍は約一万人、それを包囲していた清国軍は約四万六千人だったといわれています。

 六、太平天国の栄華


 

この時期に太平天国軍は精神的にも非常に強くなったようです。

 永安では、戦死者や功臣に対しては天国を保証するだけではなくて、太平天国での地位を与え、それを世襲させることを約束したのです。元々太平天国軍に入るときに土地や家屋を処分して、上帝会に全部納めていますね。それは将来太平天国の時代になれば、官位官職が与えられ、太守や将軍、諸侯や卿大夫にもなれると考えたからです。

 その上、上帝会の場合は、天地を六日間で作ったとされる天父や、人類を救った天兄という強力な味方がついています。特に最高司令官になった楊秀清は天父が下凡つまり憑依しているのです。そういうことですから全員が死を恐れずに果敢に戦うものですから、永安包囲を打ち破ってからは各地で激戦し、桂林占領には失敗し、南王馮雲山が戦死するなどの打撃を受けたものの、各地で民衆に歓呼で迎えられました。

 ついに一八五三年一月に武昌を占領、三月には南京を占領し、ここを首都天京としました。要するにアヘン戦争に負けて、人民を欧米の悪辣な侵略から守れそうにもない清国政府には頼れないと思ったのでしょう。

 それで滅満興漢の天地会系の蜂起はあったのですが、それほど強力な指導者はいなかった、そこにきて太平天国も滅満興漢を積極的に唱えます。つまり中国は本来上帝が皇帝を選んで支配させるわけです。漢族の中国なのだから漢族を皇帝にするはずなのに満州族を皇帝にしているのは間違っているわけです。だから彼らは本物じゃない、妖魔なのだということですね。それで上帝から妖魔退治を任されたのが洪秀全だという理屈です。

 これが説得力をもったのです。やっと民衆を救う英雄が現れた、上帝から選ばれた真 の皇帝だということですね。つまりキリスト教が完全に中国化されたわけで、それで熱狂的に受け入れられたわけです。

 一時は五十万の兵力を擁し、全国制覇も近いところまで拡大しました。しかしこの成功の原因がまた失敗の原因にもなるもので、太平天国の全国制覇無理でしたし、たとえ一時は成功していても長持ちは無理だったでしょう。

 一八五三年の十月には天京から北伐軍が天津に迫りました。北京にはもう眼と鼻の先ですね。そして年末に「天朝田畝制度」が公布されました。ようするに土地は公有制にして、平等に分配して耕し、生産物はすべて上納して、天王が一大家族である人民に分配し、暖衣飽食できるようにするという制度です。

 もちろん怠けると罰を与え、よく働いたり功績をあげると、地位や官職を与えるというものです。しかし実際にはいったん人民から土地を取り上げなければなりませんから、権力を完全に掌握しないとできないわけですね。権力を完全に掌握した共産党政権は、それを推進しましたが、人民公社は完全に失敗してしまいました。

 これでやはり貧農たちは喜んだのですが、土地を取り上げられることになる富農層は、それなら清朝支配の方がましかと思ったでしょうね。そして上帝教は道教や儒教を否定しているわけですから、それを前提にした社会制度や秩序にとっても崩壊してしまう危機に直面しているわけです。知識人や士大夫や商工業者にとっても上帝会が唱える社会革命が本当に実現したら大変だと思ったに違いありません。

 曾国藩という朱子学者が湖南省で太平天国の乱が起こったので、急遽湘軍と呼ばれる反革命義勇軍を組織して形勢を逆転していきます。曾国藩自身は漢人ですので、清国政府は彼を警戒していたのですが、なにしろ当時の清軍は士気が低く、連戦連敗の有様でしたから、紀律の厳しい士気の高い湘軍に頼らざるを得なかったということです。

 太平天国は一方で貧民の立場に立った社会改革を掲げながら、その実、天王たち最高幹部は宮城を作り、百人の妃にかしずかれていました。諸王もたくさん妃をもち、ふんぞり返っています。そして早速勢力争いをはじめ、互いに猜疑し合っているわけです。

 洪秀全が天王で絶対的なのですが、最高司令官であり天父が下凡する東王楊秀清がいますね。天兄が下凡する西王蕭朝貴もいます。彼らは神やイエスが取り付いていますので、そのときには天王に命令できるのです。ですからつい全能幻想を抱いてしまい、なかなか統制がとれなくなります。

それから天京の中では男女隔離が徹底していました。諸王はふんぞり返って贅沢三昧、酒池肉林なのに一般兵士は夫婦も離れて話をしなければならないということで、不満が高まりやっと一八五五年に、北伐軍が全滅して、天京も包囲され、形勢が悪くなって脱走者が相次いだこともあり、統制が緩和されて一緒になれたのです。

そして一八五六年、天京は一時態勢を挽回し、敵の天京包囲は解除されますが、九月についに東王が北王らに殺害されます。これは天王の命令でした。それまでにいわゆる天父下凡と称しては、東王は天王をしかりつけ、杖で四十回も叩いたこともあるのです。それだけでなく、勝手に将兵に罰を与えたり、しまいには、東王と天王を対等に「万歳」を唱えさせようともしました。まあ天王はこらえにこらえた末のクーデターで、これをしなければ、逆にやられていたかもしれません。天父、天兄の下凡というトリックが洪秀全の権威を支えていただけに、今更それはインチキだったとはいえないので、北王らを殺してしまったのです。

その後も清軍や湘軍とのせめぎあい、一進一退はつづきますが、一八六四年天京包囲で食糧がつき、それでも天京を捨てようとしない天王は、野草を天から降された食糧だといって食べまして、腹を壊し、衰弱して死んでしまいます。そして湘軍が入城して、生き残って衰弱していた太平天国軍を皆殺しにしたのです。そして大げさに彼らは最後まで勇猛に戦ったと報告しました。そう報告した方が強敵を倒したことになって、褒美に預かれると思ったからだそうです。

後に辛亥革命が起こって中華民国政府ができますと、南京が首府になり、太平天国の大宮殿は総統府になります。ですから現在でも総統府の建物には洪秀全の銅像や玉座があります。

 

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