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                                               中国思想史講座

                  
 

19.明末文化人李卓吾―時代の寵児か徒花か―
やすい ゆたか

 一、八股文の達人


 

李卓吾(嘉靖六年一〇月二十六日(一五二七年十一月十九日) に生まれ、万暦三〇年三月十六日(一六〇二年五月七日))に亡くなっています。卓吾は号つまりペンネームです。元々は林載贄(りんさいし)で、姓を李に改めたということらしいです。一五六六年、隆慶帝朱載垕が即位しましたので、避諱から「載」字を除きまして李贄(りし)と名乗ったようです。陽明学左派となっていますが、別に革命家であったわけではありません。

「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」と言い切っていたのは、王陽明自身です。李卓吾は孔子を是非の基準から降ろすだけでなく、悪名高い呂不韋や李斯を持ち上げたりしていますし、邪淫な行為もあると彼自身が悪評をたてられました。それで権力から弾圧されて、獄中で自殺したので左派とされているのでしょう。

彼は福建省泉州府晋江の出身で先祖はに貿易関係の仕事でもしていたのでしょうか、回教徒出身とありますが、イスラム教についての彼の言説は分かりません。彼の祖父の時代に没落して、父の時代は貧乏だったそうです。一五九九年にキリスト教の宣教師マテオ・リッチに会った時に、キリスト教に一定の理解を示したいわれますが、そのことと回教徒の家系とは関係あるでしょうね。若い頃の著作が全くないので分かりません。

彼の故家は泉州市内に今でも残っています。もっとも何度か建て替えられたものらしいですが、現在でも人が住んでいます。なんとか貧乏から脱却しようとして、彼の父は教育熱心だったようで、林載贄は一五五二年二十六歳の時に郷試に合格しました。彼自身は、受験勉強については歳取ってから自虐的に語っています。

「やや大きくなると、また頭が鈍くなり、受験のために伝記や古典の注釈書を読んでもいっこう分からず、朱子の奥義がなかなか理解できなかった。それで自分でもいぶかしく思い、こんなつまらぬ勉強をいっそやめようかと思った。しかし、ぶらぶらしてすることもなく、暇をもてあまして、こう嘆いた。『これなんか全く遊びみたいなものではないか。ただ他人の文章を瓢窃して試験官の目をごまかせばいい。それに主任試験官だからといって、いちいち孔子聖賢の教えの精微に通じているわけではない』。そこで八股文の模範、前衛的でしかも味読にたえるものを選んで、一日数篇を暗記し、試験日までに五百篇を覚えた。試験問題が出ると、ただ写字生のまねをしただけで合格したわけだ。」(「卓吾論略」)

八股文について調べますと。「明の科挙における八股文は、八つの段落から構成されること、また「正文」は四つの部分それぞれ二つの比を対句として組み合わせて合計八つのあし(股)を持つことになることから、「八股文」と呼ばれた。」とあります。まあこれを五百篇を暗記して試験に臨んだのですから、大した学力でしょう。もちろん記憶力もすごいですが、相当理解していないと暗記もできないでしょうからね。

彼は晩年は陽明学を旗印にしてい手前、丸暗記して科挙に合格する為の学問など自虐的にしか語れないわけです。でもなかなか合格できない人が読むと、逆に秀才をひけらかしているように感じるかもしれませんね。

 二、相次ぐ子供の死


 

郷試に合格すれば、会試に挑戦できるのですが、会試に合格して進士にならなくても、地方官には採用されるのです。それで泉州で採用を待っていたわけです。郷試合格の四、五年前に同郷の六歳年下の黄氏の娘と結婚していました。ということは林載贄は二十一歳で彼女が十五歳の年に結婚したことになります。

彼ら夫婦は子供に先立たれるという不幸を何度も味わいます。これが彼の孤独な性格に強い影を落すことになったのかもしれません。先ず彼が二十九歳だった年に、長男が潭水で水遊び中に溺死しました。

「水深く能く人を殺す なんすれぞ此に浴みす。眠らんと欲するも眠り得ず 子のここに死するを念うを

飲まず又酔わず 子今何の罪ぞあらん 疾呼するも遂に応えず 痛恨すこの潭水」

翌年三十歳で河南省輝県の県学の教諭に任命されまして、四年後南京国士監(今の大学ですね。太学が国士監と呼ばれるようになったのでしょう)博士に栄転になりましたが、赴任数ヵ月後に父が亡くなりまして、官を辞して泉州に帰らなくてはならなくなったのです。儒教では服喪三年の決まりがありますから、せっかくすごいポストがあっても辞めざるを得ないのです。辞めなかったら親不孝ですから、ばれたら即刻罷免だけではすみません。時に倭寇が内陸部まで暴れまわっていたので、半年かかって泉州にたどり着いたということです。

喪が明けまして北京に戻りましたが、ポストに空席がないので待たされました。その間収入がありません。旅費も底をつきまして、寒さと飢えに苦しみまして、なんとか塾を開いて食いつないだようです。

元々国士監博士ですから、塾を開いたら会試に挑戦する学生たちが押し寄せたかもしれませんね。といいますのは書いていないので分かりませんが、県学教諭から南京国士監博士に抜擢されたわけはおそらく、彼が得意にした八股文の書き方、そしてその覚え方ですね、これを巧に教授したからではないでしょうか。

彼は退官するまで一冊も著書を書いていないわけです。つまり学術論文というか、そういうところで認められたわけではなかったようです。それならどうして国士監博士になれるのでしょう。それは科挙試験対策にうってつけだったからではないでしょうか。国士監も結局は科挙の予備校化していたでしょうから、欲しい人材は八股文の書き方を指導してくれる人材と思われます。

この時は、きっと塾での評判もよかったのでしょう。一年後三十七歳で彼は北京国士監博士に任命されました。ところがこんどは祖父の訃報です。そして同時期に次男も北京で病気で夭死(若死)しました。後に生まれた三男、四男も夭死したようです。これはかなりこたえますね。自分の人生は一体なんだと思うでしょうね、八股文なんか教えて、科挙に合格させて、要領よく文章が書けて、暗記のうまい役人ばかり育てて一体どういう意味があったんだと思うでしょう。子供が次々死ぬということはそういうことでしょう。

北京から泉州に喪に服すために帰るのですが、幼女が二人いたので、連れて帰るのが不安になったのでしょうか、どうしても妻子を置いて一人で帰郷すると言い出したのです。妻は心配してくれている自分の両親に会いたいので一緒に帰らせてくれるように必死で頼んだのですが、李卓吾は香典の半ばで河南省輝県の田を買いまして、そこで妻子に自食させたのです。

南京から泉州に帰るのに半年かかったということがありましたね。北京からだと二倍の距離です。妻と娘三人抱えての旅はつらいでしょうね。でも河南省まででも半分くらい来ているのですから、どうして泉州まで行かなかったのかと思いますね。まあ限界だったのかもしれません。

実は、まずいことにその地の悪い役人が田んぼに水を流さずに河川運漕用に水を使ったのです。李卓吾は帰郷前に交渉したのですが、それなら李卓吾の田にだけは流してあげましょうといったのです。そんな不正なことは出来ないということで、旅立ちました。ところがその年は大飢饉になってしまいまして、長女はなんとか助かったものの、次女、三女は栄養失調で、次々病死してしまったということです。彼が旅立って半年もたたないうちにです。

三年の喪が明けて輝県に戻りますと、何と幼女が二人も亡くなっていたことを知らされたのです。その際の様子を孔若谷が書いています。次のように李卓吾は述懐したということです。溝口雄三著『李卓吾―正道をあゆむ異端』一一五〜一一六頁を参照します。

―墓葬をとどこおりなくすませ、改めて天涯に首をめぐらすと、万里はるけき妻子を憶う心に堪えきれず、また輝県に帰ってきた。門をくぐって妻に再会した歓びは大きかった。しかし、二人の娘の安否を問うて、そのとき、自分が発って数か月もせぬうちに二人とも夭折したと知らされねばならなかった。 

このとき、黄氏は涙もあふれんばかりでしたが、居士が色をなしたのを見ると改めて礼をなし、葬事の首尾やその母の安否を尋ねるのでした。 

ーその夕暮れ、私は妻と燭はさんで向かいあい、夢のなかにいる思いだった。亡き子を

思う女性のほとばしるような情に対し、ことさら平静を装っていたが、しかし私も、ここに至っては、屐歯(げきし、木靴の歯)がぽきりと折れる思いであった。

「屐歯がぽきりと折れる思い」というのはきっと立っていられなくなるようなショックということでしょう。本当にショックの時はへなへなとたおれるようになるものですね。

 科挙対策教師の虚無感


 

嘉靖四十四年(一五六五)三十九歳で妻と長女を連れて北京に出ました。そのまま北京国士監博士に復職はできません。ポストが空かないと駄目なのです。北京で五年間暮らしました。生計はやはり塾でたてていたようです。もちろん科挙対策の塾でしょう。自分で塾を経営していたか、塾の講師に雇われていたかなど細かいことは分かりません。ただ塾経営とか、塾の講師では収入は大したことはなかったようです、だって五年後南京刑部員外郎という薄給の官位についていますから。

塾の講師というのはなかなかデリケートな仕事ですから、人気がでたらすごい収入になることも考えられますが、評判を落すと惨めになっていきます。上司や同僚とよく衝突したと語っているようですから、教師として向いていたかどうか問題ですね。たとえ八股文は巧に教授できても、学生と打ち解けられたかどうかですね。

私も大手予備校の講師経験が十年間ほどありますが、人気のある年とない年の差が激しかったですね。相手のニーズに応えながら、しかも楽しい授業ができればいいのですが、年によって生徒の反応が違いまして、なかなかその変化に対応するのは難しかったですね。

陽明学や仏教に関心をもったのはこの時期からです。要するに人間への人生への問でしょう。当時の科挙試験には正統である朱子学の教養で論述するのです。でも朱子学では彼の人生の哀しみは癒されるでしょうか、あるいは子に先立たれるようなことに成らないように生きる工夫はできるでしょうか。

もちろん陽明学や禅を学んでも正しい答えが得られるわけではありません。でも深い哀しみを堪えながら、己の納得いく生き方をしたいと模索する魂に、杓子定規でない、公式的な正義や徳ではない、自分に正直に生きていいというエールを送ってくれるような気がしたのでしょう。『陽明先生年譜』に付した跋語で李卓吾はこう語っています。

「私は幼い頃から、偏屈で片意地であった。学問を信ぜず、道を信ぜず、仙人釈迦を信じなかった。ゆえに道士を嫌い、僧侶を嫌い、道学の先生を最も嫌悪した。ただほんの僅かな俸禄にたよって家族を養わなければならないので、こういった世俗の連中に接せざるを得なかった。しかし役所で公務につとめるほかは、戸を閉じていつもと変わらず暮らしていた。歳が四十にもなった時、友人の李逢暘、徐用検は、王龍渓先生のおっしゃったことを伝え、王陽明先生の書いた書物を示してくれた。そこで、道を得た真の人間は不死であり、実は真の仏様、真の仙人と同じであることを知った。偏屈な私だが、信じないわけにはいかなかった。」(劉岸偉著『明末の文人 李卓吾―中国にとって思想とはなにか』中公新書、六一頁)

このコメントから彼は教職も役所つとめと感じていて、彼が八股文の指導を通して教授していた朱子学の内容を、俸禄のために、機械的に丸暗記させていただけだと総括していることが分かります。

隆慶四年(一五七〇)四十四歳。南京刑部員外郎という薄給の官位につきました。教職を引いたのは、朱子学の優等生的な解答を教えることに嘔吐したからかもしれませんね。これが正しいということにしておけば世の中うまく治まるのだということでは、魂は救われないじゃないかということでしょうね。

このころから、講学(学究)の生活に入りはじめ、王龍渓や羅近渓ら、陽明学派の大家とも交わっています。

王龍溪は、良知は無善無悪だとしたのです。つまりそれは天理、天則であって、人間が道徳を修行して、何が正義かを究明したうえで、行なうようなものではなくて、「現成良知」だというのです。「現成」とは、眼前にすでに出現しできていることでです。ですから良知を発現させるために作為的に行なったり、修養によって立派な人だけが行なえるというようなものではないのです。

学を説き、理を究明する道学者たちは、結局、いろいろ理屈をこねて自分たちの認識や行動が正義であると言い張るわけですが、それではそういう理屈をこねる連中が権力を握っていれば、権力が行なったことはすべて正義だったかに言いつくろわれてしまう恐れがあります。

潭川で溺れた息子を思いますと、李卓吾は川を深く恨みますが、川は自然の摂理で流れていただけです。それと同じ様に、幼い娘が二人も飢え死にしたのは、河川の運漕を田の灌漑より重視した役人の非人道的な判断で、これを李卓吾は深く恨んでいますが、それは国政全般の観点にたてば、水運を重視する方が公共性が高い場合も有り得るわけですから、李卓吾の恨みは私怨に過ぎないかもしれません。

おそらく役人との論争になれば、役人は一歩も引かずに水運の理を説き、そこは畑には相応しくないとまでいうかもしれませんね。それでは幼女の命の重さは何だったのかということになります。

 四、退官後の出家


 

無善無悪というのは、おそらく善悪を超えたところに良知である心があり、それは人として天地から生まれ、大いなる生命の現われとしてある限り、もっている無垢の心です。潭川に息子を返せと叫び、役人の無慈悲や不正を怒る心は、良知の叫びであり、抑えきれない命の叫びでしょう。その声のまま行動すれば、あるいは権力や社会から抑圧されたり、排除されたりすることになるかもしれません。悪の烙印を押されることもあるでしょう。しかしそれが現成することは抑えがたいことなのだということです。

これが後に「童心」という原理として展開されることになるわけです。 

晩年李卓吾は、五十歳以前をこう斬って棄てました。

「ー私は、幼時から聖教を読みながら聖教を知らず、孔子を尊びながら孔夫子がなぜ自分にとって尊ぶべきものかを知らず、いわゆるか矮子(ちび)の芝居見物で、人が「いいぞ」と掛け声をかければ、何も見えぬまま人の背後で付和しているだけという風であった。ーこのように、五十以前の私は真に一匹の犬にすぎず、前の犬が吠えれば、そのあとから吠えるだけであった。

ーああ、いまこそ私はわが孔夫子を知った。もはや犬の吠え声ではない。かつての矮子も、老いに至ってついに長身の人となった。… すでにみずから聖を知ったというからには、またこのうえは仏僧たちとともに学びたいと思う。」(『続焚書』巻二、聖教小引)

つまり彼は朱子学を学び、教えていたのですが、それは科挙合格のためのテキストに過ぎず、彼の飯の種であっても、彼自身が主体的に生きていく為の学問ではなかったということです。

万暦五年(一五七七)五十一歳。雲南省桃安府の知府(府の知事)に栄転して、妻とともに赴任しました。その途中で、湖北省黄安の友人耿定理のもとに、女婿の荘純甫を勉学させようと預けました。

万暦八年(一五八〇)五十四歳で任期満了になりました。雲南省ですから少数民族と漢民族の雑居地域でトラブルになりがちなのですが、彼は自治を尊重して、融和に努め、評判が良くて、是非重任してくれるように求められたのですが、出家の志が強くて、妻を黄安の娘に引き取ってもらって、単身、雲南省大理府の鶏足山に入り、『大蔵経』に読みふけったということです。

翌年黄安の耿家に寄寓します。そこで耿定向(こうていこう)・耿定理(こうていり)兄弟と親交を結び、陽明学を深めたようです。それから妻と娘夫婦は一緒に泉州に帰りまして、李卓吾は、各地を歴遊しました。

六十歳前後に、湖北省麻城県龍湖にある芝仏院に落ち着き、そこで読書と著述に励みました。ここで李卓吾の代表作のほとんどが書かれたのです。

  五、出版文化と危険思想


 

引退後に刊行した『焚書』には朱子学及びそれを信奉する道学先生への厳しい批判が込められていました。それで周囲から危険思想と断定され、様々な圧力をかけられます。

劉岸偉さんによりますと明末の時代は、書籍の出版が商業ルートになり、出版業が商売として成り立つようになったということです。それで李卓吾の著作がよく売れまして、その社会的影響が懸念され、それが弾圧の誘い水になったようなのです。

「万暦三十年(一六〇二〉閏二月、李卓吾は七十六歳です。礼制などに関する監察機関である礼科の長つまり都給事中の張問達が李卓吾の弾劾を上奏しました。

「李贄なる者、壮歳に官となり、晩年削髪(剃髪のこと)す。近ごろ又『蔵書』『焚書』『卓吾大徳』等の書を刻し、海内に流行し、人心を惑乱す。呂不韋、李園を以て智謀となし、李斯を以て才力となし、馮道を以て吏隠となし、 秦の始皇を以て千古の一帝となし、孔子の是非を以て拠るに足らずとなす。狂誕悖戻、燬たざるべからず。尤も恨むべきは、居を麻城に寄せ、 無良の輩と庵院に遊び、妓女を挟んで白昼同浴し、士人の妻女を引きて、庵に入れ法を講じ、衾枕を攜きて宿る者あるに至る、一境狂えるが如し。 近ごろ聞くに(李)贄は且つ移りて通州に至る、と。通州は都下を距ること四十里、倘し一たび都門に入らば、蠱惑を招致し、又麻城の続とならん。望むらくは礼部に勅し、… 李贄を原籍に解発(強制送還)して罪を治めしめ、…贄の刊行せる諸書、並びに其の家の未刻のものを捜簡して、尽く焼燬し、禍を後生に貽さざらしめば、世道に幸甚なり

 陽明学では、経世済民の儒学の立場に立ちつつ、世界観や宗教観では禅や道教からもいい要素は貰ってきて、使えるものは使うという三教一致を打ち出していましたが、それは儒教では足りないかにいう態度だとして、禅や神仙の修業に打ち込む儒者を弾劾する動きもあったようです。

 李卓吾の著書は流行し、焚書になっても隠し持っている人が多く、読み継がれていったのです。やはり独善的で排他的な傾向の強い朱子学が、科挙を独占しているものですから、それを国士監博士で朱子学を教えていた李卓吾が真っ向から批判するのですから、読者にとっては大変痛快で溜飲が下がったかもしれません。

 また歴史上の人物を評価する場合でも、既成の善悪観念に囚われずに、見事に主君をだました呂不韋、李園、李斯を智謀とか才力として使える男という面から買うということで、名君ならばこういう男を使いこなせなくてはならないと批評したのです。たしかに彼らは悪ですが、小物の善人では強力な国家を作って天下を保つことはできないわけで、大物の悪人を国家のために有為な人材として使いこなす力量が必要だということです。そういう人物評価も必要ですね。そして面白いし、為になるから読まれるわけです。でもそれは善悪を相対化することにつながりかねない危うい面をもっているのも確かです。

 実際歴史上の人物でもっとも人気のある皇帝や宰相は、大量殺戮を実行した者が多いですね。秦の始皇帝しかり、チンギスハンしかり、ヒットラー、スターリン、織田信長しかりです。空恐ろしいホロコーストの命令者ほど人気があるということです。つまり歴史を見る場合に善悪を超越しているということが言えます。そういう見方に我々は追随していては駄目ですよ、和の精神で国をまとめようとしていた人こそ英雄視すべきなのです。

ともかく文化が士大夫の独占物から広がって、字を読める階層が広がりますと、士大夫階層の中での正統思想を相対化し、批判したり揶揄したりする方が売れるわけです。また朱子学から貶められていた歴史上の人物や、説話、『西遊記』『三国志演義』『水滸伝』などの文学が、朱子学の価値観に囚われないで再評価されます。『李卓吾先生批評西遊記』として、李卓吾がその面白さや、思想的な新鮮さを持ち上げた評論を添えまして、再出版しますと、飛ぶように売れたということです。

 

 

 六、良知としての童心


 

 

「童心は本然たるありのままの心である。もし童心を失えば真心を失うことになり、真心を失えば真人を失うことになる。人として真でなければもはや人間の本質を持つとはいえないであろう。」(『焚書』巻三童心説)

「童心がなぜついに失われてしまったのだろうか。見聞するものが耳目から入って、内で主位についてしまうのが童心を失うはじめであろう。大きくなると道理が見聞を媒介に内に入り主位についてしまえば、また童心を失うことになる。久しくそうなれば、道理や見聞が日増しに多くなり、知識もますます広くなるにつれてついには名誉の好ましいことを知り、しかもそれを鼻にかけようとすると、童心を失ってしまうのである。そして不名誉の恥ずかしいことを知り、それを隠そうとすると、また童心を失うのである。おおよそ、道理や見聞などはたいてい多くの書物を読んで、義と理を弁えることによって得られるのだ。」(『焚書』巻三童心説)

 

 この李卓吾の「童心」は本居宣長の「真情・真心」に近いですね。宣長は、儒教や仏教の「さかしら」によって汚染される前の「真心」を「大和意」として捉えようとしました。嘘偽りのない、感じやすい心、感じたままに行動してしまうのです。書物で得た義理で真情を押し殺すのが「漢意」です。宣長は卓吾の「童心説」を読んで、それを「真心」に置き換えたのではないかと疑いたくなるような表現をしています。

「そもそも道は、もと学問をして知ることにはあらず、生まれながらの真心なるぞ道には有りける。真心とはよくもあしくも、うまれつきたるままの心をいふ。然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、真心をばうしなひはてたれば、今は学問せざれば、道をえしらざるこそあれ。」(『玉勝間』「学問をして道をしる事」一の巻)

「真心とはよくもあしくも、うまれつきたるままの心をいふ」という表現は王龍溪の、良知は無善無悪だという説そのままですね。

宣長は陽明学の本を読んでいたという証拠がないとお話したことがあると思いますが、少なくとも李卓吾の名前は知っていたようです。劉さんによりますと宣長二十四歳の時に、堀景山の塾で『世説新語』の会読に参加しているのです。この世間話を集めた本ですが、それは実は李卓吾の解説入りだったということで正式の書名は『李卓吾批点世説新語補』だったということです。(劉著『李卓吾』一八二頁)ますます宣長の「やまとごころ」なるものが輸入半製品の加工品だという疑いが濃くなりましたね。

 

 、 真情の立場としての童心


 

この思想が危険視されるのは、ある意味当然ですね。だって童心は、無善無悪だということですから、たとえ世の中でいけないことだとされていても、当人がやむにやまれぬ思いからしたことなら、共感するということですから。宣長的に言いますと、もののあはれをしるこころからでたことなら、たとえ不義密通でも文学的にはよきことになるということで、『源氏物語』では光源氏と藤壺の不倫は、不孝、不忠であるにもかかわらず、道徳的に批判されていないわけです。李卓吾の批評も童心からみてどうかということで、童心を価値評価の基準に置けば、たとえ儒教道徳からは非難されることであっても、共感されるべきだということになります。

 そして童心は、読書などで研鑽すればかえって失われるとされていますね。理や義を考えていて、そこから自分が道徳的に破廉恥だと思われるとか、馬鹿だと思われるとか気にしだすと失われるというわけです。つまり物の道理とか、後先の影響とかいろいろ理屈で考えた結果の行いには童心がないわけです。そういうことは考えずに真情から突っ走ってしまった行為こそ、嘘偽りない誠だということですね。

 確かにこれも批評という見地からは言えることで、文学や芸術の世界では、ある程度、真情から突っ走って、法や道徳を蹂躙してしまう行為でも讃美することは許されるべきなのです。不倫は文学の世界では堂々と謳歌されますし、恨みつらみから復讐を遂げる話も読者の共感を誘います。テレビドラマの「刑事もの」でも犯人がいかに犯罪に追い詰められたか、事件に真相に迫ると、そういう真情が浮き彫りになってきて、視聴者の共感を誘うようにできていますと視聴率があがるのです。

 だから朱子学的イデオロギーを正しいと認めた上で、文学批評の領域で、童心からの行いを別の価値基準で擁護するのならある程度理解されたかもしれませんが、朱子学を批判し、良知を善とは限らないとした上で、その行いを心情的に共感しているわけです。そして童心から突っ走った、狂であり愚である行いを開き直って讃美しているわけです。

 吉田松陰は李卓吾を読みまして、彼らのテロリズムを正当化する論理を見出そうとしたわけです。尊王攘夷を決行して情勢を切り拓くためには、だれかが事の善悪などに構わずに、攘夷の妨害者に切りかからなければならない、狂であり愚である行いこそが必要なのだという論理です。

八、李卓吾のこころ


 李卓吾は、童心に基づいていない、正義の仮面を被った仮(にせ)物たち、偽善者たちが世にあふれていました。口では朱子学的な仁義を説き、居敬窮理を説きますが、実際は商業が発達し、貨幣経済で動いていました。卓吾の娘が飢え死にしたのも、役人に賄賂を送って、水を自分の田に引いてもらっていれば、防げたわけです。でも彼はそれを不正としてできなかったわけですね。彼の童心が許さなかったわけです。役人は童心などなく、たとえ農民が飢え死にしようが、水運優先は国益に合致するという理屈さえあればそれでなんとでもいいわけできるということです。卓吾からみれば到底許せないことでしょう。奴らは金で動いているくせに、いかにも正義であるかに振舞う偽善者だと思っていたのです。

明末は『金瓶梅』の時代です。士大夫も口では道学者ぶっていても、色町で放蕩していたわけですが、いざとなると李卓吾の放蕩ぶりを糾弾したわけです。そこで彼は自分は聖人君子ではなく、きわめて性格が悪い人間で、まあひねくれものですねものだと開き直ります。そしてそういう批判者だって同類だろうというのです。退廃の時代を生きているくせに、道学者をきどって他人を攻撃する偽善に激しく反発したわけです。

 それで士大夫的価値観への嫌悪し、反発するところから、権力欲や策謀に生きた人物、破天荒な生き方をした人物でも、それなりに自分のもって生まれた個性を発揮し、歴史を華やかに彩った人物は再評価されたわけです。そういう人物を描いた物語や小説が文学的価値を与えられたわけです。『西廂記』・『西遊記』・『水滸伝』は『史記』に劣らないとされるのです。

 そのような李卓吾は権力や朱子学からは弾圧され、七十六歳で捕らえられ、結局自殺します。彼は自分は世間の人とほとんど付き合わずに、だから影響も与えていないのに罰せられるのは納得いかないとしていますが、彼の童心という価値基準は十分に社会に影響をあたえたわけです。つまり天下、国家や社会正義なる観点からは容れられない行動でも、止むに止まれぬ真実に動かされているのなら、そこに人間としての誠はあるのだということですね。そういう形で、正統的な価値観や法秩序に回収されない、個人の主体的真実が対置されたということです。

 彼が陽明学だけでなく、禅にも傾倒したのは、なにものにも囚われない人間としての真実を求めていたからでしょう。そのような感性が明末社会では人気を博したということです。つまり国家道徳には回収されない、市民社会が形成されてきたということですね。そこでの主体はあくまで個人であって、己の真実を基準に行動する市民的主体が登場できたということです。

 彼が退官後、文筆活動によって著作が爆発的に流通するという広範な読者に支えられて、彼の人間としての秘めてきた怨念が開花したわけです。それはまさに時代の寵児ともいえますが、同時に国家的には放置できない徒花だったということでしょう。

 

ウィキペディアより

李卓吾の著書

『焚書』 『続焚書』『蔵書』『続蔵書』 『李氏文集』

なお明時代西遊記の写本に『李卓吾先生批評西遊記』があるが、これは権威づけのため李卓吾の名を勝手に使用したものである。 (やすい記、その類の本が多いのでいかに李卓吾が人気があったかよく分かる)

 参考文献 [編集]

島田虔次著 『朱子学と陽明学』 岩波新書(青)、1967年。ISBN 4004120284

『中国思想史の研究』 京都大学学術出版会 2005年もある。

溝口雄三著 『中国前近代思想の屈折と展開』 東京大学出版会、1980年。ISBN 4130100459

溝口雄三 『李卓吾:正道を歩む異端』 中国の人と思想10 集英社、1985

劉岸偉著 『明末の文人李卓吾:中国にとって思想とは何か』 中公新書、1994

黄仁宇著、稲畑耕一郎ほか訳 『万暦十五年―1587:「文明」の悲劇』 東方書店、1989年。ISBN 4497892727

増井経夫訳 『焚書:明代異端の書』 平凡社 1969 ただし改訳要

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