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                                               中国思想史講座

                  
 

18.王陽明の実践哲学
やすい ゆたか

 一、陸象山と王陽明―心即理―


 

朱熹と同時代の南宋の儒学者に陸象山(名は九淵、字は子静、一一三九年―一一九二年)がいました。陸象山は心がそのまま理だという「心即理」を唱えて、朱熹の「性即理」を批判したのです。本日取り上げます王陽明は、象山の「心即理」を発展させた明代の儒学者です。

宋代の大儒・程明道は「善は固より性なり。悪も亦之を性と謂わざる可からず」・「天下の善悪は皆天理。之を悪と謂うは、本と悪に非ず。但だ過或いは及ばず」 と言いました。

 これは動機においては、腹が減ったから飯を食い、愛しく感じたから異性を抱いたわけで、何も悪いことはないのです。ただ心の理を物において現す場合に、気の変化や時・処・位を間違えると、足らなかったり、過ぎたりして、善・悪の違いがでてきます。

程明道の議論を継承して、そのまっさらな心が理なので、それを歪めずに正しく現れるようにすべきだというのが「心即理」です。これは「性即理」とどこが異なるのでしょう。朱熹は心を分析してそこに理気二元論を適用したわけです。

つまり朱熹は、心を性と情に分けまして、「性即理」だとしたのです。心の本体は性であり、これは理ですから純粋至善なのです。つまり「仁義礼智信」ですね。それが現れて、用となりますと、気に影響されてさまざまな情になります。惻隠・羞悪・辞譲・是非などの四端だといいのですが、気の動き次第で感情の起伏が激しくなり、恨みや嫉みや、怒りになって現れることもありますね。そういう感情によって惑わされて、本来の形である理のままにはいかないわけです。それで性と情を分けて、情を抑制し、コントロールしようということでした。

でも陸象山たちの「心即理」の立場からは、心を性と情に分けられないというのです。仁と惻隠とは別ではないですよね。義と義を貫こうとするパッションは別物じゃないということです。だから天理・人欲を弁別できない、心そのものが「理」であるというのです。
 心=理ということは、自分の心として世界が展開しているということなのです。展開されているあるがままの世界は、天理であって、例え悪であっても性といわざるをえないというのが程明道ですね。

象山は十三歳の時、「宇宙内の事はすなわち己が分内の事、己が分内の事はすなわち宇宙内の事なり」と書き残しています。ここには外的現象と心の内を同一視する傾向が見られます。成長につれて象山はこれを深化させていったようです。これは感覚から高度な思考までも含む思惟によって物事を構成して認識するとするドイツ観念論の立場に通じていますね。つまり事物の性質と思っているのは人間の感覚を素材に思考によって本質付け関係付けたものであるということです。事物や世界の内容はすべて心の内容になっているわけです。

そこで「六経、みなわが心の注釈なり」と述べています。いかに権威ある六経も、自分が理解している以上のものでは、自分にとってはないわけでして、あくまで自分の心を注釈しているだけなのです。

象山は、程明道が提唱したといわれる「万物一体の仁」の立場を継承しています。これは様々な事象や事物の心が人間の心だということです。その意味で万物は一体であり、万物と人間は一体なのです。当然人の心は物の心だということです。これが王陽明へと受け継がれます。そしてさらに日本に来て、日本陽明学になるのですが、「万物一体の仁」を本当に継承したのは、実は意外にも、国学の大成者本居宣長なのです。

宣長が王陽明や陽明学派の文献を読んでいたという証拠がないので、偶然の一致である可能性もありますが、「もののあはれ」論では、「物のこころ」を知ることを「もののあはれ」を知ることとしています。

本居宣長は、儒学を漢心とさして「さかしら」として退けましたが、実は彼の儒学批判は、朱子学に対する陽明学からの批判と共通しているわけです。宣長が荻生徂徠の古文辞学の影響を強く受けていることをよく言われますが、「もののあはれ」論が陽明学と共通していることについての指摘はあまりないようです。宣長の思想こそ日本思想の典型と言われますが、実はそれは陽明学の焼き直しかもしれないというのは、ショックですね。

ただ王陽明と宣長とは立場や性格が違います。王陽明は、士大夫であり優秀な軍人です。それに対して宣長は女々しく未練がましいこころこそ真情だと、「ますらをぶり」に「たおやめぶり」を対置した豪商崩れで小児科医をしていた文人ですからね。

 

 二、天才詩人守仁君


 

王陽明(ワンヤンミン)は、憲宗成化八(一四七二)九月三十日、浙江・餘姚に生まれました。陽明は陽明洞に石窟を築いたのでつけられたペンネームです。幼名は「雲」でした。
 昔から聖人が誕生するとその家が不思議な雲に包まれるという話があります。王陽明が生まれたときに、母方の祖母の岑氏が、雲の中から神人が赤子を抱いてやってきて、授けられる夢を見たのです。そうすると十四ヶ月目にやっと生まれということです。
 それで祖父の竹軒が「雲」という名にしたのです。ところが秘密を明かすような名前にするとかえってよくないようなのです。おかげで五歳まで雲ちゃんは口を利けなかったということです。それを指摘されて「守仁」に改めますと、話せるようになったのです。しかも口を利けない時に、お祖父さんが読んでいた本を暗唱していまして、それを聞かせたというのですから、驚きですね。

守仁君の天才ぶりは十歳で次の漢詩を即興で作ったことからも窺えます。

 

 金山寺

金山一點大如拳  金山一点大きさ拳のごとし

打破維揚水底天  打破す維揚水底の天

酔倚妙高臺上月  酔うてもたるる妙高台上の月

玉簫吹徹洞龍眠  玉簫吹き徹す洞竜の眠り

 

 「金山ひとつ、こぶし大の大きさで長江の水に映っていまして、それが水底の天を打ち破ってそびえています。酔って妙高台にもたれて月を仰いでいますと、吹く笛の妙なる音には洞に眠れる竜も聞きほれているようです。」というような意味なのですが、酔うというのがアルコールが入っていて十歳にしたら生意気のように見えますが、これは風光明媚に酔っているのでしょうね。この詩は見事なもので、王陽明の代表作の一つです。

子供らしいところは「金山の山が拳大の大きさに見える」という表現です。大きいものが小さく写ったり、見えたりすることが面白いというか、驚きなのです。同じ時に作った詩で「近い山遠い月とを比べれば、月は小さく見えるもの。すぐにこの山、月より大きいなどと人は言う。もしも眼の玉大きくて、天に似た人あるならば山は小さく月はまた、もっと大きく見えるはず」というのがありますから、やはり子供の感性ですね。

お父さんの王華が科挙で見事に首席で合格しまして、首都の北京でお役所づとめをすることになりました。守仁君は北京の塾の先生に「何が第一等(一番大切なこと)のことですか」と尋ねますと、塾の先生は当たり前のように「書物を読んで科挙に合格することだ」と答えたのです。これに対して十二歳の守仁君は「讀書學聖賢」つまり、書を読んで聖賢に学ぶことの方が「第一等」でしょうと反論したのです。朱熹と同じで志が高かったのですね、そうでないと大成するはずはありません。

 

 戦争ごっこの大将で策略家の守仁君


 

王家は代々文人の学者の家柄だったのですが、王陽明は軍事にも才能を発揮して、乱を鎮定するなど軍人としての評価もとても高い人物です。先祖に南北朝時代に書聖と崇められた王羲之がいます。彼も軍人だったことがありますが、実戦の話はありません。守仁君は後漢の英雄馬伏波にあこがれ、塾を抜け出して近所の子と戦争ごっこをしていました。大勢の仲間に旗や幟を持たせて、号令をかけていたということです。

この戦争ごっこはお父さんにかなりきつくしかられたようです。宋代や明代では軍人は下に見られていて、文人は戦を指揮することなど考えていなかったのです。わざと爪を伸ばして弓を引いたり、剣を持ちにくくしていた者もいたようです。つまり野蛮な軍人のまねなどするなということでしょう。それで軍人になるのは科挙にも通らず、文才や学才がなくて文人になれなかった人たちで、そのために智将もいないということになります。これでは国を守ったり、叛乱を防ぐのは難しいですね。

守仁君は十三歳で生母を亡くし、継母は冷たかったようです。そこで継母の部屋の布団に不吉とされていた梟を隠しまして、驚かせ、巫女に占わせたのです。その巫女は生母の霊が下って「お前は私の子供に優しくしないから、天の役所訴えて命をとってやる」と脅かしたのです。もちろんその巫女は守仁君に頼まれてそういったのですが、まんまと継母は騙されて、それから守仁君に優しくなったそうです。

外敵に備え、叛乱を鎮める必要があった明代においては、文才に優れ、官僚としても立派でしかも、智謀にたけて軍事に造詣が深かった王陽明は、実践的な哲学を構築し、多くの幅広い人々から篤く尊敬され、学ばれることになるのです。子供の頃の戦争ごっこや継母騙しの話は、彼の実践家としての性格を理解するうえで重要なエピソードではないでしょうか。

 

 四、青年の血気と十七歳の妻帯


 

陽明学は、ただ朱子学に飽き足らないから、陸象山の心即理の立場から実践哲学を考えたのだろうという狭い視野からだけ見たら駄目だそうです。若き王陽明、守仁君がさまざまな生き方や考え方を揺れ動き、苦悩してきて百死千難を潜り抜けて築き上げたものだということです。そういうプロセス抜きに理論を表面的になぞってもあまり手ごたえはありません。王陽明の人生を通してはじめて陽明学が迫力があるのです。

十五歳の時に、盗賊が官の倉庫を荒らしまわるのがはがゆくなり、皇帝に上書して兵卒一万人を借りて盗賊を平定したいと父に申し出たそうです。漢の武帝の時代に南越を平定しようとした終軍という二十歳代の武将に憧れていたのです。もちろん父王華はそんな命知らずなことを許しませんでした。

そういう血気に奔るところがあるので、父は心配して早く結婚させて落ち着かせようとしました。十七歳で江西省南昌にでかけまして結婚式の当日に、道教の鉄柱宮にでかけて導引術の修行を始めて翌朝人が探しにくるまで趺坐したままで動かなかったそうです。いろいろ道を求めて、好奇心旺盛で、とても結婚して落ち着こうというような気にはなれなかったのでしょうね。

岳父()の官舎に一年以上滞在しましたので、そこで彼は書道三昧の日々を送ったといわれます。その時に字形をまねて、形ができれば満足してしまうとだめで、形をしっかり心に焼き付けてから書くと書法に通じたというのです。程明道は「私は字を書くときは大変敬しむ、上手に字を書こうとするのではない、これこそが学なのだ」と言ったそうです。そこで守仁君は、古人はいつも何事でもひたすら心の上で学んでいたことを知ったのです。つまり「この心が精明(物事の道理に詳しくて明らかなこと)であれば字を上手に書くのもそのうちにある」と覚ったのです。書道のことは全く分かりませんが、書道の基本は古典臨書だそうです。臨書は手本になる名蹟を書き写すわけですが、その際に姿かたちを似せればよいわけではなく、その精神を写さなければなりませんから、心に焼き付けてからとか、心の上で学ぶとかは、精神を学ぶということでしょう。

 

  五、郷試合格と竹中の理


 

祖父の王倫の病が重いということで、十八歳で生まれ故郷余姚への帰ることになりました。歸途、江西省広信で婁諒に会いました。彼から格物致知、居敬窮理すれば物の理に到達でき、「聖人は誰でも學んで到達できる」と示されたのです。聖人になるために学んでこそ、学問は果てしなくなり、上達しますが、科挙合格の為の学問だと、合格したらおしまいですね。それに科挙合格しても、暗記できているだけかもしれません。聖人に到達するということは、真理を実践するということですから、次元が違います。

祖父が亡くなったので父も喪に服するために余姚に戻ります。それで守仁君の受験勉強も軌道に乗りまして、二十一歳でめでたく科挙の地方試験である郷試(きょうし)に及第しました。

北京に復職した父とともに上京しまして、会試を受ける準備をします。その際に朱子の「一草一木にも至理が含まれている」という言葉について思索したのです。竹を切りまして、そこにあるはずの理を見つけようと友人の銭某といっしょに一週間竹を睨んでいたのですが、とうとう病気になってしまったということです。元々竹の中に理が含まれているというのは、竹が竹として現れているからです。春になったら桜が咲いたり、秋に木々が紅葉するので、自然の摂理は見事に現れているわけですね。ですから竹が竹に見えることが至理が見えているということです。竹を物と考え、その竹という物と違う至理を見つけようというのはおかしいですね。

で結局会試は落第、太学で勉強することになります。落第したけれど次はトップの成績で及第するよと高官に励まされて、守仁君、つい「来科状元(首席合格)の賦」を作ってしまい、かえって試験官たちの顰蹙をかって、三年後の次の会試も落第させられてしまったという説があります。それで「自分は試験に及第できなかったことを恥とは思いません。試験に及第できないことに動揺することを恥と思います」と言ったそうです。まあ六年間太学生活でたっぷり勉強できたのが彼の学問にとってはよかったかもしれませんね。

でも当時は国境に異民族が侵入を試みており、守仁君は国家を憂い、軍略の勉強に励み、軍制改革の上奏を書いています。そして朱子学に関しても、物の理と心の二元論に納得がいかないで苦しんでいたのです。つまり竹の中に理があり、人間の心に理があるとしたら、それらがどうして同じ理だと言えるのかということですね。

 

 六、療養と導引術及び禅修業


 

二十八歳で会試に合格しまして、観政工部の仕事に任官しますが、墳墓の築造の仕事で、落馬して胸を打って血を吐いたのがきっかけですが、肺を傷めてしまったわけです。

翌年は刑部雲南清吏司主事に任官します。仕事が忙しくても、帰ってから読書をしているのです。そして軍事のことが気になっていましたから、大変なのです。過労が祟って喀血し、肺病だといわれます。病気療養で帰郷し、会稽山のふもとに陽明洞を作って、神仙術のひとつである導引術で療養したのです。この陽明洞から、王陽明と呼ばれるようになりました。

彼はなんでもとことんやるほうですから、導引術で肺の治療のつもりが、神仙術に嵌ってついに未来を予見して、友人を驚かせます。

そして禅修業もしていたようで、ほぼ覚りに近いところまで道教・仏教でいっていたようです。「身体は水晶宮のようで、自己を忘れ、天を忘れ、地を忘れ、虚空と一体になり、光耀神奇、恍惚変幻、説明しようとしても、説明するすべを忘れてしまう」ということです。これを見性(本来的自己の徹見)抱一(絶対者との抱合)だと陽明の弟子は評価しますが、本当にそこまで行ってしまえば、儒教には戻れないはずですね。

この世を穢土と思い、神仙に遊び、浄土に遁れたいという想いが強くなる一方で、家族を思い、友人を思い、国を思う気持ちも捨てきれないことに気付いたのです。この思いこそ人間性ですから、それを取り去ることは人間性の否定ではないかと考え、道教や仏教は、人倫に背を向ける危険な思想だと距離を置くようになったのです。それが一五〇二年三十二歳の頃です。

そして三十三歳で健康を取り戻した王守仁は、再び役人に戻ります。そして郷試の主考を務めました。そして兵部武選清吏司主事に就任しました。彼の軍制についての考えが認められたのです。

そして三十四歳、彼の儒學の評判が高くなり、弟子入りする人がでてきたのです。そして湛若水と交りを結びました。彼とは共に程明道の「仁者は渾然として天地万物と一体である」とする説に傾倒していたそうです。

 

 、 受難と龍場での大悟


 

一五〇八年三十五歳、この頃から王陽明というペンネームを使うようになったようです。十一月、王陽明は宦官を彈劾したために投獄された戴銑らを許されるよう上奏しました。宦官が十五歳の武宗に取り入って、宦官集団による独裁政治になってしまったのです。その親玉が劉瑾でした。劉瑾の指圖によって、王陽明は投獄され、杖刑四〇に處せられた上で、貴州省龍場駅の駅丞(宿場の事務官)に左遷されたのです。杖刑四〇を喰らいますと、途中で死ぬか、獄中で死ぬことが多かったのです。特に劉瑾は残忍で、衣を脱がして叩かせたので、死ぬ人が多かったようです。病弱な陽明が死ななかったのは奇跡に近いのです。

龍場に赴任する際に、劉瑾の差し向けた刺客から逃れるために、入水自殺を装い、船で逃げますが、暴風雨で漂着しまして、寺に止めてもらえず、潜り込んだ洞窟がなんと虎穴だったのです。それでも虎に食べられなかったのは奇跡だといいます。この虎穴の話は眉唾らしいのですが、結局逃げたら父に迷惑がかかると思い直し、龍場に向かいました。でもそこは山奥で、原住民は穴居生活をしていまして、駅にはきちんとした建物もなかったのです。彼は訪ねてきた数人の弟子たちといっしょに、草庵や洞窟で暮らしたということです。

ところがそういう逆境なので病弱な王陽明が倒れてしまいそうですが、従者の方が病気になり、陽明が献身的に看護し、水汲みから調理からすべての世話をし、歌を作って気を紛らわしたり、冗談をいって励ましたのです。

その時に、聖人ならどうするかと考えました。それで大悟したのです。つまり状況や事物の方に理を求めて、自分の心の外に探しても理はみつかりません。龍場はまさしく逆境でした。自分を支えに来てくれたはずの従者たちの世話でくたくたになっているわけですね。そんなときに恃むべきは己の心しかないわけです。

 

八、「致知格物」と「知行合一」


それに気付いた時、彼は飛び上がって喜んだようです。「聖人の道は自分の性に自ずから充足している。これまで理を事物に求めてきたのは誤りであった」と叫びました。朱熹の『大学』解釈では「格物致知」は「物に至りて知を致す」ということで、物の中の理をきちんと認識することによって、理を窮めて正しい知を得るわけでしたが、元々聖人の心は理があるわけですから、それを物に実現すればいいということです。格物の「格」は「正す」という意味になります。「格物致知」が「致知格物」になるのです。

陽明は後に『伝習録』で「心即理」の立場から「格物致知」の新解釈を行いました。「わたしのいう致知格物は、わが心の良知を事事物物に致すことである。わが心の良知は、天理である。わが心の良知を事事物物に致せば,事事物物みなその理を得るのである。わが心の良知を致すのが『致知』であり,事事物物みなその理を得るのが『格物』である。つまりわたしの立場は,心と理を合一するものにほかならない。」(『伝習録』)

「ええ?それじゃあ事物には元々理がなくて、人間の心にだけ理があるのですか、それは極端な主観主義で、人間の自分勝手な論理ではないのですか?」という疑問を抱かれた方も多いでしょうね。ですから「仁者は渾然として天地万物と一体である」というのが大前提にあるわけです。

北京にいるか、龍場にいるかでは、あるいは天国と地獄のごとき差がありますが、どちらにいても聖人は、その時の天下の形勢を受けとめ、天理に従って行動すべきです。その際に、状況や諸事物についての正しい認識が必要ないということではないのです。天理は聖人が世界を受け止め、世界の心として自らの理念を世界に実現するという形で現れるわけです。

ヘーゲルはイエナに入城するナポレオンを見て「馬上の世界精神がいく」と歓声を上げたそうですが、世界精神として心は存在するということです。世界精神に従って、それぞれの事物を意義付け、正していけばいいということですね。ですから当然一つ一つの事物の理もそれを認識する心としてあるわけです。

つまり事物と心は二元論ではないということです。人間は自らが理解したように世界を見ているわけでして、それが人間の心であり、事物は心としては人間に本質付けられて、桜とか猫とかとして存在しています。だから心が理だからといって、事物に理がなくなり、事物が規定性のないノッペラボーになってしまうわけではありません。

三十八歳、龍場の近くの役人たちとも仲良くなり、いっしょに貴陽書院という塾をつくりまして講義をするようになりました。そこで「知行合一(ちこうごういつ)」を提唱したといわれています。

「当節の人の学問では、知と行とは二つのことだと分けてしまっているから、一瞬発動した意識が、たとえ不善であっても、ついぞ実行にはまだ移していないのだからといって、不善の意識を禁止しようとしない。それに対して、わたしがいま、知と行とは分けられないと主張するのは、意識が一瞬でも発動したなら、それがそのまま実行したことなのであり、意識が発動して不善ならば、すぐさまその不善の意識を克服してしまうこと。それも徹底して遂行して、いかなる不善の意識をも胸中に潜在させないこと、以上のことを人々に理解してほしかったからである。これが、わたしが〈知行合一〉を主張した基本的意図である」(『伝習録』)

心の理が本当に理ならばそれは行いに駆り立てて止まないはずですね。知と行を分けて、知が先で行が後というように捉えていますと、善いことを考えていたのだが、それを行なわなかったということになります。するとその知は世界の意志とは言えませんね。「万物一体の仁」に共感していたといわれるわけですから、天地万物の理が心の理と一体であるはずですから、当然知ることは行の始まりであり、行は知の完成、あるいは実現であるということになり、「知行合一」ということになります。

その知が私利私欲によって歪められ、曇らされて知と行が分かれてしまい、正しい行いができないのは、自分の本当の心を見失っているからであると捉えていたのです。

 

九、劉瑾の失脚、事上錬磨


正徳五(一五一〇)年に安化王の反乱が起きました.その時に決起を促す檄文に劉瑾の罪が記されていて、反乱を鎮圧した張永がその檄文を武宗に見せます。そしてその不正が暴かれて、劉瑾は処刑されたのです。劉瑾の家宅捜索で偽の玉璽や暗殺用の匕首が発見されまして、劉瑾は謀反を企んでいたとされたようです。そして劉瑾の死肉が一切れ銀一銭で売られ、彼を恨んでいた人々が争って買いまして、その死肉を食べたそうです。

もちろん王陽明は名誉回復され、北京の役所づとめとなります。その後は日増しに王陽明に弟子入りしたい人が増えていったようです。一五一三年徐州の役人だったころは門人数百人を野山に集めまして講演しています。劉瑾はたしかに悪だったのでしょうが、もし彼を恐れて大人しくしていたら、王陽明はおそらく思想家として認められなかったでしょうね。節を曲げず杖で死ぬほど打たれ、龍場の試練にも耐えたので、本物の思想家として尊敬を集めたのです。その意味では龍瑾という飛び切りの悪は重要な役割を果たしたわけです。

翌年(四十三歳)四月、南京鴻臚寺卿となりました。外交上の儀式などを行なう重要な役職です。そこで陽明にあこがれて大勢の門人たちも南京にやってきたのですが、ただ偉い人だというので集まっているようなところもあったのでしょう。引き締めを図っています。「天理を存し、人欲を去る」ことを求め、「省察克治」を説いています。自分の心を点検して私利私欲に惑わされないようにしなさいということです。

また仙仏(道教・仏教)で陽明の思想を捉えようとする弟子を戒めています。禅のように坐禅で瞑想して己を忘れるということで、儒教でも静座法があるのですが、あまりそればかりしていると同じように受け取られます。そこで「事上錬磨」を勧めています。これは陽明学ではキーワードの一つですね。

例えば訴訟に携わっている役人が被告の態度が悪いといって腹を立ててはいけないし、かといって被告の態度が殊勝だといって気を許してはいけないわけで、私心なく、公正にかつ冷静に事実を見極めて、処分を行なわなければ正義を保てないということです。このように日々の務めや、遭遇する事柄に即して、常に私心が起こらないようにしなければならないわけで、じっと座っていて心を平静にする修行だけでは足らないわけです。実際に問題に取り組みながら心を平静にする訓練は日常の仕事や実践においてこそ「事上錬磨」されるということです。

十、暴動・内乱の鎮圧、「民はわが同胞」


一五一六年(四十五歳)九月、都察院左僉都御史となります。検察長官のようなもので暴動や内乱の鎮圧にあたったのです。これはまさしく命がけの「事上錬磨」ですが、彼の軍人としての才能が見事に発揮され全く負け知らずだったといわれます。それでますます尊敬され、弟子が増えたのも当然ですね。「十家牌法」といいまして十家を一組に組織しまして相互に監視させ、賊と良民を分け、訓練を施したりしたので、王安石の保甲法にならって「陽明先生保甲法」と呼ばれたようです。

賊に対しては『告諭文』で投降を呼びかけています。

「理由もなく、鶏や犬を殺すことですら忍びない思いがするのに、まして天につながる人の命はいうまでもない。もしも軽々しく殺すなら、見えない力によって必ずや応報があり、子孫に災いを及ぼすであろう。それなのに、何を苦しんで、これを行なおうとするのか。私は常にお前たちのことを考えて、ここに及ぶとそのたびに夜も安眠できないのである。お前たちのために生きる道を探し求めようと思わないわけではないが、お前たちが頑迷でわかってくれない。そこで、やむをえず兵を興すのである。これは私が之を殺すのではなくて、天が之を殺すのである。いま、私に全く人を殺す心がないと言えば、それは偽りである。きっと殺そうと思っていると言えばまた、私の本心ではない。お前たちは、いま悪業をしているけれども、はじめは同じく朝廷の赤子である。たとえば、一父母が同じく十人の子を生み、八人が善、二人が悪逆で、その二人が八人を殺そうとすれば、父母の心はこの二人を除去して、八人を安らかに生活させようとする。同じ子であっても、父母の心は、なぜ二人の子だけを殺そうとするのか、やむをえないからである。私はお前たちについて、まさに同じように考えている。

もし、この二人の子が悪業を悔いて善に遷り、号泣して誠を表わすなら、父母たるものはきっと哀れんで、これを抱くであろう。なぜなら、その子を殺すに忍びないのが、父母の本心だからである。いま、その本心を遂げることができれば、これ以上の喜幸はない。」林田明大著『真説「陽明学」入門』(七五〜七六)

続いて「民はわが同胞」と呼びかけているそうです。陽明自身権力の専横によって何度も命を失いかけているわけでして、農民たちが暴動や内乱に追い詰められていく過程をよく知っているわけです。それでも安易に叛乱側につけば、漢民族の支配が弱体化し、夷狄の侵入を招くだけですね。

十一、寧王宸濠の反乱、致良知


明の正徳十四年(一五一九年)に寧王朱宸濠が帝位を狙い、南昌で兵十万を率いて叛乱を起こしました。これを王陽明は一月あまりで平定し、寧王を捕えたのです。これは明代では軍功として最大のものかもしれませんね。この手柄を分捕ろうとする重臣の動きもありました。

いったん寧王を放して、武宗に親征したことにしようというような計略です。そんなことをすれば良民に迷惑がかかりますから反対したのです。ともかく陽明にいろいろ仕掛けて、反乱に追込もうとする挑発なのです。陽明はなんとかこの挑発には乗らずに、寧王を引き渡して身を引きました。

一五二一年に陽明五十歳の年に「致良知」説を提唱しました。心即理の心を良知とみなしたわけですね。このころになって陽明は、学が円熟したのでしょう。たとえ孔子や朱熹が唱えたとしても、自分の心が納得しなければ、正しいと決め付けてはならないという趣旨のことを言っています。これは当然なのですが、権威を重んじる儒家としては大胆な発言です。

つまりたとえ『論語』や『孟子』であっても、書としては心の外にあるわけです。そこに書いてあることが真理だとしても、それを真理だと思うのは心であって、心には何が真理であるか知る能力があるということです。これが「良知良能」です。それを信じて、良知を致すように、私利私欲に惑わされないようにすることが大切なのです。 

「人は天地の心であり,天地万物はもと吾と一体なるものである。生民の困苦荼毒(とどく),一つとして吾が身に切実な疾痛でないものがあろうか。吾が身の疾痛を知らざる者は『是非の心なき者』というべきである。是非の心は『慮らずして知り,学ばずして能くする』もの,すなわち良知であり,良知は聖と愚、古と今を問わず同一なるものである。」 

ここでは生民の痛みを自分の痛みと感じないものは,「是非の心」がなく良知に欠けるということになります。

天地万物の心と一体になった心は、時を超えています。先王や孔子や孟子が感じた嘆きを陽明も感じています。その心は一つだということです。良知を致す時には陽明は彼らと共に永遠の今を生きているのかもしれません。

紙数が尽きましたので、臨終に飛びます。病が重くなり勅命をまたず故郷に帰る船中で亡くなったのです。 

先生は目を開け積を見て、

「私は、行くぞ。」

と言った。積は、涙しながら、

「何か言い残すことはありますか。」

と訊いた。先生は、笑って、

「この心というのは、光明であり、何を言い加えようか。」

と言った。暫くして目を閉じてこの世を去った。享年五十七歳。 

私は最近、すべての宗教の根底に「三つのL」についての信仰が共通してあるのではないかと最近感じるようになりました。それはLight光、Life命、Love愛です。この「三つのL」について対話することによって分かり合え、和解しあえるのではないでしょうか。

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