Copyright (C) 2009 Yutaka Yasui. All rights reserved.

                                               中国思想史講座

                  
 

17.身をつつしみて理を窮めるー朱熹の学問
やすい ゆたか

 一、天下泰平の武士の気構え


 

  さて、いよいよ儒学者として最も有名な朱熹をとりあげます。彼の始めた学派は朱子学とよばれ、もっとも権威があったのです。日本でも江戸時代の初めに朱子学者の林羅山が大学頭となり、それが世襲されまして、朱子学が幕府の官学になったのです。幕府の学問所である昌平坂学問所では、「寛政異学の禁」で朱子学以外の儒学は教えてはならないことになったのです。

朱子学といえばお堅い学問で通っていまして、「身を慎みて理を窮める」という意味の「居敬窮理」が大切だということで、静座などしまして精神統一を行ないました。座り方は違うものの仏教の禅を連想しますね。じっさい朱熹は若い頃禅の修業をしていたことがありますが、儒教には儒教なりの座ることで精神統一する修行法があるのです。胡坐と同じように座りますが、脚を組まないで座るようです。その方が背筋が伸びるとかいいますね。日本の小笠原流の正座とは違いますよ。

「正心誠意格物致知(心を正し、意を誠にすれば、物に格(いた)りて、知を致す)」という言葉が中心です。要するに心に浮ついたところ、不純な物があれば、物事を曇りない眼で見ることが出来ませんから、現実をしっかり受け止めることが出来ないわけです。特に私利私欲に囚われ、我が身の保身ばかり考えていますと、世を正し、民を救い、己の使命を果たすことが出来ないのです。

江戸時代には、朱子学は、このような厳粛主義(リゴリズム)ですので、情欲に流されないようにということを強調します。すると情欲は人間の自然本性であるので、それを押さえつけたり、否定したりするのは人の道に外れているという批判がありました。同じ儒学の中でも、陽明学者や古学者はさかんに朱子学を非難したものです。もちろん国学者からも同様の批判を受けました。

でもそういう批判は揚げ足取りですね。現実を正しく認識し、それに対処しようとすれば、情欲を抑え、私利私欲に囚われないで精神統一しなければならないというのは当然のことです。人間でも動物でも欲望を満たすことで生きていますから、それを抑制しては生きられないということは、このことは関係ありません。何も絶食しろとか、息を殺せと言っているわけではありません。情欲にかき乱されたり、私利私欲に覆われて、物事を自分に都合よく捉えたり、自分の利益との関係からしか見れなくなってはいけないということですからね。

ただ朱子学のリゴリズムがあまり受けないのは、江戸時代という時代のせいもあるのです。何しろ天下泰平を謳歌していましたから、あまり窮屈なことばかりいわれても困るわけで、平和と繁栄を謳歌させて欲しいわけですね。朱子学なんて時代に合わないよということなのです。

では何故、天下泰平の江戸時代に幕府は朱子学を官学にしたのでしょう。それは武士階級が天下泰平の世の中に馴染んで、武士としての心構えを忘れたら、幕府が成り立たなくなるからです。天下泰平なのは徳川氏が圧倒的武力で天下を支配しているからであり、外敵の侵攻に備えているからなのです。武士たるものいつ何時、争乱になっても幕府を守り、人民の生活の安泰を守ることが出来るように、何時も気を引き締め、武芸に励み、軍事訓練をつんでなければならないということです。そして学問を修めて、日本の進むべき道を窮めておかなければならないということです。

それで幕府や藩ではもっともしっかりした体系的な学問になっている朱子学を正統と認めて、昌平坂学問所や藩校で学ばさせていたということです。

 二、王安石の儒教改革と道学派の反発


 

王安石は、『孟子』の教えを受け継ぎまして、儒学の革新を行なったわけです。その際にあくまでも先王の仁義の精神にもとづく王道政治の復活を目指しました。つまり呪いや占いの儒教ではなく、孔孟の仁愛の精神で改革を行なう儒学に戻そうということですね。

これは漢儒の儒学とはまるで違うのです。董仲舒などの漢儒は、讖緯思想で天変地異などの自然現象が天の意志の現れであるかに解釈するのです。ですから王安石のようにせっかく改革政治を行なっても、天変地異が起こると天意にかなっていなかったとして改革を中止させられたり、改革政治家が左遷されたりするのです。それでは改革できませんから、王安石は例の「三不足の説」を唱えたといわれたけですね。

「天変怖るるに足らず、人言かえりみるに足らず、祖宗の法守るに足らず」

です。これは誤解を生みやすい言葉ですから、こんなことは言わなかったとは思いますが、要するに讖緯思想を脱却して、古典を解釈し直したわけです。それでテキストの書き換えをしなければなりません。注釈の書き加えられたテキストしか残ってなかったので、注釈をいったんなくして、その上で合理的、仁義にもとづく王道政治の立場からの注釈を入れていったわけです。

 そうしますと、やはり納得できない人々が出てきますね。儒学も覚りというか、天地自然の道に従って人間の踏み行なうべき道を説いていたのではないかということです。讖緯思想は天が意志的に道徳判断をして、君主や人間たちに賞罰を与えるということで、かなり迷信が入っていますが、そこまでいわなくても、天地自然の道に従うということはやはり大切ではないか、新法派の儒学は肝心の天の理まで流してしまったのではないかといわゆる「道学」者たちが反発したわけです。それが王安石の新法や王安石以降のただ財政の為に新法を行なって、その利益を私物化して私腹を肥やしたり、権力を強めようとする新法派への反発と重なるわけです。

 宋学の系譜


 

 周濂渓(しゅうれんけい 一〇一七-一〇七三年)、本名は周敦頤で字は茂叔、濂渓という号は故郷の谷の名前です。彼が天地自然の道に基づく学問、すなわち道学の基を築いたのです。彼は『易経』に基づいて、太極説を唱えました。

宇宙の根源は極まりない無極です。それが太極です。太極が動くと陽となり、動きが極まって静となって陰になり、この二つの気があり、この二つの気から木・金・火・水・土の五元素が生じるとしました。この五気が順序よく配されて春夏秋冬の運行がなるとしたのです。

周濂渓はこの原理を人に応用しまして、木・金・火・水・土に対応している仁・義・禮・智・信を五性としました。この五性が感動して善悪分かれ、そこから万事が現れるとしたのです。ですから物事を認識したり行ったりする際には、仁義に基づき、バランスのよい中正に心がければ静となって、天地自然の原理と一つになるわけです。その際、私個人の欲望に左右されますと、道を見失ってしまいます。欲望に惑わされないが故にあらゆる事象と一致するとしたのです。この欲望に惑わされないことを無欲として捉えますと、老荘思想と融合していますね。それで人の根本は「誠」であり、誰であっても身を修めることによって聖人へと至ることができるとしたのです。
 周濂渓の弟子に程(てい・こう、一〇三二年‐一〇八五年、程明道)と程頤(てい・い一〇三三年 一一〇七年)程伊川)の兄弟がいます。この兄弟の頃から王安石及び新法派と対立するようになります。まず程明道の漢詩から見てみましょう。

 

秋日偶成       <程 明道

閑來事として 従容ならざるは無し

睡り覺むれば東窓 日已に紅なり

萬物靜觀すれば 皆自得

四時の佳興は 人と同じ

道は通ず天地 有形の外

思いは入る風雲 變態の中

富貴にして淫せず貧賤にして樂しむ

男児此に到らば 是豪雄

現代訳
 (役職を離れて)ひまな生活になってからは何事もゆったりとして、起きるのも朝日が東の窓に赤々とさしてからである。

 あたりの物を静に見れば、皆ところを得てそこにあり、納得しており、春夏秋冬の自然におりなすよい趣は人間と一体となり融けあっている。

 我らの信じる人の道は、天地間の無形の物にまで通じており、(この正しい人の道が行われてほしいという)思いは(有形である)風や雲や世相の移り変わりの中にまでは入りこんでいる。

 さてお金があって身分が高くてもまどわされず道を外れることなく、貧乏で身分が低くても人の道を楽しむ、(という言葉があるが)男子たるものは修養を積み、このような境地にいたるならば、すなわち真のすぐれた人物である。

  士大夫ですから進士の試験を受け役人になって、人民のために働くのが建前ですが、実際には党派に分かれて権力闘争などもあるわけです。それで精神が落ち着かないものです。ですから、仕事から解放されるとやっと自然の落ち着いた境地に帰れるということです。

 落ち着いた気持ちになって万物を眺めますと、どれも道理に叶い、充実しているということです。イエスも「野の花を見よ」と言いますね。何の不足もなく美しく咲き誇っているじゃないか、あるがままに神様に作られたままに生きればそれが素晴らしいのだというわけです。そういう気持ちで自然を眺めていますと、素晴らしい自然に囲まれて、ありのままに生きている人間も自然同様素晴らしいということです。自然の摂理の中にも、自然現象の中にも天地自然の理と同じである人の道は貫かれているので、自然体で生きなさいということなのです。

 程は対象を自己と一体と感じることを「仁」と受け止めています。医学書に手足が痺れて、痛みを感じなくなるのを「不仁」というのに注目しまして、他人の苦しみを感じないのを「不仁」、自分のことのように感じるのを「仁」としたのです。それを天地自然に広げまして、万物を我と一体に感じる「万物一体の仁」を説いたのです。

この発想は朱熹よりも陸象山にあるいは明代の王陽明に継承されます。このような心に到達するためには「誠敬」の心を持たなければなりません。誠は正直でうそ偽りがない、敬は謹んで丁寧にすることですから、私利私欲とか自分の性癖や習性などでゆがまないように、誠実に純粋な気持ちで、対象と一つになって行なうということでしょう。

程の弟程頤(てい・い、一〇三三年 一一〇七年、程伊川)は、陰陽・五行などの気に内在し、気を生み出し、動かす原理である理を気と区別して、理と気の二元論を唱えたのです。つまりこれまでは陰陽や五行などの気の運動を原理としてきたのに対し、道として理が万物を生み出し、万物に貫いているとしたのです。この宇宙全体の理を「理一」と呼び、その理が一物一物に内在しているとしたのです。これを「理一分殊」といいます。

人の「性」、人を人たらしめている原理も、もちろん「理」であると考えます。「理」だけを純粋に取り出しますと、人としてのあるべき姿ですから絶対善・精神性なのです。ところが肉体があり、「気」として存在しますから、相対な物質的な存在なのです。しかし、人間である限り、理を求め、窮めようとします。それは対象である身体外の物質の中にひそむ理を窮めるわけですが、「理一」ですから、それは人間自身の理を窮めることでもあるわけですね。このようにして人の「性」は本来の善を取りもどすわけです。程頤は『大学』の「格物」をこのように「物の理を窮める」ことと理解しました。これらの発想が朱熹に引き継がれます。ですから朱熹は程頤の流れで、王陽明は程の流れなのです。

それからもう一人は張横渠(ちょうおうきょ一〇二〇―一〇七七年)です。宇宙の本体を「虚即気」としました。「虚」としては無であり微ですが、「気」としては有であり顕であるとしたのです。この有無が渾然として一となっているので、生じたり、滅したり、変化したりするのでしょう。両者は決して離れて存在していないと説いたわけです。そして様々な事象が生じるのは陰陽の法則によるわけです。そしてあくまでも虚の立場にたって無我の境地で物事を捉えるのが聖人だとしたのです。ですから老荘思想や仏教に近いですね。

 四、父の庭訓と建安の三先生


 

朱子が道学の系統になったのは、父・朱松(しゅしょう一〇九七年 一一四三年)影響です。彼は一一二三年に任官して県尉(県の治安維持を司る)に任命されていたましたが、程子の学統にあたる羅従彦(らじゅうげん一〇七五〜一一三五年)に教えを受けます。そこで彼がテーマにしたのが修己治人(しゅうきちじん)です。役人になっていかに政治を行なうべきかと思って学問に入ったのですが、人を治める前に己の精神の修養が大切だということに気付いたのです。そうでないと立派な政治はできません。これを『大学』や『中庸』を通して学んだのです。

新法派の連中は民を救い国の財政を立て直すといって改革に取り組んでいたはずなのに、反対派の粛清に躍起になり、改革もそれで得た財政の増収は、徽宗の道楽と、宰相蔡京たちの不正蓄財に回されて人民を苦しめるのに使われただけでした。そのつけが回って、一一二七年に靖康の変が起きました。新興の金と結んで遼をやっつけて、歳幣を減らそうとたのですが、結局、宋は遼には勝てません。金が遼を滅ぼし、今度は金が宋にいろいろ無理な要求をしてきました。それで背信行為をして宋は金を怒らしてしまい、金に皇帝一族を拉致されて滅ぼされてしまったのです。

翌年高宗が南部に宋を再建して南宋になりました。そして建炎三年(一一三〇年)、尤渓県にて朱熹が生まれたのです。朱松は南宋の朝廷に入り、国史編纂の仕事に就きましたが、宰相秦檜の金に対する講和策に反対して中央を追い出されています。一一四〇年に州知事に任命されましたが、これを辞退して祠官の職を希望して認められ、以後は学問に専念して、一一四三年に四十七歳で死去したのです。まだ朱熹は十四歳でした。

朱松は、天才的な才能を見せていた朱熹の学問を見てきました。家庭教育のことを庭訓というのです。病気で先が長くないと覚り、息子を親友で道学者だった胡原仲、劉致中、劉子翬(彦沖)の三人に弟子入りさせたのです。

劉子翬は黙照禅にも凝っていたようです。その影響で朱熹も若い頃に禅修業に打ち込んだことがあります。やがて仏教と絶縁することになるのですが、禅の影響と云われるのが、静座法で精神統一するという修行を儒教に取り入れたことです。やはり無欲になって精神統一することによって理を窮めるということですから、共通性はありますね。

劉子翬の学問は科挙試験に合格するためではなく、自分自身が立派な人間になるための修養の学問でした。でも朱熹には母親を養うという役目があったので、受験勉強をさせようとしたのですが、朱熹は師の学風を慕っていたので本当の学問を教えてもらったということです。論語に「古の学者は己のためにし、今の学者は人のためにする」という言葉がありますが、人のためとは己の学力や才能を認めてもらうためということです。そのテクニックばかりやっていると、たとえ科挙に合格しても、本当に役に立つ人材にはならないということですね。

日本の戦後教育も受験体制といいまして、「人のためにする」学問を教えてきたわけですね。何の為に学ぶのかということをあいまいにして、人格教育が抜けていました。そのせいか最近は学力低下が深刻で、「歯を磨けば虫歯になる、病院に行くと病気になる、学校に通えば馬鹿になる」というイリイチの言葉が冗談ですまされなくなっています。受験にすら役に立たないわけです。

朱子学は、科挙に合格するための学問ではないというのが建前ですが、実際は朱子学は朱熹の死後正統派になってしまったので、科挙に合格するためには朱子学のテキストを暗記しなればならなくなったのは皮肉ですね。

この建安の三先生はみんな人格者で己のための学問を教えてくれたせいか、朱熹はそれほど科挙合格のためのがり勉はしなかったようです、それでも十九歳で科挙に合格という快挙を成し遂げました。ただし合格者三百三十人中の二百七十八番目だったということです。

  五、李侗先生


 

朱熹は科挙に合格したものの、すぐに任官されるわけではなく、詮試を三年後に受けて合格し、左廸功郎(さてきこうろう)の官位が与えられ、福建省の泉州の属県である同安県の主簿に任命されます。それから二年待たされてやっと二十四歳で赴任することになったのです。

朱熹は情熱的に職務を果たしたのですが、特に県の学校教育の改革には熱心だったようです。受験の為だけの教育で荒廃していて、生徒たちは午前中だけ受験勉強して午後には遊びほうけていたといいます。とても「天下の士を養う」ようなものではなかったのです。奨学金をめぐって州立学校の教授とトラぶったりしています。

朱熹は四年で主簿を辞めて、郷里崇安に帰りました。それから年老いた母に孝養をつくすためといって、奉祠職を願い出て南嶽廟の管理職という名目だけの役目につき、若干の年金をもらって暮らしていたのです。次に五十歳になるまで家にいてお母さんの世話と後は学問三昧の日々を送ったということです。

その間朱熹は延平の李侗先生(字は愿中)の門弟になっていました。その経緯はこうです。同安県に赴任に行く途中、父と羅従彦先生のところで同門だった李侗のところによったのです。きっといろいろお父さんから聞いていたので、どんな方だろうと思って挨拶によったのでしょう。

そのときの思い出ですが、朱熹は禅にもかなり傾倒していたので、禅の話をしたのです。すると李侗はそっけなく間違っていると言ったのです。聖賢の本をよく読みなさいとしか言われなかったと門人には語っています。でも朱熹はその時の話を別の門人には、朱熹が禅について語りますと、李侗は「君は懸空に(観念的に、抽象的に)いろいろなことを理解しているが、目の前にある具体的なことについては何も分っていないようだ」と指摘したようです。

禅というのは、結局、すべてをダルマつまり法の現われと捉え、あるがままに自由に生きるということを目指して、あらゆる制約を否定したわけですね。「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺せ。羅漢に逢えば羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱をすることが出来る。物と拘わらず、透脱自在である。」 

たしかに何者にも囚われず生きるということは大切ですが、そのような心構えだけで、何一つ解決するわけではないでしょうということですね。

「わが儒学が、異端の思想と異なっているところは、理は一つだけれども、分は殊なっているという考え方にある。だが理が一つであるということが分らなくても何も心配することはない。学ぶ物にとって一番難しいのは、分が殊なっているということのほうにある。」と李侗は語ったのです。「理一分殊」ということです。

墨子の無差別平等に愛する兼愛を否定し、逆に我が為になること以外は、脛毛一本あたえないという楊子の利己主義をも克服した仁愛の思想が儒家の立場だったですね。つまり普遍の立場しかみなかったり、個別の立場しかみないのではなく、普遍が個物にどのようにそれぞれの社会的自然的関連の中で、それぞれに相応しい姿で現れているかをきちんと見ていく立場だといういうのです。絶対自由意志というのは、確かに素晴らしい覚りかもしれないけれど、子は孝をつくすことにおいて自由なのであり、親は子を立派にそだてることにおいて自由なのだというのが「理一分殊」ということなのでしょう。

朱熹は初対面で禅を批判されたときは納得できなかったのですが、李侗先生の勧めにしたがって聖賢の書を読み深めるに従って、なるほど「修己治人」には禅では役に立たないなと思うようになったようです。それで李侗先生に入門することを決意したのでした。

 六、社倉の試み


 

朱熹はあまり役人として活躍してませんが、やるときにはやります。彼が住んでいた建寧府の崇安県で社倉を作っています。彼が三十八歳の年に大洪水があり、そのせいで翌年飢饉になりました。すると地主たちは高利貸しをして貧農の弱みに付け込みますから、各地で暴動が発生したのです。崇安にまで暴動が及ばないように、常平倉という官の倉庫から米六百石を貸与してもらい、村人に配給して飢饉を遁れたのです。その年になんとか収穫があったので、村人は政府に米を自発的に返そうとしました。

借りた物を返すのは当たり前というのは、ちょっと違うのです。普通飢饉で死にそうになり配給された米ですから、お上が助けてくれて当たり前で、強制されない限りなかなか自発的に返そうとはしないものです。

王安石の青苗法に反対した士大夫たちは、貧農に米やお金を貸しても、すぐに使い果たして帰ってこないに決まっている、貧農は馬鹿で目先のことしか考えられないから貧しいのだ、その貧農に利子つきで貸与してもかえって貧農をよけいに没落させるだけだという主張をしていたのです。

朱熹は貧農たちの行動に感動しまして、それならその役所の許可をとって、米を備蓄しておいて、それを元米にして利子つきで貸与しようということになりました。融資組合みたいにして、飢饉に備えます。ゆとりができれば利子を減らして、あくまでも財源ではなく、農民の互助組合にしたのです。これは新法派が結局は農民からの収奪に使ったのを批判していたからでしょう。

借りた米は返すべきだということですぐに返そうとした貧農たちには明らかに羞悪の心

があります。これを育てていけば義という君子の徳が備わるというのが『孟子』の四端説です。仁義に基づく王道政治をするとなれば、性善説にたって人民を信じる徳治政治でなければなりません。

 、 尊王攘夷と朱子学


 

それでは、紙数も尽きたので、後は朱子学をまとめることにします。

朱子学の祖,朱熹(一一三〇〜一二〇〇) は南宋の道学の大成者でした。彼の学風がとても厳しいリゴリズム(厳粛主義) を特色としたのは,当時,南宋が金(満州族の国家)から圧迫され屈辱的な朝貢をさせられていた事情と関連しています。質素倹約に勤め、富国強兵に励んで、いつの日か金を万里の長城の北に追い払おうとしていたのです。そうしなければ逆に金に併合されてしまうことになります。つまり朱熹は憂国の思いにかられ、尊王攘夷の志に燃えていたのです。

江戸時代も幕末になって尊王攘夷が叫ばれるようになったのですが、これは朱子学を官学にしていたことと関係が深いのです。

西洋列強が開国を迫ってきたわけで、しかもインドを完全に征服し、清国をアヘン戦争という理不尽で屈辱的なやり方で蹂躙した上で、日本を狙っているわけですね、これは何としても攘夷しなければならない、そのために徳川将軍の下でまとまれるのか、徳川氏は元々一大名家に過ぎないのではないか、やはり日本という公を代表するのは朝廷であり、その中心は天皇ではないかということになり、天皇を尊んで、中心に据え、それで初めてすべての雄藩も結集できるのではないかということです。それで「尊王攘夷」がスローガンになったのです。「尊皇攘夷」とは書かなかったのです。朱子学を引き摺っていたからでしょう。

宋の時代になって儒教ルネサンスが起こりました。何故なら仏教や道教では遁世的な気分が強く、とても亡国の危機に立ち向かえるものではありません。仏教や道教の流行で影が薄かった儒教が国を建て直す為に再評価されたのです。その際、仏教や道家から様々な論理を借りて、儒教の再構築がなされています。とはいえ五倫五常に基づき修身斉家治国平天下の道を明らかにするという点で,儒教の立場が貫徹しています。

五倫は「孟子」のところで勉強しましたね。父子有親、君臣有義。夫婦有別、長幼有序、朋友有信です。五常というのは徳のことで仁・義・礼・智・信にあたります。

八、理気二元論


朱子学では、理気二元論の立場をとります。理はロゴス(論理)で,気はマテリー(質料=物質)です。世界に存在する物は全て気によって構成されているのです。気の運動が大なのが「陽」で,静かなのが「陰」です。陽気が集まって「木,火」となり,陰気が集まって「金,水」となります。またそれら四つのエレメント(元素)の内にあって,それらをにがりのように成立させている核を「土」とよびます。これら五行(木,火,土,金,水)の組合せで万物が生じるのです。ギリシアの四元(火,空気,水,土)と比較して覚えて下さい。

同じ種類の物でも五行の内どの気が強いかで性格,性質が違います。人間に当てはめますと,木気が強い人は仁に厚く,火気が強いと礼儀正しい人柄になります。季節では,木は春,火は夏,金は秋,水は冬に優勢なのです。土用は各季節で一番それぞれの気が盛んな頃の事です。土気はそさぞれの気をもっとも引き立てる気なのですから。

宇宙をして宇宙たらしめ,個物を個物たらしめる原理として,朱熹は「理」を捉えます。つまり或る物がその物であるのは,「一物には一物の理あり」だからです。つまり天の命じた性(本性)である「理」を具現しているからなのです。ですから理は個物の「太極(根源)」だということになります。

理は気ではないので延長的には「無」ですが,万物の根拠としては,あくまで「有」なのです。「存在として無,意味として有」ということです。プラトンのイデア論に近いですね。

九、性即理


 理が先で気が後だという論理を理解するには,「体用」の論理を知る必要があります。体とは元になっている未発(まだ現れていない)の本体であり,それが動いて現れたのが已発(いはつ)である用なのです。 

 理

 形而上

 道

 未発

 中

 静

 気

 形而下

 器

 已発

 和

 動

この論理を心に適用したのが次の表です。 

本然の性(天理)

 体

 性

 仁義礼智

気質の性

 用

 情

四端のこころ

人間には誰でも「本然の性」が備わっているのです。本然の性とは天の命じた人間はかくあるべしという理念型です。ですから「性即理」なのです。それは純粋至善の心であり、聖人の徳である「仁義礼智信」です。ところが人によってはそれが五行の組合せに影響されて、そのまま発揮できません。本然の性を妨げる気質の性があるのです。そこで気質を変化させて,純粋至善の心にかえるのを「復初」と言います。

仁義礼智信が気質に邪魔されてそのまま現れずに、過ぎたり、足らなかったりして人欲になるというのです。そこで復初するには先ず人欲を絶って、情の面で気質の影響を排除するのです。これが身を慎む「居敬」です。居敬法として静座があります。

居敬すれば理を窮めることができるというのが「居敬窮理」ですが、これは『大学』の「正心誠意、格物致知(心を正し意を誠にすれば,物にいたりて知を致す)」からきています。「格物致知」によって対象の理を窮めますと,対象の理も心の本性である理も天理としては同じですから、心が復初して聖人の徳が現せるのです。

 

十、修身斉家治国平天下


居敬窮理=正心誠意格物致知はではどうしたらできるのでしょう。なかなか身を慎めと言われても、煩悩や欲望に流され、人間関係に惑わされて、心が定まらないものですね。学問の意義を説いている『大学』では、夷狄が侵略したりして天下が乱れるのは,国がきちんと治まっていないからだと言います。天下を平和にしようと思えば、先ず自分の国をきちんと治めなければならないのです。しかし国が思うよう治まらないのは、家がしっかりととのっていないからなのです。そこで国を治めるためには、先ず自分の家をしっかりととのえることが先決です。でも家がととのわないのは、実は自分の身がちゃんと修まっていないからなのです。だから家をととのえようとする為には、先ず身を修めなければなりません。その為には心を正し、意を誠にしなければならないわけです。そうして始めて物事の道理が見えてきます。

ですから先ず我々は天下国家を憂えて、危機意識を抱き自らの使命に目覚めて、身を引き締め覚悟を決めて、学問に取り組んで始めて、雑念を捨てて純粋至善の心に帰って、物事の本質を見極められるのです。そうしてこそ修身斉家治国平天下も可能になるのです。そしてそれこそが気質を変えて聖人に成れる道なのです。

建安の三先生は「学問は己の為にするので、人の為にするのではない」と言われましたね。それを「学問は私利私欲の為にするので、天下国家の為にするのではない」の意味に取ってもらったら困りますよ。全く正反対です。資本主義社会では誰もが私利私欲の為に動いています。ですから私利私欲の為に学問をしなければならないと思ったら、言われなくてもするのです。進学校や一流大学に合格させたければ勉強せよなんて言わなくてもいいわけですね。公務員資格試験や教員採用試験に合格したければ勉強せよなんていう必要はありません。合格したければするに決まっています。それを親にしつっこく言われますと、親のために勉強してやっている気になつて、親の見栄のために勉強したり、親の面倒見る為に生きているのかなと気が重くなってやる気をなくします。

それより天下国家がどうなっているのか、今世界はどんな時代なのか、我々の果たすべき使命は何で、我々に何ができるのかということを学問を通して学ばせることが大切なのです。未来は青年のものです。その青年が未来に夢を描くことが出来ていないわけですね。己の使命や夢を持っていない、己のために学問をしたり、力を伸ばす為に働いたりしていないのです。つまり本当の学問をしていないということです。だから学力が低下するのです。どこかの知事は競争させ、試験の結果を公表したら学力が上がるといいますが、まず何の為の学問かが分かっていないのに、受験競争を煽っても弊害が大きくなるだけです。

中学でトップクラスだった生徒が集まる高校の一番校では欠点が三十点未満なのですが、それでも欠点がぞろぞろいます。一流大学の難問を出すからです。それで自信をなくして勉強嫌いになって落ち込んでいます。困難校ではなかなか前を向いて勉強させることができません。競争を煽り学校格差ばかりつけても進学率がよくならないのです。本当の学問の喜びを与えないで、私利私欲を刺激して成績を上げようというのは、教育行政の責任者の考えるべきことではないのです。

それより『大学』を読んで、学問の意味を原点から考え直し、若者と議論していくようにすべきです。その意味では熟年大学には進学や就職という実利的な目的がないだけに己のための本当の学問ができるわけで、本当の考える力がつくのもこれからかもしれませんね。