中国思想史講座

                  
 

16.王安石の改革思想
やすい ゆたか

 一、現代の改革と王安石の改革の意義


 

 アメリカ合衆国や日本で次々と民主党政権ができまして、政治改革に取り組んでいるわけですが、そもそも政治改革とは何か、どのように改革を行うべきなのかということですね、これは国も違い、歴史も違い、体制も色々違いがあるわけですから、なかなかひっくるめて語ることはできません。自民党政権でも小泉純一郎は、「自民党をぶっこわす」と叫び、「小さな政府」を掲げて民営化路線を貫こうとしました。鳩山首相、小沢幹事長の民主党政権は、官僚に対する政治主導に主眼をおいて、徹底的に無駄をなくすと言うところに改革の力点を置いているようですね。

 そういう日本の現実の改革を見据えながら、王安石の新法による改革の意義を捉え返していきたいと思います。王安石の改革はどんな内容で、どんな成果が有り、かつどんな限界があったのか、そこから現在に活かせるものはあるのかを見ていくことにしましょう。

 とは申しましても今から九四〇年も前に行われた改革を取り上げて参考にならないだろうと思われるかもしれませんね。しかしそれは改革を現在を典型に考えて、九四〇年前と比較するという発想だからです。元々王安石の改革という改革の見本があって、そこから見て現在の改革はどうかというように考えるべきなのです。

 それなら王安石の改革が、とても素晴らしい改革で、大成功だったのかといいますと、それはそういうわけではなくて、改革の是非をめぐって喧々囂々の論争と党派争いが起こり、そのために改革派と反改革派が交互に政権について、せっかくの改革も台無しになり、国力も低下して、北宋の滅亡の原因になってしまったようです。

 それで大改革を試みた英雄としてよりも、独善的なやり方で対立をあおり、国を混乱させて滅ぼしてしまった無能な失政者として非難する人々も多いわけです。でも他方で王安石を儒教を現実政治に体現して、その理想を実現しようとした偉大な政治家として高く評価する人々も多いのです。

 改革する場合、既成の統治の仕方では現実の矛盾がますます深刻化するので、統治の有り方を変革するわけですが、その場合に理想とする体制があって、それに近づけるようなモデルが必要になります。王安石が理想にしたのは儒家として当然なのですが、理想化されていた周代の政治です。

 資本主義の場合に、市場の競争原理を理想化しますと、自由放任主義で小さな政府が理想だということになります。他方で自由競争の放任による「市場の失敗」が破綻の原因だと捉える人は、巨大な強力な国家機構が経済を調整するということを理想モデルにするわけです。こうして経済自由主義=政治保守主義と経済調整主義=政治革新主義が二大党派として改革の方向をめぐって対立することになります。前者はもっぱら「小さな政府、受益者負担、自助主義」を叫び、後者は「弱者に優しい政治、福祉の充実」を叫ぶわけです。

 資本主義の矛盾を国家が調整しようとする場合は、国家機構を肥大化させ、国家が企業や個人から所得を吸い上げて、それを元手に公共事業や福祉政策で、国民全体の生活を豊かにしていくことが必要です。

 しかし国家機構が肥大化しすぎますと、予算の大部分を官僚機構の維持拡大のために使われるようになり、国家が経済を調整したり、国民全体の所得を増やして豊かな国をつくり上げるのもむつかしくなります。そこで民間でやれることは民間に任せ、国家機構を小さくして、自由な市場経済を存分に機能させて、競争原理で経済を発展させようということになります。

でもそうすれば資本主義の矛盾が野放しにならないかどうか心配ですね。自民党の小泉改革が弱者切捨ての論理であり、真の改革ではないと批判されたのもそういう事情からです。

 改革というのは、貧富の格差が増大し、社会不安が拡大したからこそ行なわれるものです。その時に弱者切捨てにつながるような改革では国民の支持は得られません 。その意味で民主党政権の登場は当然の趨勢だったと言えるでしょう。

 しかし、国家機構が肥大化しすぎて、かえって機能マヒに陥り、国民経済の停滞の大きな要因にまでなっている場合には、当然大胆な冗官の整理、無駄の削減、効率的な行政への再編成が求められる筈ですから、そのような方向での改革はさらに徹底すべきでしょう。

 現代の改革についてとうとうと述べましたのは、王安石の時代もまさに同じ様な問題にぶつかっていたからです。ですから王安石の改革から成功の経験、失敗の経験を学び、現代の改革に生かしていくことが求められるわけです。

 とは申しましても、時代も社会も違いますから、機械的に応用しても失敗します。要するにどのような改革精神で改革に取り組み、そこからどのような教訓が得られるのか、またその改革に取り組んだ王安石という人間からどんな思想や生き方を学べるのかということですね。

 二、平和を金で買う「壇淵の盟」


 

 前置きはこれぐらいにして、本論に入りましょう。まず王安石はどういう人物だったか、どのような生い立ち、経歴の持ち主なのかということから入ります。

 誕生は西暦一〇二一年です。どういう時代だったでしょう。日本で言えば摂関政治の時代、藤原道長の子藤原頼通が権勢を誇っていたころです。

九六〇年に趙匡胤が宋を建国して六十一年経っています。その間遼(契丹)の聖宗が侵攻してきたので、宋の真宗はこれと戦いましたが、結局「壇淵の盟」を結んで講和しました。一応宋が兄、遼が弟ということになりますが、宋にすれば何時攻め込まれるかも分らないのでは不安なので、国境の現状維持と、宋が契丹に歳幣(毎年の贈与)として絹二〇万匹、銀一〇万両を贈与することになりました。

 この時の交渉にあたった曹利用が歳幣の額を真宗に報告したところ、真宗は大喜びしました。その十倍は覚悟していたということです。平和を安く買えたということですね。国境線に臨戦態勢をとっていますと、莫大な費用がかかるからです。

 要するに宋は先進国、遼は途上国ですから、所得水準が桁違いなのです。ところが軍事力では草原でいつも軍事訓練をしているような契丹の兵士の方が、勇猛で戦意も高くて強いわけですね。ですからまあお金で済むのならそれにこしたことはないということです。しかし毎年の財政負担になるわけですから、それが税に上乗せされる宋の人民にとっては辛いところではありますね。

 一〇四二年にこれが遼の要求で絹三〇万疋、銀二〇万両に増額されます。しかも一〇四四年には西夏の李元昊(りげんこう)が侵攻してきまして、講和条約で毎年銀七万二千両、絹三〇万疋を下賜しなければならなくなったのです。

 これを嘆いた駆け出しの若き地方官王安石の詩です。(八一〜八二頁) 

河北民     河北の民よ
生近二邊長苦辛 君らは契丹と西夏の国境近くに生まれ長年辛苦を強いられている
家家養子學耕織 どの家ももらい子をして百姓しごとと機織りを仕込み
輸興官家事夷狄 作ったものをお上に納めてかの夷狄に奉仕する
今年大旱千里赤 今年は大日照りで大地は千里の果てまで赤く焼けただれたのに
州懸仍催給河役 それでも州や県のお役人は黄河へ行って舟を引けという
老小相携來就南 老人と子供も手を取りあって南へ移住するが
南人豊年自無食 南人とて豊作でも自分たちの食べる物がないのだ
悲愁白日天地昏 悲しみのために天地は真っ昼間でも暗く
路傍過者無顔色 路ばたを通り過ぎて行く者の顔に生気がない
汝生不及貞観中 君らの時代は唐の貞観の御世ではないのだ
斗粟數銭無兵戎 その当時米は一斗たった数銭でいくさもなかった
 

 彼は役人ですが、夷狄に財貨を掠められて財政が苦しいことよりも、民の暮らしが苦しいことを嘆いています。あくまでも庶民の立場に身をおいて嘆いているのです。そこに王安石の人間性が感じられますね。政治家たるもの民の嘆きを嘆きとしなければならないということです。

 薄給だった官僚たち


 

 ところで彼の出生ですが、彼の父の名は王益です。祖父の弟が王家では始めて科挙にバスしまして、益が二番目に進士になったのです。ところが父は四十六歳で江寧府通判(副知事)のポストのまま亡くなりました。安石はまだ十九歳でした。父益は実直な役人でして、「一物が枯れるのも役人としての自分の至らなさと恥じる」人でした。

 父の死で一家は途方にくれ、一時は江寧の鍾山のワラビを採って飢えをしのいでいたといわれます。役人の家は科挙に合格するぐらいだから、みんな財産家だったと思われるかもしれませんが、王家はそれほど裕福ではなかったわけです。役人の給与というのも大変安かったようです。不正に手を染めないでは、なかなか経済的な余裕はなかったということです。

 王安石は仁宗皇帝に上げたいわゆる『万言の書』で役人の給与が薄いことをこぼしています。「方今、禄を制すること、大抵皆薄し。朝廷侍従の列に非ざるよりは、食口やや衆(おほ)ければ、未だ農商の利兼ねずして、能(よ)く其の養を充たす者あらざるなり」と述べています。つまり中央の高級官僚でなかったら、家族の数が多いと、農業や商業での利得がないと養えないというのです。具体的に地方官では月収が仕事のない期間もあるので、平均すると多くても月銭四千から五千にも達しない、少ないと銭三千から四千にも達しないといいます。それで腐敗が起こりがちだと言うことですね。ちなみに四千から五千というのは現在の日本の貨幣価値では四十万円足らずの額です。なにしろ当時の中国は大家族制ですし、冠婚葬祭は大変な物入りでしたので、薄給だったということでしょう。

 「雖厮養之給、亦窘於此矣」とあります。「使用人の給与もここから支払うので、苦しめる」という意味ですが、「窘」の前に「不」が欠けていて、「使用人の給金さえ、雇い主の役人の所得より苦しくない」と解釈する人もいるくらいです。

まあ相当薄給だったということで、役人はたいがい豪商や豪農が、自分たちの家族から学問好きの子供にがり勉させて役人にしていたということでしょう。それで役所とつながりを持って融通を利かせてもらおうとし、利権にありつこうとしたのでしょうね。このようにして、官吏を輩出する富裕層が権力と結びつき形勢戸を構成し、唐代の貴族に代わって支配階級になっていったわけです。

 でも中には、王安石の家庭のようにそれほど裕福でない家庭から、賢明で勤勉な人材が志を抱いて科挙に挑戦し、進士に合格することもあったのでしょう。相当社会的経済的地位の低かった人々にも、科挙で合格する可能性がでてきたということです。それで貧しい民衆の目線から政治改革を構想することも可能になったのです。

 「明経科は三〇歳でも年寄り、進士科は五〇歳でも若い方」ということですが、科挙の試験で進士科に合格するのは明経科の十倍も大変難しかったのですが、王安石は二十二歳で進士に四三五人中四位の成績で合格しています。相当の秀才だったということですね。本当は首位だったけれど、答案の中の時世批判が峻烈すぎて、順位を下げられたという説もあるようです。

 

 四、鄞県知事時代の改革


 

それで京師(みやこ)にいて中央官僚としてのエリートコースを歩めば出世が早いのですが、王安石は地方官を志望します。簽書(せんしょ)淮南判官に任命されました。その方が給与が高かったのです。家族を養う為には実入りのいい地方官を選んだのです。

慶暦三(一〇四三)には范仲淹・歐陽脩らによる「慶暦の新政」という改革が試みられますが、失敗しました。冗官を大胆に削減し、行政機構を統廃合します。役人の給与も腐敗を防ぐ為に調整するなどでした。これは反対勢力の集中砲火を浴びほとんど成果を挙げられないまま挫折しました。

慶暦五年に淮南判官を任期満了して、都である汴京に戻り、次の任官を待ちました。次も地方官を望んだのです。慶暦七年に後の寧波にあたる鄞(ぎん)県知事に任命されました。当時有数の国際貿易港だったのです。

 彼は非常に精力的に働いたようです。特に農業水利工事は陣頭に立って行なったようです。農民たちの生活を向上させようと必死だったのです。また日本で奈良時代に出挙(すいこ)と呼ばれていた、籾を貸し出して、収穫期に利息を加えて返納させる制度を実施しました。何故、それをしたかと言いますと、一般の農民は貧しくて、籾の蓄えがなくなってしまい、春に撒かなければならないときにないので、地主や富農から高い利子で借りなければならなかったのです。

 貧農たちは助かるのですが、行政に商売を横取りされた地主や富農たちは不満だったでしょう。これを後の王安石の改革では、「青苗法」として全国的に実施しました。それで科挙の官僚を輩出していた士大夫階級の多くが大反対したのです。なぜなら彼らは地主や富農層の出身者だったからです。

 そのほかにも隣組制度を整え治安をよくし、県立学校を創設したりしました。王安石の善政は鄞の人々に感謝されて、祠堂(おやしろ)が建てられたそうで、その祭りは五百年後の明の時代にも絶えずに行なわれていたということです。

  五、先王の精神で地主制を批判 


 

皇祐三 (一〇五一) 舒州通判を拝命します。この時代に彼の社会批評は鋭くなります。地方官をしていますと、やはり農民の窮状を目の当たりにしますので、何とか抜本的な解決策はないものかとということですね。何が一番の問題かと言いますと、全国の耕地の十分の七以上が大地主の手中にあったということです。土地を兼併して自分のものにする大地主を「兼并」と呼んで敵視しています。 

発廩(はつりん、倉をひらく)

先王有経制  古えの聖天子には恒常なる法度があり
 頒賚上所行  富みの分配は天子のしごとだった
 後世不復古  後世、古代のやり方に復帰せず
 貧窮主兼并  貧乏人は土地兼併の大地主を主人と仰ぐようになった
 非民獨如此  人民だけがそうなのではなく
 爲國頼以成  国を治めるにも大地主の力を借りている
 築臺尊寡婦  国家は金を持った未亡人のためにうてなを築いて敬意を表わし
 入粟至公卿  富豪は穀物を上納して高級官僚になる
 

「先王」というのは周の時代を理想化して、周代では封建制が整い、周王―諸侯―卿―大夫―士という縦の序列があり、上から封土を与えられ、下のものに封土を与え、そして農民がそこを九一の法(井田法)で耕作していたのです。つまり田畑を九等分に区画し、八つの戸がそれぞれの区画を耕して、その収穫を自分の物にしていました。そして残りの一区画を八戸が協同で耕作し、その収穫を領主に貢納していたわけです。決して地主が他人の耕作地を兼併することなど許されなかったわけです。

この詩では周代の封建制を本来の有り方と印象づけることで、土地を兼併して支配している地主階級を土地と権力の簒奪者として告発しているわけです。本来、土地は皇帝の支配下にあるべきで、皇帝の臣下に封土として管理させ、人民に耕させて、九分の一の税を協同で納めさせるというのが正しい規範なのだとしたのです。これに戻すのが改革の精神だということになります。

このことを明確にしたのが戦国時代の『孟子』です。王安石は孟子をもっとも尊敬しているのです。でも残念ながら、孟子は本来の有り方を明らかにしただけで、宰相になれなかったので、改革を実行することはできませんでした。王安石は宋代の孟子として改革を実行したいと願っていたわけです。

もちろん、周代とは社会経済の状態は全く異なっていますから、今更、地主たちから土地を皇帝に奉還させ、封土や井田法を実施することは不可能でしょう。そんなことは王安石も重々承知です。要は、精神において周礼を復興するということなのです。それには宋代は好都合な条件があります。それが皇帝独裁制と科挙による官僚制です。

唐の時代は貴族の勢力が強かったですし、辺境は節度使が押えていました。五代では将軍たちが皇帝に取って代わるクーデターが繰り返されたわけです。それが宋代になって、皇帝が国家権力の全権を掌握し、殿試で自ら面談して選挙した官僚によって支配したのです。それで皇帝の決断次第で、優秀な官僚を使って大胆な改革をやれるようになってきたのです。

ただし皇帝の権力基盤は自分が選挙した科挙官僚ですから、彼らの出身階級である地主や豪商の不利になるような施策を推し進めるのはむつかしいことなのです。

 六、「迂闊」承知の改革路線


 

至和元年、王安石が三十四歳任期満了で京師に戻ります。朝廷では、王安石に中央の館職につくよう働きかけます。集権校理という典籍の編集や管理の仕事です。これは大変有能な人材に提供される名誉職で学問に時間も取れ、将来の出世に有利だったのですが、彼は家庭の事情で断るのです。要するに薄給すぎて暮らしていけないということです。

次の職が決まるまでは政府の船で船中生活をしなければなりません。その船が火災に遭って大変な思いをしたようです。結局中央の官職でも収入がよかった群牧司判官に就任して三年間は京師暮らしを体験しました。この時期に王陽修、司馬光、呂公著、韓維らと親交を持ったのです。

それから再び地方官に戻ります。常州、鄱陽と遍歴しました。そしてようやく十六年の地方官生活を終えて中央政府勤務、度支判官(財政部書記官)になったのです。長年の地方官勤務を終えて中央政府勤務になりますと、皇帝にレポートを提出する慣わしになっていたようです。『仁宗皇帝に上りて事を言ふ書』で俗に『万言の書』といいます。

彼が『万言の書』で先ず指摘しましたのは、宋朝の法はきちんと整備されているようでいて、先王(周の武王・文王)の政に合っていないということです。孟子の説に照らせば欠陥は明らかだというのです。時代が違い社会状態が違うので、当然施策は異なるのですが、何を根本とし、何を末節とするか、何を先にし、何を後にするかは変わらないはずだ、精神は同じだということです。つまり先王の精神に基づいた法度を整えるべきだと主張しているわけです。

そしてたとえ皇帝が先王の精神で政治をしようとしても、それを立案し、施行するにはしっかりした役人が必要ですね。その人材がいないと嘆いています。直接言及していませんが、大部分が地主や豪商の出身の科挙合格者である既成の役人たちでは先王の精神を理解できていないということかもしれません。

国都から村里まで学校を整備して、天下国家に有為な人材を育成すべきだというのです。そして先王がいかに人民の暮らしをよくするために心を砕き、骨を折ったかを教えて、先王の精神を植えつけるべきだということです。

そしてその人材の生活を保証する財、不正を防ぎ、王と人民のために尽くさせる礼、礼に従わぬ者を罰する法を整える必要があると指摘しています。役人が薄給すぎることは、役人の不正、腐敗を生む元だとしています。

役人に冗員が多いことについては、薄給なので財政的に大した問題ではないとして、いかに財政収入を増やすかは、工夫次第と考えています。籾や資金の低利融資などを後の改革で打ち出しますが、既に地方官時代の経験も踏まえて腹案はあったのでしょう。

そして人材を選抜する際は、先王がしたように地域社会と学校の推薦にもとづき、行動・発言・政務処理能力を審査すべきだとしています。要するに儒教の経典を暗記したり、文章が上手に書けたりすることよりも、信頼され、状況判断が出来、人民本位の先王の政治が出来るかどうかで審査すべきだということです。

そして任用方法ですが、専門職的な一つの仕事に一生捧げさせることを理想と考えていたようです。

それから彼は士たるもの文だけでなく武も学ぶべきだとしました。宋は文治主義で文化国家なので、文官になりたがり、武官が敬遠されたので、王城の守備や辺境の防備に無頼の徒がつくものが多く、忠誠心や紀律に問題が生じ、クーデターの原因にもなりかねないということです。

彼は『万言の書』で開陳した見識を「迂闊(うかつ)」と表現しました。うかつというのは大雑把で、不注意なところがあり、肝心なことが抜けていたりして、やり直したりしなければ成らない場合に言いますね。つまり彼は一部の富裕層から迂闊だという非難を浴びることを予想して、わざとそう表現しているのです。改革は痛みを伴います。みんなにいい改革をしようとしても、これまで暴利を貪っていた連中にとっては短いものさしでは大損させられた気になるものです。みんなが豊かになることで、結局社会全体が発展し、繁栄することになるとしても、欲に眩んだ我利我利亡者たちにはそういう長期的なビジョンなど理解できないものなのです。

このレポートに対して、三浦國雄さんの『王安石』によりますと、仁宗からの反応はなかったようで、しばらくして建白書を仁宗にたてまつっています。

「『臣(わたくし)の見ますところ、現今の朝廷の地位には賢才を得ているとは言えず、実施されている政策も法度に合致しているとは申せません。官僚の綱紀は上に乱れ、人民は下で貧困にあえいでおります。風俗は日々に薄っぺらになってゆき、財力も日々に欠乏に向かっておりますのに、陛下におかれては、高い玉座で腕組みされているだけで、打開策を尋ね求めようとはされません。それを思うとき、臣は陛下のため慮って嘆かずにはおれないのです。』

右に続けて安石は言う、このまま苟且因循(こうしょいんじゅん、一時しのぎの対策をして、旧弊を改めないこと)や逸豫無為(遊び暮らして何もしない)でいると、晋の武帝、梁の武帝、唐の玄宗のように国を滅ぼすだろう。いまこそ無為を去って有為の時、いまを逃せばあとに苦い悔いを残すだろうー。」(一二四頁)

大変厳しい指摘ですね、こういう指摘を皇帝にしますと勘気に触れて処刑されることもありえますから、王安石は命懸けだったのです。皇帝はやはりこれもシカトしたわけですが、翌年に直集賢院(宮廷図書の管理)を兼任させていますから、イザという時に登用するつもりだったのかもしれません。そして嘉祐六年、王安石は知制誥(ちせいこう、内閣の辞令起草官)に登用されたのです。

嘉祐八年王安石四十三歳の年に在位四十一年の仁宗は崩御しました。彼の時代は平和をお金で買って、一応泰平でしたので、王安石などを宰相にして思い切った改革などするのはためらわれたのかもしれませんね。

その年に王安石の母が亡くなり、江寧に連れて帰り、鍾山に葬り、服喪したのです。英宗皇帝が即位して四年の治世がありましたが、母の喪が明けても王安石は、江寧から腰をあげなかったのです。

 、王安石の新法の開始


 

英宗皇帝は享年三十六歳で崩御し、その長子の神宗が弱冠二十歳で即位したのです。この青年皇帝もなかなかの逸材だったようです。父帝は傍系から皇帝になったので、少年時代に人並みの苦労をして人間ができており、社会改造の情熱も持っていたようなのです。どうも『万言の書』などを読んでいて、強く共鳴していたようなのです。自ら書簡を認めて礼を尽くして召喚したのです。

さて紙数も尽きてきましたがまだ本論の「王安石の新法」の説明に入っていません。この講座は思想講座なので、王安石の考え方が中心ですから、どうしても前置きが中心になってしまいました。

彼は熙寧二(一〇六七)年、神宗に一地方官から皇帝の側近たる幹林学士に抜擢され、更に一〇六九年には、二月に参知政事(副宰相)となり、政治改革にあたることになったのです。早速財政審議機関である制置三司条例司が創設され、七月には新法第一弾「均輸法」が施行されました。

 「大商人に握られていた物資の運輸を発運使という役を使うことで政府の統制の下に置き、中央への上供品の回送を行って財政収入確保の効率化を図るとともに物価の調整を行う。旧法派の反対により頓挫し、下の市易法に吸収されることになる。」と ウィキペディアで説明されています。つまりいったん都に運ばれ政府に納められていた遠方の物資を生産地の近くの必要とするところへ発運使が運び、中央で必要な物は都の近郊から調達するわけです。そうすれば輸送費が浮きますし、物資が余って買い叩かれたり、不足して商人から高値で買うこともなくなり、人民も物価が下がって安く入手できるようになります。

 九月に実施されたのが青苗法です。端境期に食糧や種籾が底をつくと、貧農は富農や地主から高い利子で借用せざるをえなかったので、これがますます貧窮して、没落する原因になっていました。そこで常平倉という官の倉から穀物とお金を二割以下の低利で小口の融資をする制度です。

これは日本の律令で出挙を連想されるでしょうが、日本では稲籾を利子つきで貸し出しましたが、利子は五〇%もとっていまして、しまいに強制的に貸付するようになり租税化しました。つまり日本の律令国家は宋の悪徳地主みたいなことをしていたわけです。悪徳地主から王安石は農民を救い、没落を防いだわけです。その上財政を少しは潤したということですね。ただ地主階級の出身だった官僚たちが猛反対したことは当然ですね。地主ばかり損をする政策は不公正だと感じたのでしょう。

王安石は、先王を持ち出し、土地は皇帝のものという立場に帰って、人民がみんな豊かに暮らせるようにするのが先王の政だという理念を堅持していますから、公の土地を兼併している地主の存在それ自体が本来間違っているという立場です。それで種籾の高利貸付を放置しているとますます先王の政からはずれるので、官が貸し付けるということになって当然なのです。これは貧農にだけ肩入れするから偏向しているというのではなく、大地主による支配が耕地の七割にまでなっているという現状を踏まえ、大多数の農民を没落から少しでも救済するという公共的な立場なのです。だからこそ皇帝も断固として支持したわけですね。

翌年王安石は、同中書門下平章事つまり宰相に昇進しました。この年熙寧三(一〇六八)年に河倉法が施行されました。都に上納される物資の倉庫が川沿いにありました。その管理事務には実務に長けた胥吏(しょり)が当たっていたのです。彼らは実務能力はあったのですが、決まった俸給をもらっていないので、不正をはたらく者が多かったわけです。そこできちんと俸給を支払う代わりに不正を犯せば厳罰にすることになったのです。

科挙で合格した官僚は実務能力がなく、胥吏は実務能力はあるが、不正を働くということなのです。王安石は官吏もきちんと実務能力をつけ、胥吏は公正に働き、業績によって官吏になれるようにと考えていたのです。ゆくゆくは官吏と胥吏を統合しようと考えていたのです。ですからこの河倉法だけみますと、胥吏に厳しいようですが、官吏と胥吏という身分的差別撤廃への第一歩にしようとした進歩的なものであるということができます。

八、保甲法、募役法、科挙改革、市易法、農田水利法


熙寧三年には保甲法が施行されました。これは十家を保、五十家を大保、十大保を都保として軍事的に組織するものでした。それぞれ保長、大保長、保正を置きまして、毎晩地区内をパトロールし、軍事訓練を施したのです。募兵制で弱体化した軍事力の強化、農民に自警させることで、軍事費の削減効果も期待されたようです。

保甲法の考え方は、人民全体が皇帝の兵士になり、治安を維持し、国を守るというもので、これが先王の精神に叶った古えの本来のあり方だということです。つまり皇帝独裁体制にぴったりだということでしょう。

それに宋のように募兵制にして兵農分離でやっていますと、兵士は専門の軍人なので一見強そうですが、それより騎馬民族のような人民全体を騎馬隊に組織した方が機動力があって強いわけです。それに共同体がそのまま軍事組織ですから、生活と軍事が一体だという強みもあるわけです。

そして保馬法が追加され、軍馬を保に委託して飼育させたのです。これは後に戸馬法となり、富農に強制的に割り当てられて、大変な迷惑だったようです。

熙寧四年には募役法が施行されました。一言で言えば差役の銭納化です。それまでは徭役のうち職役とよばれる地方官庁の下働き、つまり倉庫管理、物資運搬、徴税、犯罪人の捕縛などの仕事が農家に割り当てられていたのです。差役と呼ばれていて、これが輪番で回ってくるのがとても恐怖だったそうです。物資を弁償させられたり、税金の滞納があれば立替えさせられたりしたからです。

農家を所得水準で五段階に分けて、応分に費用を出させまして、集まったお金で希望者に差役の仕事をやらせるという仕組みです。その際、これまで徭役を免除されていた官戸(官僚を出した家)、都市住民、女世帯、寺院や道観などにも出させたのです。

これには反対が強かったようです。農家は現金を持っていないので徴収がむつかしいですし、官戸などがとばっちりみたいに言って猛反対したわけです。

熙寧四年には懸案の「科挙改革」を打ち出しました。

一、明経科を廃止し、進士科に統合する。 

二、詩賦・帖経墨義(経典の丸暗記)をやめ、経義(経典解釈)・論(自由な論        文問題)・策(時事問題に関する対策を論じる)を問う。

三、殿試(天子の出題)は策一題、千字以上とする。

このように現実に対処できる実践的な人材を登用できるようにしたのです。またこれに

対応して学校制度も大改革を行ないました。教材には『詩経』『書経』『周礼』の注釈書『三経新義』を用いたのです。

『周礼』は改革を正当化するために持ち出したのであり、新法の隠れ蓑だという王安石批判もあります。これを「周礼藉口論」と言います。しかしこれはゆがんだ観方です。彼は地主階級出身の官僚層と対決するために、あえて皇帝と人民を一体化して捉える「先王の道」を強調したのです。

熙寧五年には市易法が実施されました。これは青苗法の都市版です、京師に市易務を主要都市にその出張所を設け、中小業者に資金を融通し、豪商の買い渋りにあった商品を政府が買い上げたりしました。流通に介入して物価の調節を行い、中小業者の保護育成と物価安定を図って、庶民の暮らしを守ろうとしたのです。

そして農田水利法で、荒地の開墾、水利施設の整備を行ないました。湖沼を埋め立てて田畑にするという、現代では自然破壊で問題になりそうなことも熱心に取り組んだようです。事業を起して、財を作り出して、税の不足を補おうという積極的な姿勢ですね、この姿勢自体はいいことですが、環境としての自然を破壊してしまっては大変です。

ともかく農業開発を官主導で推し進め、その利益が一般農民に行渡るようにすることで、大地主・豪商、小作・都市貧民という格差からくる社会の混乱と衰退を押し止め、夷狄の脅威から国を守ろうとしていたわけです。

しかし新法に反対するいわゆる「旧法派」から集中砲火をあびて、熙寧七年にいったん王安石は宰相を辞任します。翌年二月、復職したものの十一月には解任に追い込まれたのです。それでも皇帝が改革を支持し、改革派を宰相にしたのです。

残念なことに元豊八(一〇八五)年、享年三十八歳で神宗皇帝は崩御し、まだ十歳の哲宗皇帝が即位します。それで英宗皇帝の皇后だった宣仁太后が摂政となって支配権を握ってしまったのです。彼女は徹底した「旧法派」でしたから、司馬光を宰相にして、改革政治を水に流してしまったのです。でも彼女が亡くなり、哲宗皇帝が実権を握りますと、また新法派が政権に返り咲いたのです。こうして新法派と旧法派の党派争いがすさまじくなり、結局政策に一貫性がなくなり、国が衰え、北宋の滅亡の原因になってしまったのです。

まとめにかえてー改革の意義


王安石に対する反対派の攻撃は、彼の言動に対する反発という形をとりました。いわゆる「三不足の説」です。王安石が「天変惧(おそ)るるに足らず、人言卹(かえりみ)るに足らず、祖宗(先代)の法守るに足らず」と言ったとして攻撃されたのです。この言葉自身を取りますと、問題発言のように見えますが、王安石が言ったかどうかは別にして、王安石が言ったとしたらそれなりの道理があるのです。

だって天変地異が起こったからといって、それが新法のせいだと言われても、はいそうですかと引き下がるわけにはいきません。また官人には新法で損をする地主や豪商階級の出身者が多いのですから、彼らが反対したからと言って、新法を引っ込めるわけにはいかないのです。あくまでも新法の効果は社会全体がよくなったか、財政が改善されたか、国難が防げたかなどで判断されるべきです。そして先帝はその場しのぎで祖法をころころ変えていたので、祖法を守れと言う方が無理ですね。

王安石は、確かに自分もあまり裕福ではなく、経済的に苦労したこともあって、貧民に同情していましたし、地主や豪商をあまり好きではなかったかもしれません。でも彼は決して好悪で政策を考えたのでは有りません。ごく一部の大地主や豪商がのさばり、官僚を身内からだして政治を牛耳って、国家の権力や富を私物化させていたのでは、人民全体がいつまでも貧しく弱い存在になり、国力が衰退し、軍事的にも弱体化して、「夷狄」に乗っ取られてしまうと考えて、人民全体が豊かになるような政策を考えたに過ぎないのです。

しかし大部分の官僚たちは自分の出身階級の一時的な損得勘定に惑わされて大局を見ることが出来ず、大義を見失ったわけです。このことは今日の改革でも言えるでしょう。どうすれば国民全体、世界全体の活力が高まり、自然環境が守れるのか、一部の人々の利権や都合ではなく、どうしたらみんなが幸福になり、路傍に迷ったり、医療が受けられなくなったりする人がいない社会が作れるのかという公共の福祉の立場から改革がなされているのかということです。王安石の精神から大いに学ぶべきでしょう。