中国思想史講座

                   中国仏教思想
 

.中国禅思想史
やすい ゆたか

 一、達磨大師伝説


 

 中国禅の開祖は菩提達磨大師と言われています。彼の生没年ははっきりしません。自称一五〇歳だったそうです。かれは南インドの出身で、香至王の第三王子だったと伝えられています。世界各地を回って中国へは西暦五二〇年に海路で来たということらしいです。北魏の永寧寺を観まして、大変感動しています。仏国土でもこれほどの寺はないだろうというのです。なにしろ高さ百メートルを超える巨大な塔があったらしいですからね。達磨大師にすれば地の果てまできて、仏法が広がって巨大な塔になっているのを目の当たりにし、感慨ひとしおだったと思います。「南無」を唱えつつ幾日も合掌し続けていたということです。

 彼は菩薩天子で有名な梁の武帝(蕭衍)の許を訪れ、問答を交わしています。

帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知る

武帝は菩薩天子として仏教興隆に尽くして来たので、どんな功徳があるだろうかと達磨大師にたずねましたが、返事はそっけないもので、そんなもの何も功徳なんかありませんよ、というのです。そんなことたいしたことじゃあなくてかえって真理が何か分らなくなって、煩悩の原因をつくっているだけだというのです。第一功徳をひけらかして自慢しているわけですから、それじゃあ偽善にすぎない、だから無功徳だという解釈もあります。

じゃあ真の功徳とは何なのですかと、武帝が尋ねますと、達磨は、清浄な智恵は絶妙な円になっていて、それは空っぽですっきりしています。このような功徳はこの世界では求めることは出来ないのですと応えました。

第一義的な聖なる真理は何ですかと帝が尋ねたので、「廓然(がらんとして)無聖なり」つまり特別に聖なるものが俗なるものと別に存在するのではなく、がらんとして、ありきたりのものこそもっとも大切な聖なるものなのだというわけです。

それでこの変ったことをいう達磨に、あなたは一体何者ですかと、武帝が尋ねますと、「識りません」というのです。「空」だから知らないという解釈もあります。あるいは主観は認識する側であって、される側ではないので、認識対象ではないから「識らない」のかもしれないですね。よく自分探しと言いますが、自分自身ほど得体の知れない、分けの分らないものはないのかもしれません。

そこで武帝は納得できなかったので、達磨の方もこの帝では見込みがないと考えて去ったそうです。それで中国の河南省鄭州市登封にある中岳嵩山の少林寺に行きまして、そこで面壁九年の坐禅をしたと伝えられています。しかしその伝えは唐代『伝法宝紀』からなので後世の創作だという解釈もあります。達磨の禅は、壁観つまり「壁となって観る」、「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」ですので、そこからできた説話かもしれません。

 二、雪中断臂―第二祖慧可


 

そこに第二祖になる慧可が入門しようとやってきます。達磨大師は「仏法を求める人は、自分の身体を身体にすることはできない。自分の命を命にする事はできない」と言ったそうです。それで、慧可は雪の中で何日間も立ちつづけました。そしてついに自分の腕を切り落として、達磨大師にその覚悟を示したということです。

これも片腕がなかった慧可について伝説的に、その話が創られたという解釈がありますが、真偽のほどはともかく、自らの身体に拘らないという仏教の立場を衝撃的に示しているわけです。この話から「雪中断臂」という四字熟語ができたそうです。まあ決死の覚悟を示すみたいな場合に使うようです。

慧可。「私の心を落ち着かせてください」
達磨。「じゃあお前の心を持ってきなさい」
慧可。「心を探しても、何処にも見つかりません」
達磨。「探せても、それがお前の心であろうか。
慧可。「今初めて知りました。一切諸法はもとより空寂であることを。悟りは遠くにないことを。菩薩は念を動かさないで、根源的な智慧の海に至り、念を動かさないで、涅槃の岸に登られる」(筑摩書房祖堂集より)
 

 慧可は不安でたまらなかったのでしょう。どっしり落ち着いている達磨大師に心を落ち着かせてもらおうとしたのです。達磨は、それじゃあその心を持ってきなさいと言います。持ってきたら落ち着かせてあげようと言うのです。慧可は心なんて手に持ってこれるものではないので困ってしまいます。心には姿も形もないわけですから。つまり心があると思ってそれが苦しんでいると思っているのだけれど、それは何か実体としてあるような存在ではないわけです。心はもともと空だと悟って、繰りひろけげられる状況に対して、あらゆる囚われを脱して精一杯自由に、悔いのないように楽しんで生きればいいということでしょう。それが悟りは遠くないとか、念を動かさないとか言うことの意味でしょう。雑念を交えないで、まっさらな気持ちが大切なのでしょうね。

 慧可についてはこれと似た話が有ります。慧可の立場は逆ですが。

天平年中(五五九)年、一四歳ぐらいの一人の居士に会う。
居士。「私は心が病んで苦しんでいます。どうか私に懺悔させてください」
慧可。「君の罪を持ってきなさい」
居士。「罪を探しても見つかりません」
慧可。「私は今、君に懺悔させ終わった。君は今、仏・法・僧の三宝に帰依いたしなさい」
居士。「この世で何が仏であり、何が法であるのでしょう」
慧可。「心が仏であり、心が法である。法と仏には差別がない。君はわかるか」
 

 人間はいろいろ罪業を重ねて、それで苦しんでいるわけですが、罪というものはそれに囚われていたら、落ち込んでしまいますね。心に実体がないように罪というのも因果のなかで、縁に触れて生じるものです。『歎異抄』でも虫一匹殺せないような男が、状況によって何百人でも平気で殺すものだとしています。ユダヤ人を大量に瓦斯室に送り込んだアイヒマンが非常に温厚でやさしい性格だったという話が有ります。

 ですから罪に堕ちた自分の過去に拘るのではなくて、どんな人間にもまっさらな心、純粋無垢な心があって、それによって生かされているわけです。それが仏であり、法であるということですね。

 大いなる命があって、その現われが生きとし生けるものであり、それぞれが己の命を生きることで、他者を生かし、自然を形成しているとしたら、それ自身素晴らしいことですね、大いなる生命の共生と循環自身が仏の姿であり法だということができます。その営みの中で自らの欲望に固執してしまって、本来の姿を見失い、煩悩に苦しんでいるわけです。

 そこで我々も大本の生命の現われだとしたら、我々自身が本来仏であり、命であり、光であり、慈悲であります。そのような仏性が備わっているということです。

 この居士が成長して第三祖僧になりました。
 

 

 三、三祖僧璨と四祖道信


http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/143sanso-daisi.html(服部健治のウェブサイト)

から引用します。

「隋の西暦五九二年、道信(どうしん 五八〇年 六五一年という十四歳の沙弥がやって来て、三祖を礼拝して言った。
「願わくば和尚、慈悲をもって解脱(げだつ)の法門を授けたまえ」
「誰が汝を縛っているのか」
「人の縛(ばく)するなし」
「さらに何ぞ解脱を求む」
道信は言下に大悟した。

 つまり心は何にも束縛されていない自由な存在だというのです。ですから今更解脱することはない、心のままに生きることが仏なのですから。つまり禅宗では人間は素のままでは自由な主体性であり、仏であるということです。煩悩や罪業でそれが見えなくなっている、本来の自分に戻ればいいということですね。その意味では即身成仏が可能だとした密教と共通しているということができます。 

http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/index.htm(瑞雲院法話のサイトより)

「四祖大師が、ある日、黄梅(おうばい)県に行くと、道で一人の子供に逢った。その骨相はすこぶる秀でており、並みの子供ではなかった。四祖が質問した。
「汝は何という姓かな」
「性はすなわち有るも、これ常の性にあらず」
「これ何の姓ぞ」
「これ仏性(ぶっしょう)なり」
「汝に姓はないのか」
「姓は空なるが故に」

四祖は沈黙してしばらく見つめていたが、その子供が法の器であることを知り、侍者をその家に行かせて、父母に出家させるように頼んだ。

父母は出家するべき子供だと分かっていたので、反対することなく弟子にさせた。大師はその子供を弘忍(ぐにん)と名づけ、達磨大師から伝わった衣法(えほう)を伝授した。」 

この弘忍(六〇二 六七五が五祖になるのですが、弘忍になると初めから覚っていたような感じになりますね。道信は西暦六二四年より双峰山(そうほうざん)に住みました。するとこの山に五百人の修行者が集まってきたのです。当時の禅宗の勢いが分りますね。

道信は、弘忍を弟子にしたのですが、何しろまだ子供なので、両親が手離したがらないのです。そこで道信の方が湖北省黄梅県に移り住みまして、弘忍は昼は両親の農業を手伝いながら夜は道信の教えを受けたということです。見込みが有りそうだったら、師の方から出向いて教えたということですね。まあ当時は農作業をしながら禅を学ぶということで、禅で収入を得ていたわけではないのでしょう。

教育の原点がここにもありますね。才能を発見したら教師の方が出向いて教育する、必要ならお金を出してでも教育すべきなのです。学校教育というのは本来そういうものであるべきです。学ぶということは大変な仕事なのですから、一所懸命に勉強しているのに、勉学報酬をもらえないばかりか、授業料を取られて当たり前になっています。これは教育が教育を受ける側の自己投資になっているからですね。これでは家計の負担になって貧富の格差が教育水準の差になり、貧困を再生産することになりかねません。

国際人権規約には高等教育は無償化すべきであると定められているのですが、日本はこの部分は批准していないのです。社会全体、人類全体の文化水準の維持向上のための投資と考えれば、そのコストは社会全体が支払うべきですし、生産力の基礎になる労働力の質を形成する労働と捉えれば勉学に報酬が支払われて当然なのです。 

 

 四、五祖弘忍と六祖慧能


 

ともかく師と弟子の出会いがどれもドラマティックで、しかも禅の本質を象徴的に表現しています。五祖弘忍と六祖慧能の場合も大変面白く伝えられています。では梅原猛の名著『仏教の思想上』(角川文庫)の「第三章 絶対自由の哲学」を素材にして、禅における絶対自由の立場を考察することにしましょう。

まず禅の六祖慧能(六三八年〜七一三年)の『六祖壇経』からです。五祖弘忍に入門した時の話です。弘忍は慧能に「この山に来て私を礼拝しているが、お前は、今私の所に来て、何を求めているんだ」と聞きました。慧能の答えはこうです。「私は嶺南の出身で、新州の百姓です。今わざわざ遠くから来て和尚を礼拝しています。余計な物は要りません。ただ仏になる方法を求めています。」と慧能は応答しました。

慧能は、見るからに田舎者で、背も低く醜男で、いかにも風采が上がらず、それに全く教養がなかったということです。

それでつい大師はとうとう慧能を責めてこう言いました。
「お前は嶺南の出身だろう。それなら野蛮人だ、どうして仏になることができようか。」

そこで慧能はこう言い返しました。
「人には出身地に南北はありますが、仏性には南北なんてありません。どうせ野蛮人ということでは和尚とは違うでしょうが、仏性には何の差別がありましょうか。」

これは仏教の絶対平等思想の一つの例ですが、何ものにもとらわれない絶対自由論との関連で捉えてください。

仏性にとって家柄や身分は全く関係ないのです。ましてや出身地だとか、体格だとか、風貌だとか、そんなことはどうでもいいわけです。素のままの人間が仏性をもっているわけですから。

人間を評価する外的なあるいは外見的なものに囚われて、仏になろうとする自由を否定してはならないのです。そういう外面的なものに囚われているから、仏に成れないのです。だって仏は法身仏としてはコスモス全体であり、素のままの人間がそのまま仏であるという本性を持っているのですから。

仏教の根本にある「無我の真理」とは、諸々の事象には不変の本性は存在しないということですね。だから、「一切衆生悉有仏性」という発想自体が、仏教に反しているのではないかという疑問を抱かれる方はいませんか。最近そういう仏教の原点に帰って、大乗仏教を根底的に批判する「批判仏教」の立場を打ち出して活躍しているのが、袴谷憲昭や松本史朗です。

でも「仏性」というのは「諸法無我(諸々の法の現れとしての事物には恒常不変な本性は存在しない)」という真理を宿しているということなのです。ですから「一切衆生悉有仏性」とは諸物には恒常不変の実体は存在しないということに他ならないわけです。そしてそのことを自覚して狭い身体や個物としての自己への執着から解き放たれた自由な存在だということです。西田幾多郎はこれを「絶対自由意志」と捉えました。

ですから仏性を恒常不変の実体である我(アートマン)と同一視しているわけではないのです。だから「批判仏教」派の本覚思想批判は、初歩的な的外れといえるでしょう。

弘忍が禅の法を慧能に伝授する話があります。神秀という高弟がいました。彼は背が高くて、ハンサムで気品があり、教養も深かったのです。それで師の弘忍からも将来を嘱望され、頼りにされていました。彼は次のような偈を作りました。しかし弘忍はこれには免許皆伝は出さなかったのです。 

「身は菩提樹で、心は明鏡の台(うてな)ようだ。ときどき拭き払って、塵やゴミがつかないように勤めなさい。」 

 これに対する五祖弘忍の批評はこうです。 

「門の前まで来ているが、まだ入れてもらえないな。凡夫がこの偈によって修行すれば、堕落することはない。けれどこの考えでもし無上の菩提(悟りの境地)を求めるのなら、まだ得ることはできない。」 

慧能はこの話を聞いて作ったのが次の偈です。次の偈を五祖は門人の前では「まださとりを開いていない」と言いながら、夜中に慧能を呼んで、法を授け、袈裟を与えて、ひそかに逃がしたのです。とても他の門人たちには納得されないと思ったのでしょう。

「菩提本と樹無し、明鏡また台無し。仏性常に清浄、何処にか塵埃有らん」(敦煌本)「菩提本と樹無し、明鏡また台に非ず。本来無一物、何処にか塵埃を惹かん」(興福寺本)
 

神秀の偈は「一切衆生悉有仏性(一切の生きとし生けるものはことごとく仏であるという本性を持っている)」という大乗仏教の大前提に立って、身は菩提樹のように清らかで、心も明鏡の台のように清浄だから、欲望などに囚われて仏性を見失わないように、常に身も心も磨いておかなければならないという趣旨です。

「明鏡の台」というのは、心が鏡を置く台のようだというのではなくて、心が澄んだよく写る鏡になっている台のようだという意味でしょう。

これに対して慧能の偈は、どちらの版を採るべきか問題があります。梅原は敦煌本を採りますが、両者を補完的捉えて解釈してみましょう。

悟りの境地にある身に樹は無いし、悟りに達した心に台など無い、仏性というのはいつも清浄であって、本来何も持っていない、だからどこにも塵埃はついていない。だってそれは樹や台のように対象的に捉えられる事物ではないのだから、塵埃はつきようがないじゃないかと批判したのです。

つまり仏性を事物のように捉えて、菩提樹や明鏡の台としてしまうと、絶対自由意志の働きとして捉えられないということなのです。たしかに働きとしての絶対自由意志は、究極的には何物にも囚われないで、行為を決定するのです。

  五、 身外に向かって求めることなかれ


 

梅原は慧能の思想を「我が法門は、無念を立てて宗となし、無相を体となし、無住を本となす。」という言葉にまとめています。梅原の表現では

無念とは、「過去の思い出、現在の知覚、未来の期待や不安をすてよ。すべての心をすてて無心になるとき、われわれは、はじめてとらわれから自由になる」ということです。

また無住とは「地位や、名誉や、女の中に、一切の存在するものの中に、心よ、住むなかれ」ということです。

そして無相とは「うまさや、きれいさや、醜さや、にくさにとらわれるとき、わが心は煩悩によって染められる。そのような相のとらわれから離れるとき、わが心は汚れのない清い心になる」ということなのです。

世界が法の現れで、それが意識経験として展開するのなら、様々な思いや姿や物こそが法の現れとして仏である筈ですね。言い換えれば「煩悩即菩提」、煩悩がそのまま覚りだということになるはずです。ところが慧能は無念・無住・無相こそが解脱の方法だと説いているのです。どうも矛盾しますね。

それは凡夫は、大いなる生命としての一般者の意識経験の流れを、素直に自己自身の意識として受け入れることができないからなのです。個々の思いや姿に固着し、それへの執着から離れられないで、それらの奴隷になってしまい、煩悩に苦しめられるからです。

思いに囚われるなということは、決して思いを抱くなということではありません。そして物に住むなということは、決して思い入れをしてはならないということではないのです。思い入れに固着してしまってはならないということなのです。

法身仏は自己を一般者の意識経験の総体として捉えていますが、個々の意識経験を諸行無常・諸法無我(すべての事象は変化し、法の現れとしてすべての物には滅びない実体はない)という形で否定しながら展開するわけです。そしてこの否定的な自己展開こそ自己の姿なのだとして肯定的に受け止めたときに、涅槃寂静(欲望が吹き消された心静かな境地)に到達できるのです。

確かに意識経験としては、念や相や物が自己の現れなんですが、同時にそれらの有の意識の底にそれらの意識を生み出しつつ、それらを自己と区別し、否定的に発展させている有の意識を映し出す容器や鏡として絶対自由意志があると西田は捉えます。慧能もおそらくそう捉えていると思います。

慧能に言わせれば、自己の意識が一般者(普遍的な存在)である仏の意識の現れでもあるという前提があって、衆生が仏性を持つということができるわけですから、この娑婆も含めて地獄も浄土もすべて自己の意識の有り様に過ぎないことになります。『六祖壇経』三五にこうあります。 

「仏是れ自性の作なり、身外に向かって求めることなかれ、自性迷えば仏即ち衆生、自性悟れば衆生すなわち是れ仏、慈悲もすなわち是れ観音、喜捨名づけて勢至となす。能く浄なれば是釈迦、平直なれば是れ弥勒、人我是れ須弥、邪心是れ大海、煩悩是れ波浪、毒心是れ悪龍、塵労是れ魚鼈、虚妄是れ神鬼、三毒是れ地獄、愚痴是れ畜生、十善是れ天堂」 

仏が自性の作だということは、どのような心模様になり、どのような仏や菩薩あるいは鬼になろうが、地獄の境地に生きるのも浄土に安らぐのも、結局、自己の絶対自由意志に基づいていることになるのです。

何か外的な強制力によって地獄の苦しみを味わっているように受け止めている人も、その外的な強制力自体が彼自身の意識に過ぎないのですから。家族は大切だとか、夫婦は絶対だとかいう思い入れがありますね。俺はこの仕事しか出来ないとかもそうです。それはそういうように考えていれば、現在の生活を続けていくのに都合がいいし、張り合いが持てると思い込んでいるからです。

いつ何時、三行半が突きつけられるか分りませんし、突然一家の大黒柱から、「父さん、倒産、家族は解散!」と宣言されないとも限りませんね、『ホームレス中学生』みたいに。

どんなしがらみや重圧だって、主観的な思い入れを捨てればそこから解放されることができる筈なのです。家だって捨てられるし、地位や名誉や財産や恋も、どんな思いだって捨てられないものはないのですから、自分が現在生きている姿は、そのまま絶対自由意志の選択なのです。そう思えない人は、本来の自己を見失っているということです。

 六、汝若し坐仏せば、即是殺仏なり


 

この節はすべて曹洞宗長泉禅寺のサイトより引用させていただきます。

http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/sikantaza.htm 

禅の何たるかがわかりやすい(本当は難しい)話があります。

南嶽懐譲(なんがくえじょう)と馬祖道一(ばそどういち七〇九年〜七八八年)の話です。南嶽懐譲は青原と共に六祖慧能の弟子で、馬祖道一は南嶽の弟子です。ある日、馬祖が坐禅をしていました。そこに師の南嶽がやって来て、弟子に質問します。 

南嶽懐譲「大徳、日頃坐禅をしているが、什麼を図っているか」
(意味―おまえは何のために坐禅をしているのか?)

馬祖「作仏を図る」
「仏になるために坐禅をしています」と馬祖が答えました。

ところで禅僧の問答とは、たんなる質問ではなしに、厳しい法問であります。それがわかっていないと、とんでもない目にあいます。ところで、師匠が弟子に対して「大徳」というのは一般的にはおかしいのですが、ここでは「悟りを得た者が、更に重ねて何を求めようとするのか」というようでもあります。

師の南嶽は、そこで、かたわらに落ちていた一枚の瓦を拾って、黙って石の上で磨きはじめた。それを見て、馬祖が問います。

馬祖「師 麼を作す」
(意味―禅師、何をしておられるのですか?)
南嶽懐譲「磨して鏡となす」
(意味瓦を磨いて鏡にするのだ)
馬祖「瓦を磨いてどうして鏡と成すことができよう」
(意味―それは無理でしょう。瓦を磨いても、鏡になる道理はありません)
南嶽懐譲「坐禅がどうして作仏することができようか」
(意味―それがわかっていながら、どうして汝は坐禅をして仏になろうとするんだい)
馬祖「如何にせば即ち是ならん」
(意味―それではどのようにしたらいいのでしょうか)
南嶽懐譲「人の車に駕(の)るようなもので、車がはしらぬ時、車を打つが是か、牛を打つが是か」
(意味―牛車が動かぬ時は、車をたたくべきか、牛をたたくべきかはっきりしているだろう)
馬祖が答えなかったので、再び曰わく
南嶽懐譲「汝が坐禅を学ぶのは、為れ学坐仏することである。若し坐仏を学ぶようなことがあれば、仏には定相はない。汝若し坐仏せば、即是殺仏なり。若し坐相に執せば、その理に達せず。」
(意味―仏になるのではない。汝は是れ仏なのであり即心即仏なのだ。坐禅と仏と二つにしないことだ。つまり坐禅は、仏を忘れ、自己を忘れ、二見を離れるものであることをに気付かなければならならない。瓦と鏡が別物であれば、いくら瓦を磨いても鏡にはならない。それと同じで、凡夫と仏が別物であれば、凡夫を坐禅によって磨いても仏にはならないということであります。)

やすいゆたかのコメント

このお話は曹洞宗の道元禅師の『正法眼蔵』の「只管打坐」「修証一等」に通じるものが有りますね。そのつもりで書かれているのでしょう。
 

 仏にあえば仏を殺し、祖にあえば祖を殺せ―普化と臨済


 

日本の臨済宗の開祖は栄西ですが、栄西は宋に留学して臨済宗を学んできたわけです。ですから栄西は臨済宗の紹介者、輸入者であって、本当の開祖ではないのです。唐末に活躍した臨済義玄(?〜八六六年)こそ『臨済録』を遺した臨済宗の開祖なのです。梅原はまず臨済を語るに当たって、いつも彼の傍らにいてカラカラ笑っていた狂僧普化との関わりを紹介しています。カラカラ笑っていると思えば、踊りだしたり、大声で泣きわめいたり、まったく気分が定まらないのです。

普化と共に施主の家へ食事に行く途中、臨済はこう問いかけました。
「一本の毛が大海を呑み、一粒の芥子が須弥山を納めるとは、不思議な神通力か、それとも当たり前のことか?」

この問いで頭が一杯だったからでしょうか、普化はいきなり食卓を蹴っ飛ばしてしまったのです。この問いは春秋戦国時代からの問いでして、「万物一馬(万物が一頭の馬の中に含まれている)」論と呼ばれていました。もっと極端に言えば「毛の先に天地がある」ということです。物事の大小の差別を相対化した老荘思想では「万物斉同(万物は皆等しくて同じようなものである)」論の一種としてよく言われることだったのです。

この難問を抱えたまま、呑気にいつものように食事などしていられません。日常性を保ったまま、この難問を解ける筈はないわけです。普化にすれば食卓を蹴っ飛ばして当然なんです。でも臨済にすれば施主に対する配慮もあり、「荒っぽい」といって注意するしかありません。しかし普化にすれば仏法に荒っぽいも、細かいもないのです。だってこんな凄い難問が解けたら、たとえそのせいで衰弱して死んだとしても、本望かもしれませんね。仏法はそれだけ命懸けでするものなのです。

普化は町の中で鈴を鳴らして叫んでいました。
「賢い頭が来れば、賢い頭を打ち、愚かな頭が来れば愚かな頭を打つ。四方八面が来れば、旋風のように打ち、虚空(大きな空)がくれば、脱穀棒で打ってやる。」

普化はすべての世俗的な日常性を否定し、自分にとって外的な物からの制約を全て拒絶してしまったのです。この精神は臨済にも強い影響を与えました。 

「道流よ、お前は法を理解したいと欲するなら、ただ人惑(他人に自由を妨げられるコト)を受けてはならない。裏に向かったり、外に向かっていって人惑に逢えば、そしたら殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺せ。羅漢に逢えば羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱をすることが出来る。物と拘わらず、透脱自在である。」 

念の為に言っておきますが、これは決して悟りの邪魔になるものは誰でも殺してよいという、宗教絶対主義の教え、宗派の為の殺人肯定の教えではありません。人間は様々な人々や環境の影響を受けて育ちますから、自分が接し、影響を受けた人や教えにより、いろんな固定観念が固着してしまっています。でも本当の仏法の理解の為には、外からきたものに頼ってはいけないんです。完全に内発的で自由な展開でないと悟りには到達できません。精神分析学では精神的自立の為には「精神的親殺し」が必要だと言いますね、あの親殺しと共通しています。

もちろん真理を何の教養もなしに、ただ内発的にだけ展開できるわけはありません。偉大な知の先駆者の業績から深く学びとる必要はあります。ただ闇雲に否定すればよいのではないのです。しかし先駆者の業績、師の考えに縛られていれば、自由な理論展開ができなくなってしまうのです。そうすると創造的な理論活動は枯渇してしまいます。真に自由な主体による、つまり自らに由る理論展開に徹しなければならないのです。それは世界を自己自身として意識する自覚であり、絶対自由意志なのです。

ところでこの超難問は解けましたか?大海も須弥山も仏である我々の意識の現われだとしたら、それは心に納まっていますし、即心即仏だとすれば、毛も芥子も即心即仏ですから、大海も須弥山もそこに含まれているという意味かもしれませんね。