中国思想史講座

                   中国仏教思想
 

.浄土教の展開
やすい ゆたか

 一、法華経と浄土三部経


 

 「南無妙法蓮華経」と法華経のお題目を唱える信仰と、「南無阿弥陀仏」を唱える信仰は、二者択一ようにみられていますね。「南無〜」といいますと、「すべて〜にお任せ」みたいになりますから、両方並び立たない発想になってしまいます。しかし元々はお経はどれも釈尊の話を弟子が書いたということになっていますので、両方が並び立つように解釈すべきなのかもしれません。

法華経と浄土三部経(『阿弥陀経』、『無量寿経』『観無量寿経』)はどちらが早く成立したのかというのはどうもはっきりしていないようで、釈尊が法華経を説かれていた時期に阿弥陀仏についても触れられたということになっているようです。実際は両方とも釈尊の入滅後の大乗仏教運動の中で新たに展開された信仰なのです。つまり釈尊は「久遠の本仏」についても一切衆生を救いとる「阿弥陀仏」についても語っていなかったのです。それにしても両者の成立はどちらが先かはどうも言えないようですね。

 天台智の五時八教説の「五時」には浄土三部経はでてこないのです。ただ両者が同時期に説かれたと解釈する根拠はあります。王舎城の悲劇つまり阿闍世王物語は『観無量寿経』や『大般涅槃経』に出てきます。その他『阿闍世王経』などの阿闍世王物語に絞ったお経もあります。ジャイナ教の経典も王舎城の悲劇について触れていますから、史実であったのは間違いないでしょう。

その際、罪に目覚めた阿闍世王は釈尊に救いを求めますが、釈尊は自身の入滅を延期してまで阿闍世王を救おうとされたとありますので、釈尊晩年の出来事だということになります。『観無量寿経』によれば、阿闍世王は父王を幽閉して餓死させようとしていたのを、母韋提希夫人が自分の体に蜜を塗って生き延びさせようとしていたことが発覚して、母まで幽閉されたのです。そこに釈尊が現れ、韋提希夫人に西方浄土にいる阿弥陀如来とその浄土を観想する方法を教え、韋提希夫人を往生させたということです。

つまり結局母も殺してしまったということでしょうね。そういう形で阿弥陀信仰が出てきます。ちょうどこの晩年の時期に『法華経』が説かれていたことになっていたので、釈尊は『法華経』の講義を中断して浄土教信仰を説いたと解釈する人もいたようなのです。

でも『法華経』も『浄土三部経』も釈尊在世時代の教えではないとしたら、阿闍世王伝説も元々はもっと違った形だったことになります。つまり原型は、罪業に苦しむ阿闍世王に、そういう罪で苦しむ煩悩も含めて無我の真理を知ることで、小さな我から離れることができるというような悟りだったということでしょうね。

 二、慧遠「白蓮社」の般舟三昧


 

鳩摩羅什は、梅原猛の解釈によりますと、本当は自分の著作なのだけれど龍樹の著作だということにして、『大智度論』と『十住毘婆沙論』を書いたのではないか言われます。その理由として彼がクチャでも長安でも不邪淫戒を犯しているからです。そういう破戒僧の著作では説得力がないと思って、龍樹の著作ということで書いたわけです。

大乗経典はどれも釈尊の著作ではないのに、釈尊の話を弟子が記録した形式になっています。つまり経典の作者は、自分は悟って仏陀になったと思い、釈尊と自己を同一視しているのですが、同時に矛盾しますが、とても仏陀に成ったという自信がないので、釈尊が語られたという形式を踏襲しているということです。後者の場合は、覚り切れないで煩悩が残っているわけですから、釈尊や仮想の阿弥陀仏に救いを委ねたい気持ちがあるわけですね。

さて中国における阿弥陀信仰の起源は「白蓮社」だと言われます。402年(元興元年)、釈道安の元で出家した慧遠(えおん334 - 416)は、同志123名とともに、廬山山中・般若台の阿弥陀仏像の前で、念仏実践の誓願を立てたのです。彼らの念仏というのは、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の御名を唱える称名念仏ではないのです。

初期大乗仏典といわれる『般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)』に基づいて、瞑想によって阿弥陀仏を観るということです。釈尊が入滅され、弥勒菩薩は兜率天におられて、仏陀になられて娑婆に降りられるのは十数億年後ということですから、我々は生きた仏陀に見えることはできないわけですね。なんとか仏陀に見える方法はないかというので考案されたのが、「目の前に現れる」という意味の「プラティウトパンナ」というサンスクリット語で、「般舟」と漢訳されたのです。

観想で現れた阿弥陀仏は、単なるイメージにすぎないとも言えますが、事物も実体はなく、大いなる生命である仏の意識の現われに過ぎないならば、究極的には事物と観念の区別を超越することができるというのが、唯識論でしたね。ですから「白蓮社」の人々は瞑想で阿弥陀仏を体験して、その迫真性を互いに競い合い、褒め合って、互いに信仰を深め合っていたのでしょう。

もちろん慧遠も瞑想で観る阿弥陀仏と、夢で見る阿弥陀仏が同じようなものなので、それじゃあ単なる想像上のものに過ぎないのではないかと疑問をもっていました。それで鳩摩羅什に質問しています。

鳩摩羅什は、竜樹たち中観派の「空の哲学」ですから一切皆空でしたね。御仏の姿を何かこれが仏陀だという本物の仏陀像があるわけではないという考えです。ですから阿弥陀仏を観想するといっても、見えるのは自分自身の心の状態でしかないわけでして、その意味で見える阿弥陀仏は夢幻のようなものだといいます。鳩摩羅什によれば、夢幻の阿弥陀仏を通して本当に見なければならないのは、「空」なのだということですね。

 三、不老長寿を求めた曇鸞


 

曇鸞(476年〜542)はナーガールジュナ(龍樹)系の空の思想を学んでいました。なかなかむつかしくて、いくら寿命があっても足りないので、ひとまず仏道修行は中断して、道教の道士から不老長寿の方法を学ぼうと考えたのです。茅山の陶弘景という道士から学び『仙経』を手に入れました。帰る途中で菩提流支に出会い、「少々長生きして何になる。すみやかに生死解脱の真の長生不死の法を求めよ。限りない生命を得る真の不死の書はこれだ」と仏教にこそ不老不死の教えがあると諭され、『観無量壽経』を授けられたのです。

そういえば「無量壽」というのはなかなか死なないということですからね。阿弥陀如来や薬師如来は修行の結果、仏陀になって不死になった仏です。ですから成仏というのは不死になるということも意味していたわけです。

ところで阿弥陀仏は梵語で「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して無量寿仏・無量光仏と言います。両方の意味があるのです。

人間は欲望があって、欲望を充足させることで生きています。そのために様々な煩悩を抱えているのです。それがカルマ()となって生死を繰り返すのです。ところが仏教では欲望へのこだわりを捨てますから、生死を超越して無量の生命を得ることができると言う教義です。

それで曇鸞は『仙経』を焼き捨ててしまい、浄土教にはまったのです。彼の代表作は『無量寿経優婆提舎願生偈註』で、略して『浄土論註』、『往生論註』と呼びます。これは世親の『浄土論』の注釈書なのです。

末法無仏の時代には、他力の信心による浄土往生による成仏以外にないと説いたものです。曇鸞によれば極楽浄土は阿弥陀仏の願いによってできたもので、それで阿弥陀仏を信仰すれば、阿弥陀仏の浄土に救いとられるということです。要するに阿弥陀仏の願いに衆生の意識が吸収されるということでしょうね。

 

 四、往相回向と還相回向

 


 

 『浄土論註』には「二種回向」があります。「回向に二種の相有り、一つには往相、二つには還相なり。「往相」とは己が功徳を以て一切衆生に回施したまひて、作願して共に彼の阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり。「還相とは、彼の土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向はしめたまふなり、若しは往、若は還、皆衆生を抜きて生死海を渡せんが為にしたまへり」

親鸞は『教行信証』で「二種回向」説こそ浄土真宗の中心教義だとしています。浄土に迎えるのを往相回向と呼び、浄土から穢土に戻して衆生を救済させるのを還相回向というのです。

近代の日本の浄土真宗ではあまり二種回向は注目されていませんでした。親鸞の弟子唯円の『歎異抄』にある悪人正機説が強調されたのです。「善人なおもて往生を遂く、いはんや悪人においておや」という名文句がありますね。しかしこれは法然の教えで、それを親鸞が唯円に伝えたものなのです。

この悪人正機説の陰に隠れて肝心の「二種回向」説が見失われていたと梅原猛先生はぼやいておられます。親鸞は「二種回向」説が浄土真宗の中心だと言ってるのにということですね。つまり梅原先生は極楽浄土にいくだけでなく、またこの娑婆に戻ってきて、自分の孫や曾孫になって生まれ変わるというようなこの世とあの世の往還をイメージされているのです。

日本人の生死観で、死んだらあの世にいってそしてしばらくしたらこの世に舞い戻るという往還思想が縄文時代からあって、それがアイヌのイオマンテにも名残をとどめているというのです。それで曇鸞の二種回向の教説が浸透し易かったのではという解釈ですね。

ところが現在の浄土真宗では二種回向を死んで極楽にいって、浄土で修行してこの世に戻ってくるという生まれ変わり、死に変わるサンサーラ(輪廻)思想とは受け止めていないようです。

私は本願寺に電話しまして、直接「二種回向」についての現在の真宗の考えを確かめました。するとおよそ次のような説明をされたのです。

「阿弥陀仏の西方浄土というのは、阿弥陀仏の一切衆生を救済したいとという願いが形成している意識でして、我々の南無阿弥陀仏と称えることで、その意識に包摂されるのが阿弥陀浄土なのです。それが往相回向ですね。

還相回向は阿弥陀仏からいただいた慈悲の心で、隣人に接していくということです。それが阿弥陀仏の回向なのは、広大無辺の弥陀の慈悲に包まれてできることなので、両方とも阿弥陀仏の回向だということです。」

つまり死んで極楽浄土に行き、そこで生まれて、いずれこの世にまた生まれるというようには捉えていないということですね。では梅原先生の場合に本当に死んだら極楽に生まれて、そしていずれまたこの世に戻ってくると考えているのかということですが、それはある程度信仰としてあるでしょうね。彼の場合二十歳で死んだ生母をあの世から取り戻したいという潜在的な願望が強いので、それで二種回向説に強く惹かれているのですから。

逆に本物の浄土真宗の僧侶たちが極楽も娑婆も地獄もみんな生きている我々の意識のありようだと思っていて、浄土から戻ってくる還相回向も、阿弥陀仏の慈悲に包まれている我々の意識が阿弥陀仏の慈悲を体現してそれを周囲の人々や世の中に返していくことだと説教しているのです。

また生死論とすれば死後もその人の仕事や精神は生きていて、後の世にまで人々の心を救うことも有りますから、それが還相回向だと説明するのです。それだったら別に唯物論者でも言うことですから、僧侶にそんなことは言われたくないような気もしますね。しかし浄土教が竜樹や世親という中観派の空の思想と唯識論を前提にしているとすれば、阿弥陀仏や阿弥陀浄土を実体的に存在するかに考えるのは的外れかもしれません。                       
 

  五、他利利他の深義


 

 「自利利他」という言葉があります。通俗的に言えば、自分を利すことが同時に他人を利することにもなるようにすればいいということです。自己中心主義になって自分さえよければということでは、他人の利益を害することになり、結局みんなから排除されてしまうことにもなりかねません。

 曇鸞は「の深義」ということを言います。この解釈が大変難しいようです。一般論ではなくて仏に成る、成仏に関して「利」の意味を考えますと、「自利」というのは自分が仏に成ること、「利他」というのは他者を仏にすることだということらしいです。ですから「自利利他」というのは自分が仏になるということは、他人を仏にするということなのだと解釈できます。

 そう考えますと「他利利他」は他者を仏になり、他者を仏にするということですね。大乗仏教でしかも他力本願の浄土教ですから、凡夫が人を仏にしたり、凡夫が仏に自分で成ったりできません。「他 利利他」はですから、如来の力で仏に成ることを意味するのです。

 しかしなんでも阿弥陀仏の力ばかり強調していて済むわけではありません。我々衆生が自分が仏に成りたいと思いますと、阿弥陀仏の慈悲にすがるのですが、そのことによって仏の慈悲と一体になって、人に接するので、他者も仏にするように仏の力で動くことになるわけで、これが「自利利他」です。

 また還相回向で菩薩になって人々に接する時に、他者を仏にし、他者が仏に成るということがありますが、これが「他利利他」ですね。しかしそれは阿弥陀如来の本願力の現われなのです。その意味でそれは菩薩の回向ですが同時に阿弥陀如来の回向でもあるわけです。

 また法蔵菩薩が阿弥陀如来に成るという「弥陀の本願」の問題としても捉えられます。法蔵菩薩は、自分が如来になっても一切衆生を救済できないような如来になるぐらいなら、決して如来になりませんと、願をかけまして、修行した結果見事に成仏されて阿弥陀如来になったということなのです。ということは阿弥陀如来は如来に成った以上、本願が叶って、一切衆生を阿弥陀浄土に救いとることができるわけです。

 つまり法蔵菩薩が阿弥陀如来に成ってしまえば、すべての衆生を極楽往生させられるはずであるということです。そうしますと「自利」はすぐにでも一切衆生を成仏させられる「利他」でもあるということですね。しかしはるか昔に法蔵菩薩は阿弥陀如来になったはずなのです。だから阿弥陀如来がおわしますのに、世は末法でこの世は闇に閉ざされているというのは矛盾しているのです。ということは法蔵菩薩が阿弥陀如来に成るということは、実は過去の問題ではなくて、常に現在の我々の意識の問題なのだと言うことです。

 「他利利他」は法蔵菩薩が阿弥陀如来になり、そのことで他者を仏にするということなのです。しかもそれは法蔵菩薩や阿弥陀如来の慈悲は、我々に慈悲の心を生じさせ、慈悲に基づく行いをさせると言う形で、我々の還相回向として現れるのです。ですから我々が慈悲に生きることができるなら、それは法蔵菩薩の還相回向のおかげであったり、既に阿弥陀如来がおられて、その無量の慈悲の光のおかげなのかもしれないということですね。我々の実践の問題として捉え返しているという意味で「他 利利他の深義」というのだという解釈もできるでしょう。

 六、末法における信仰としての易行道


 

 教祖釈尊の入滅をどう受け止めたらいいのかということは、大問題で、それで「久遠の本仏」だとか、「仏陀の三身」だとかが説かれていたのです。釈尊がいなくなってしまうと、それ以上の人はなかなか現れないので、世の中はどんどん悪くなるという末法史観が説かれます。

その代表的なものが『大集月蔵経』の正法・像法・末法説です。釈迦が死んで500年間は教えも行も覚りもできる正法の時代です。その後、教えも伝わり、修行もできるけれど、覚りまではできないのが像法の時代で、これが1000年続きます。そして釈迦入滅後1500年で末法になります。教は残っていますが、修行をやり遂げる人もなく、もちろん覚りに達することは不可能だということです。551年(一説には 611年)に末法に入ったとされていたのです。日本では正法も1000年説をとったので、1052年が末法元年ということになったのです。

 当時戦乱が続き、557558年には蝗の害が起こりました。そして北周の武帝は574年に廃仏令を出しまして、仏教を弾圧したのです。それで世も末だということで、末法到来説が浸透したようです。「月蔵経」を「釈迦の大予言」という人がいますが、こんなことが書いてあります。

「末法時代に入ると太陽も月もその光が見られなくなり、星の位置が変わってくる。白い虹が太陽を貫くような不吉な前兆があると大地は振動し、水は枯渇し、時ならぬ暴風雨が起こる。農作物が完全に実らなくなり、水たまりがあると思うと日照りが続いて土地がひびれてしまう。餓死するものが後を絶たず、政治家は為すすべを知らない。父母と子とが争い、人民は司政者と対立する。ようやく手に入れた食物も毒を含むようで美味しくない。悪質な病気次々に流行し、町全体が焼け跡となってしまう。人間と人間が殺し合うようになるとその隙に外国が攻めてくる。寺は破壊され、僧侶は殺害される。」  

 像法や末法の時代には悟りは無理なのですから、「月蔵経」が像法の時期に入ってから出来たものなら、本物のお経とはいえないことになり、末法説も信用がなくなりますね。よく調べてみないとね。

「月蔵経」が正しいとすれば、自力で覚りを開くことも、修行をやり遂げることも出来ないわけですから、阿弥陀仏の力で阿弥陀浄土に往生(往きて生まれる)してから、そこで菩薩になって修行して覚りに達するという方法しかないということです。

 ですから生きている間はただひたすら阿弥陀浄土に往生させてもらえるように阿弥陀仏にお願いし、一日も早くこの恐ろしい末法の世界から救いとってもらうのが一番だということになりますね。曇鸞大師が「仙経」を焼き捨てて浄土教に没入したことが書いてある碑文を読んで、すでに48歳だった道綽(562645)も浄土教に転身したのです。これも曇鸞の還相回向ですね。

 「其レ聖道ノ一種ハ、今ノ時證シ難シ。一ニハ大聖ヲ去ルコト遥遠(ようえん)ナルニ由()ル。二ニハ理深ク解微ナルニ由ル。是ノ故ニ大集月蔵経ニ云ク、我ガ末法ノ時ノ中ノ億々ノ衆生、行ヲ起シ道ヲ修ムルコト未ダ一人トシテ得ル者ナシ。

 又、当今ハ末法ナリ、現ニ是レ五濁悪世ナリ。唯浄土ノ一門ノミ通入ス可()キ路有リ。是ノ故ニ大経ニ云ハク、若シ衆生有リテ縦令ヒ一生悪ヲ造ルトモ、命終ノ時ニ臨ンデ、十念相続シテ我ガ名字ヲ称エンニ、若シ生ゼズンバ、正覚ヲ取ラズ。」(『安楽集』)

 
この道綽の嘆きはよく分りますね。聖道というのは自力の修行で覚りを開いて成仏する道です。それは末法の悪い時代では無理だというのです。その理由は釈尊が入滅されてからはるかな時が流れてしまって、釈尊の語られた内容の真意が分りにくくなっているからです。それにあまりに理屈が深すぎてほとんど分らないことにもよります。たしかに解釈すればするほど理論が高度化します。唯識論のような高度な理論は極めて難解です。だから末法では、修行をやり遂げられる人は一人もいないのです。

 またの時代は既に末法なので、阿弥陀如来の本願にすがって、阿弥陀浄土に往生することだけが、唯一救われる道なのです。そのことを「末法相応の法」といいます。それで『無量壽(阿弥陀)経』に書かれていますように、もし我々衆生が一生悪いことばかりしていても、臨終に際して、十篇「南無阿弥陀仏」と称えるならば、必ず阿弥陀浄土に往生させてもらえるのです。それができないくらいなら、覚りを得て如来になんかならないぞと、法蔵菩薩は誓願されたのですから。

 七、三信・三不信


 

 僧侶たちは、乱世で苦しんでいる衆生を救わなければという使命感を持っていましたが、そのために道を窮めようと頑張れば頑張るほど、道は見えてこないものです。私も二十歳くらいから哲学をやっていますが、最近は「無知の知」のソクラテスに一番説得力を感じます。唯識論までいって、真理が掴めたかというとやはり確信はもてなかったのでしょうね。続きは輪廻転生で生まれ変わってからか、阿弥陀浄土にいってからということになります。

それで前者を求めた人は「久遠の本仏」を説いた『法華経』に嵌り、後者を求めた人は『浄土三部経』に嵌ったのです。しかし天台智も曇鸞も世親の唯識論を吸収していましたから、すべては仏の意識の中のことと解釈できるように説いているわけです。ですから、生まれ変わるといっても、必ずしも死んだ人が別の人になって生まれ変わるとはいえませんし、死んでから、何億光年も彼方の阿弥陀浄土の蓮の上に実際に生まれ変わるとは限らないようにも解釈できるということです。

久遠の本仏にしても阿弥陀仏(無量壽仏)にしても、その特性は超長生きということですね。弥勒菩薩も兜率天で何億年も瞑想するのです。つまり真理を掴み取るにはそれぐらいかかると言うことです。だからそれぐらい長生きした仏だったら真理を体得して、一切衆生を救ってくださるに違いないということです。

しかしそういう超人的な仏なんて人間の想像の産物に過ぎないという反発が待っていますね。それは個々の一人一人をばらばらに捉えているからではないでしょうか。大いなる生命というものがあって、個々の個体はその現われと考えますと、生命の共生と循環が見えてきます。個々の意識もバラバラに存在するのではなくて、つながりあって大いなる意識を構成していると考えれば、それが仏の一心ということも言えなくはありません。ただ我々は身近な煩悩に囚われてそのことが見えなくなっているだけなのかもしれませんね。

大いなる生命の大いなる意識を信じ、それがバラバラになってしまっている一人一人の生命や意識を包括していると信じることによって、仏の命や意識と一つになってその中で生きることが、生まれ変わりであり、浄土に往生することだということでしょう。しかしそれは煩悩に覆われてなかなか信じることが出来ないわけです。

そこでそういう存在をひたすら信じ込んで身を任せるということですね。信じようとする行為の中で、煩悩に囚われている我を忘れて、久遠の本仏や阿弥陀仏を呼び寄せてしまうということでしょう。だから阿弥陀仏の名をひたすら呼び続けるということです。あるいは寝食を忘れて阿弥陀仏の浄土や阿弥陀仏を観ようとすれば、イメージが浮かんでくるものらしいです。まあ一種の自己催眠法ですね。

そこで態度としてはひたすら信じ込もうとすることが大切だということです。道綽は『安楽集』の中で「三信・三不信」について語っています。三信とは「淳心・一心・相続心」ということでして、淳心とは信心が深厚であること、一心とは信心が純一であること、相続心とは信心が相続して余念が雜わらないことです。「もしよく相続する。すなわちこれ一心。ただよく一心すなわちこれ淳心。この三心を具して、もし生ぜざる者、ここにあることなし」[安楽集]「生ぜざる者」とは「浄土に往生しない者」という意味です。

「また三種の不相応あり。
一には信心淳からず、存ずるがごとく亡ずるごときゆゑなり。

二には信心一ならず、決定なきがゆへなり。
三には信心相続せず。余念間
[へだつ]るがゆゑなり。転々してあひ成ず。信心あつ淳からざるをもってのゆゑに決定なし。
 決定なきゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信なきがゆゑに心淳からず。」 (七祖篇往生論註一〇三頁〜)

 

八、善導は観想念仏を棄てたか


 


 中国浄土教は三つの流れに分類できるそうです。第一は、廬山流です。白蓮社の「観想の念仏」の伝統です。第二は善導流で、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師の流れで他力の「称名の念仏」が中心になっていきます。そして第三は善導の弟子慈愍〈じみん六八〇―七四八〉流の念仏禅です。念仏と禅の融合です。これは隠元禅師が江戸時代初めに日本に伝えています。黄檗宗です。

このうち、平安時代末期に日本で盛んになったのが、善導流の浄土教だったのです。日本の法然上人(一一三三―一二一二)が、「偏依善導一師〈へんねぜんどういっし〉」(偏〈ひとえ〉に善導一師に依る)と決定しました。

曇鸞大師は、易行としての念仏を勧めたわけですが、念仏には観想念仏と称名念仏がありますから、彼が念仏三昧に入ったというのは、もちろん両方を指しているけです。道綽禅師は日に7万遍名号を称えたとされていますから、「称名念仏」中心だったと思われますが、もちろん観想念仏もされていたはずです。

それでは専修念仏の立場の法然は、観想念仏より称名念仏を選択したわけですから、法然が「偏依善導一師」と言われる以上、善導も称名念仏だけに選択したのでしょうか。そのことでは梅原猛先生は、法然が善導の『観経疏』を誤読しているのではないかと指摘されています。『観経疏』とは『観無量寿経疏』の略です。「疏」はノートみたいないみですから、善導の『観無量寿経』のノートを智恵第一と言われた法然が誤読していたということです。

『観無量寿経』ですからテーマは「無量寿」つまり「阿弥陀仏」を観想する方法です。十六種の観想、日想観・水想観・宝地観・宝樹観・宝池観・宝楼観・華座観・像想観・仏身観・観音観・勢至観・普観・雑想観・上輩観・中輩観・下輩観を修する事によって浄土に往生することを説いています。ですから『観無量寿経』を読んで、どのように阿弥陀仏を観想すればよいのか、ノートをとっているわけです。まさか阿弥陀仏は観想念仏よりも称名念仏を選べと説かれているわけではないのです。称名念仏は観想念仏を行うことがなかなか出来ない人が選択すればよいのです。善導が言いたかったのはそのことです。

梅原猛著『法然の哀しみ』二五四頁〜二五五頁によりますと、「仏、阿難に告げたもう。『汝よ、好くこの語を持て、この語を持てとは、すなわちこれ、無量寿仏の名を持てとなり。』仏、この語を説きたもう時、尊者目犍連・阿難および韋提希ら、仏の所説を聞きて、みな、大いに歓喜す。」(『観無量寿経』「流通分」)という言葉があります。これについて善導は、「『仏告阿難汝好持是語』より下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまうことを明かす。上来、定散両門の益を説きたまうといえども、仏の本願に望むれば、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り。」(『観経疏』「散善義」)と注釈したのです。

 それで法然は、どんでん返しで観想念仏を捨てたように解釈したのです。これに対して、梅原は『観無量寿経』の主題から考えても、それは無理な解釈だと感じたようです。実際、善導は観想念仏に励んでいたようなのです。だから僧侶などのエリートは観想念仏を行って、阿弥陀浄土への憧れを膨らませる修行を行えばよいが、それができない一般庶民は、専ら称名念仏を行っておればよいという主旨なのでしょう。

 もちろん「仏の本願」は一切の衆生をすくい取ることですから、当然庶民用には、称名念仏が主眼だということになります。でもだからといって、別に僧侶まで称名念仏だけでよいとしているわけではないようです。法然は、善導に従って、末法においては僧侶も世俗も同じだ、と捉えていたので「称名念仏」だけが行だという「専修念仏」の主旨に受け止めてしまったのです。

 九、投身往生の流行

 

とはいえ、善導は己に厳しい人でした。九品もみな凡夫であるとし、そして自分を煩悩から離れられない凡夫と見ていたわけですが、さらに悪人と等値したのです。

善導は、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(『観経疏』散善義)そして十悪五逆の悪人でも「南無阿弥陀仏」を称えれば阿弥陀浄土に往生できると説いたのです。いわゆる「悪人成仏」説です。

彼は決して高い地位や安楽な住居は求めず、常に質素な法衣をまとい、女性に対しては、眼を上げずに話したと言われています。それでも心の中を見据えるとやはり煩悩の塊であり、悪心に満ちていると思ったのでしょうか。ですから、曇鸞のように長寿のために念仏三昧などとんでもないので、早く阿弥陀如来に浄土に迎え入れてもらいたいと思っていたのです。

善導は一刻も早くこんな穢い娑婆を去って、極楽往生できるように称名念仏を勧めていたものですから、善導に感化された信徒から投身往生をするものが絶えず、それで食肉業者が肉が売れないと怒って、善導を殺そうとしたということがサイトに載っています。まさかと思いますね。http://www.tabiken.com/history/doc/K/K224L100.HTM

それはともかく善導の布教は大成功だったようです。お寺に阿弥陀浄土や地獄絵を描きましてそれで教化したり、「往生礼讃偈」という詞を作り「六時礼讃」と言いまして、一日六回それを節を付けて称えたそうです。つまり絵画や音楽を取り入れて、人々の感性に訴え、魂を捉えようとしたのです。

これを日本でも法然の若い弟子たちがやりまして、そのあまりに美しい姿や声に熱狂的な娘たちのファンが出来て、それが原因の一つとなって後鳥羽上皇の勘気にふれ、弾圧されることになってしまったということです。

善導が布教した長安の町は称名念仏であふれていたと言うことです。まあ法然といい勝負するぐらい人気があったのかもしれませんね。しかしそういう芸術的な才能を存分に発揮してたくさんの信者を獲得できたとしたら、こんな楽しいこと、幸せなことはないわけで、この世は決して棄てたものではありませんよね。そこが浄土教の矛盾したところです。

よく議論になるのが善導自身が投身往生をしたかどうかです。亡くなったのが、六九歳ですから、病没でもおかしくないですが、そろそろ迎えに来て欲しいということで自分からということも考えられますが、それでは他力本願に反するとも言えますね。あくまで阿弥陀仏に任せるべきですから、自殺はいけません。

 ただ彼は狂信的なぐらいの信仰ですから、阿弥陀仏も浄土も実体化して捉えられていて、本当に西方浄土の蓮の花の上に生まれることができると確信していたでしょうね。そうなると唯識論的な観念論からは宗教としては後退していると言えるかもしれません。

 

【付録】◆ 往生礼讃 (善導大師)
http://www2.big.or.jp/~yba/teach/mizutani228.htmlより

《一行三昧を説き明かそう。》

文殊般若経に「唯独りいて心をとどめて一仏にかけ、仏のおすがたを観ずるのではなく、もっぱら名号を念ずれば、その念仏の中において、阿弥陀仏をはじめすべての仏を見たてまつることができる」とある。

*《どうして観仏でなく専念称名なのか?》

「衆生は障りが重く、観ずべき対象は多いのに、粗雑で思いが乱れとび仏のお姿を観じようとしても成就できない。それゆえ、釈尊は衆生を憐れみ給い称名念仏をお勧めになった。称名念仏は行じやすく、相続して往生することができる」

*《一仏を念ずるのにどうして多くの仏が現れるのであろうか?》

「仏がたは皆同じさとりを開いておられ、また姿・形にも違いは無い。一仏を念じて多くの仏を見たてまつってもどのような道理にも背かない。そしてみな西方浄土に向かって念仏することがもっともすぐれている。どうしても西方浄土に向かうことができないときは、こころに西方浄土に向かう思いをもてばよい」

*《すべての仏がたは、応身・法身・報身の三身のさとりの身をえられ、慈悲と智慧を円満されていて差異はないのに、どうしてひとえに西方浄土のみを讃め称え、もっぱら阿弥陀仏一仏への礼拝や憶念を勧めるのだろうか?》

「仏がたのさとりは平等で一つであるが、因位の願・行には違いが無いわけではない。阿弥陀仏は法蔵菩薩であった因位のとき誓願をたてられ、これを成就され、光明と名号によってすべての世界の衆生を導き摂取される。わたしたちはただ信ずるばかりであって、長い生涯念仏を相続するものも短命にしてわずか十声、一声の念仏しか称えられないものもすべて仏の願力によりたやすく浄土に往生できる。なぜなら外からの妨げが無く、他力の信心を得るからであり、阿弥陀仏の本願にかない釈尊の教えに違わないからであり、仏がたのことば詞にしたがうからである」

「ただ念仏の衆生をみそなわし、摂取してすてざれば、阿弥陀と名づけたてまつる」

*《阿弥陀仏を称名念仏しあるいは礼拝・観察することはどのような功徳や利益があるのだろうか?》

「もし阿弥陀仏の名号を一声称えるならば、八十億劫の生死の迷いの重い罪が除かれる」