中国思想史講座

                                   中国仏教思想
 

 3. 天台智の人生と思想
やすい ゆたか
一、東アジアの仏教文化圏形成

 

 
  五胡十六国から南北朝時代に仏教信仰はさかんになります。北朝では仏教は神異僧を使ってそのオカルト的な能力を利用しました。そして仏像崇拝を皇帝崇拝に摩り替えようと、如来の顔に皇帝の顔をもってくるようになったのです。これを「皇帝即如来」といいました。龍門の石窟などが有名です。しかし皇帝は仏教の修行をきちんとしていたわけではありません。その意味では仏像の顔になって仏陀になったつもりでいたのでしょうか。

 

    南朝の梁の武帝は菩薩天子として有名です。彼は自ら仏法を学び修行をしまして、仏陀になろうと努力したのです。そうすることで、仏教に帰依する人民の心をつかみ、国のまとめようとしたのです。梁の影響で百済の聖明王も菩薩天子を目指したのです。欽明天皇の時代に聖明王は仏教を日本に伝えたのですが、それは五三八年と五五二年の二説あります。 

仏教が倭国に伝来したものの祭祀を掌っていた物部氏や中臣氏の強い反対があり、蘇我氏のみが仏像を祭祀していたのです。結局六世紀末になって蘇我・物部戦争が起こり。崇仏派の蘇我氏が勝利して仏教導入が本格化していったのです。

二、倭国の菩薩太子と天台教学


 

そうした東アジアの仏教文化圏形成の大波の中で、倭国でも菩薩天子を養成しようとしたわけですが、当時は推古女帝の時代ですので、難解な仏教教学や中国の漢籍の教養を推古女帝に求めるのは無理があったので、幼い頃から利発だった厩戸皇子を菩薩天子に養成しようと、高句麗や百済から高僧を招いてエリート教育を施したようです。

梁の武帝(蕭衍)は、仏教の慈悲の心で政治をしたのはいいのですが、どうしても自分の帰依するお寺を優遇します。「捨身」と称して自らが建立した同泰寺でに入り、それを臣下たちが寺に莫大な布施をして皇帝を請け出すようなことをして、国費を投入させたために、人民にはかえって重税を課すことになって、反発を招いています。

そして東魏の武将侯景が北朝を逃れて、南朝の梁に降伏してきたのを信用して見事に騙されて身を滅ぼすきっかけになりました。慈悲の精神で人民の幸せに成る政治をしようという心がけはよくても、現実を直視し、かえって人民を苦しめたり、国を滅ぼすことにならないのか冷静に判断することができなくなっていたわけです。蕭衍が餓死させられたのは五四九年(太清三年)ですから厩戸皇子が十歳の時でした。

百済聖明王は五五四年、新羅との戦いに敗れて戦死しています。聖明王の敗因を蘇我稲目は、建国の神を祀らなくなったからとしましたが、やはり仏教の殺生を禁じ、慈悲を重んじる信仰が文弱にしたのではないかと梅原猛も見ています。

でも厩戸皇子は、隋による中国統一と二代目の煬帝が菩薩天子として仏教を重んじる国造りをしていたことに希望を見出していました。それで遣隋使小野妹子を派遣したのです。もちろん律令国家体制を学ぶことが目的ですが、そのためにも仏教を学ぶ必要があったのです。当時隋では天台智の『法華経』を中心にする教説が勢いがあり、煬帝も深く帰依していたそうです。ですから遣隋使の目的の一つはこの天台教学を学び取って倭国に紹介することにあったはずです。

ではその成果である聖徳太子の講経では、天台教学が紹介されているでしょうか。聖徳太子は『三経義疏(さんぎょうのぎしょ)』というノートを作っていました。その中に『法華義疏』があります。そこに天台智の教説が紹介されているでしょうか。

残念ながら聖徳太子の真筆とされている『法華義疏』には天台智の教説は書かれていないのです。『法華義疏』は梁の武帝の家僧であった光宅寺法雲(四七六年 五二九年)による注釈書『法華義記』と七割同文なのです。

そこで古田武彦は、天台智の教説が書かれていないのでは、何の為に遣隋使を送ったか分からなくなるとして、これは聖徳太子の真筆でない証拠だとしています。ただしそれは遣隋使が『法華義疏』に間に合うように天台智の教説を厩戸皇子に伝えられたとしたらの話ですね。           

天台智は五九七年に亡くなっています。第一回遣隋使は六〇〇年、第二回は六〇六年です。天台智の教説を現地で理解するのに何年かかるでしょう。智の天台三大部は講義されたもので、たとえその講義を倭からの留学僧が拝聴していたとしてもなかなか耳からでは理解できなかったでしょう、まして倭からの留学僧は智の死後、隋に渡っているわけです。もちろん天台智の最新の学説を弟子から耳学問では学んでいたでしょうが、よくは理解できなかったと考えられます。

ですから既に流布されていた『法華義記』で勉学し、倭に持ち帰ったのを厩戸皇子も学習されたかもしれませんね。天台三大部は、弟子の章安は、講義から四二年もかけて添削に添削を重ねた結果できたものでして、智入滅から三十年後のことだったそうです。

もちろんそのことと『法華義疏』が聖徳太子の真筆かどうかはまた別問題です。現存する『法華義疏』がたとえ太子の真筆でなかっても、聖徳太子が架空だということにはなりません。本物の太子の真筆の『法華義疏』があって、そこには天台智の教説も何らかの形で含まれていたかもしれません。なにしろ現存の『法華義疏』が太子の真筆だという証拠はあまりないのですから。

三、戦乱と王道の出家

 

          
  天台智は、梁王朝の頃、大同四(五三八)年7月荊州の豪族だった陳起祖の子として生まれました。字は徳安と言います。高僧の伝記では誕生にあたって不思議な兆しつまり奇端があったことになっています。天台智については「母は五色の霧の囲まれ、白色のねずみを飲む夢をみて子供を生んだと伝えられています。誕生のとき、家が輝いたので幼名を光道または王道と名付けられたといいます。七歳にして仏法に親しみ、一度聞いた経文は忘れずに覚えていたと伝えています」(
http://www.tendai-jimon.jp/religious/index.html)と天台寺門宗のサイトにあります。

西暦五五二年荊州の湘東王は、侯景討伐軍を結成して見事武帝の仇を討って、帝位につき元帝となったのですが、彼の甥の一人が、対抗しようとして北朝の西魏と結びました。侯景討伐軍が戻ってこない間に荊州は侵攻され、元帝は降伏したのですが、殺されてしまいました。その結果梁の人々は十万人以上の人々が西魏に連行されたといわれています。

重傷を負い、城中の後始末もあって王道一家は連行をまぬかれたのですが、この体験があって世をはかなみ仏道に生きることを決心したと言われます。そして十七歳の時に両親が亡くなって、江陵の長沙寺で仏像に三度頭を撫でられる夢を見て出家を決意したといわれています。

十八歳のときに仏門に身を投じ、父の知人で湘州の州長官の王琳の世話で徳安は湘州の果願寺で得度しまた。一年で果願寺での修行を終えまして、慧曠律師についてさらに一年修行し、二五〇条の戒を受け僧侶になりました。それ以後法名を智と名乗ったそうです。

四、教相判釈

 

          
  そして衡州大賢山での修行で、それぞれ一見思想的に矛盾するいろいろなお経の中でどれを中心においたらよいのか、必死で考えまして、やはり釈尊の真意は『法華経』にあるという確信をもったのです。『法華経』を最高として他のお経の高下をつけていくときちんと整理できるではないかということですね。こういうようにお経に価値序列をつけることを「教相判釈
(きょうそうはんじゃく)」と言うのです。 

このような教相判釈が必要なのは、お経はみんな釈尊の語ったことを釈尊の講義を聴いた弟子たちが綴ったものだという大前提があるわけです。だってお経ではどれも釈尊が語る形式をとっていて、それを拝聴している弟子の名前まで同じなのですから。成立した時代や著者が実はバラバラだと言うことは、西洋の文献学的考証によって近代になってからやっとはっきりしたわけです。

天嘉元(五六〇)年、智が二三歳の時は、戦乱の地であった光州大蘇山に南岳慧思に弟子入りしました。この時慧思はちょうど倍の四六歳でした。慧思はひと目見るなり「不思議ですね、昔釈尊が霊鷲山で法華経を講じられたとき共に列席していた宿縁があってこうして再会できたのではないかと思えてきます」と言われたのです。

これを「霊山同聴の宿縁」といいます。まあ「殺し文句」のようなものですね。なかなか見込みがありそうな新入りがやってくるとこう言うのです。こういわれると自分が千年以上前から仏法に生きる宿命を背負い、南岳慧思のような高僧と肩を並べるぐらいの大物になりうると見込まれていると思ってしまいます。そこまで自分を認めてくれる師のために身命をとして修行しなければと思いますね。それを新入りをよいしょしてやる気にさせていると軽く受け止めるようじゃ駄目ですね。まあそんな人は見込みありませんが。

五、大蘇開悟

 

          
  智は慧思の指導のもと一心に修行し、『法華経』の重要な修行であるいわゆる「法華三昧」の行である四安楽行を教えられ、修行すること十四日、薬王品第二十三の焼身供養の文に至って、「これだ!」と悟ったのです。この悟りを「大蘇開悟」と呼んでいます。まあ驚くべきことが書いてあったのです。

「我現一切色身三昧を得たる、皆是れ法華経を聞くことを得る力なり。我今当に日月浄明徳仏及び法華経を供養すべし。

即時に是の三昧に入って、虚空の中に於て曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・細抹堅黒の栴檀を雨らし、虚空の中に満てて雲の如くにして下し、又海此岸の栴檀の香を雨らす。此の香の六銖は価直娑婆世界なり、以て仏に供養す。是の供養を作し已って、三昧より起って、自ら念言すらく、我神力を以て仏を供養すと雖も身を以て供養せんには如かじ。

即ち諸の香・栴檀・薫陸・兜楼婆・畢力迦・沈水・膠香を服し、又瞻蔔・諸の華香油を飲むこと千二百歳を満じ已って、香油を身に塗り、日月浄明徳仏の前に於て、天の宝衣を以て自ら身に纏い已って、諸の香油を潅ぎ、神通力の願を以て自ら身を燃して、光明遍く八十億恒河沙の世界を照す。其の中の諸仏、同時に讃めて言わく、善哉善哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名く。」 

要するに『法華経』が最高のお経だということが分かったことで、すべてのお経の意味が通じ、釈尊の言われることが理解できるようになったのです。これは非常にありがたいことなので、仏に感謝の気持ちで供養しなければならないと思ったのです。

最高のことだから最高の供養でなければならないということで、自分の身を捧げて供養するのが一番だろうと考えたわけです。そこで香油をたっぷり千二百歳になるまで飲み続けまして、自らの身を燃やしたのです。その光は八十億恒河沙の世界を照したといいますから、まあ無量壽光ですね。無量壽光と言えば阿弥陀仏のことでもあるわけです。阿弥陀仏に匹敵するほど明るい光を宇宙の隅々まで照らしたということです。これこそ真の精進だと諸仏はほめそやしたわけです。

 凡人ですと焼身自殺してしまったら、せっかく尊い真理が分ったのにその教えを広めることができなくなるから、ナンセンスだと思うでしょう。ところが『法華経』は詩的表現なのです。宇宙をくまなく照らす光となったということで、『法華経』が最高という真理が宇宙の隅々まで照らしたということですね。

つまり死んだということに拘って解釈したらだめですよ、『法華経』の光に成る努力をして千二百歳まで生きているわけですから、我々も真理のために生きなければなりません、そのために身を捧げているわけですから、この焼身した薬王菩薩の前身である喜見菩薩は、『法華経』に身を捧げようとしている智自身と重なるのです。

もちろん各経が全くの別人の異なる思想によって書かれたものだとしたら、「教相判釈」にここまで必死にならなくてもいいような気がしますね。ところが近代になっても『法華経』第一の「南無妙法蓮華経」というお題目が盛んに唱えられています。それこそナンセンスだという批判も確かに可能ですが、『法華経』が最高という評価には『法華経』が他の宗派のお経を包摂しうる包括力があるからだといえるかもしれません。

例えば「久遠の本仏」となれば既に宇宙の本体である「大日如来」と同一視できますし、その慈悲の面が阿弥陀仏信仰として現れます。それは『法華経』にも触れられています。また弥勒菩薩信仰、観世音菩薩信仰なども『法華経』に入っているわけです。つまり久遠の本仏は、自力修行で成仏しようとする者を含めすべての衆生を救うのですから、様々な修行について説き、様々な仏、菩薩の姿をとるわけでして、仏教信仰を総括しているともいえます。

六、金陵講説

 

大蘇山にも戦乱が迫り、慧思は南岳衡山に入山し、智には弟子二七人を伴わせ、陳覇先が興した陳朝の首都建康(金陵)での流布に向かわせたのです。智は三十歳でした。まず禅師の法済との仏法対話で勝って名声を広め、瓦官寺で多くの弟子を集め、法華経の開題、大智度論、次第禅門を講説して、衆生の教化につとめました。オープンキャンパスみたいなもので、建康の主だった僧俗が聴講にきたのです。宣帝の命で朝廷の仕事を休みにしてまで聴きに来たそうです。

田丸ようすけの劇画『天台大師』では『法華義記』の著者法雲法師が弟子百人を連れて法論にのぞみ智に論破されたかに言っていますが、これは名誉毀損ですね。光宅寺法雲は四六七年に生まれ、五二九年に没しています。別の僧と勘違いしたのでしょうね。

ただ『法華義記』のなかで法雲は「此の経いまだ碩然(せきねん)ならず」あるいは「異の方便」として「法華経はいまだ仏理をきわめざる経」であると書いているそうです。それで智は「光宅寺の法雲法師は謗法によって地獄に堕()ちぬ」と断じたのです。 

『法華経』をパーフェクトと言わなければ地獄に堕ちるというのは言い過ぎですね。だって『法華経』がパーフェクトという論拠は『法華経』自身にあるのですから、論理的にもパーフェクトとは言い難いものです。ただやはり当時は『法華経』が釈尊の言葉を記録したものという前提で語っていますから、釈尊を絶対視すれば、間違いないことになります。ともかくそういう論法で、折伏による教勢拡大に成功したわけです。

七、華頂降魔と天台宗の成立

 

ところが、北朝では五七四年北周の武帝(宇文邕)が廃仏を断行しました。やがて陳も北周に攻め込まれれば、金陵(建康)の仏教もひとたまりもないと感じたのです。つまり折伏による教勢拡大はなされても、教説を真に理解し実践する者の少ないのです。そこで智は、陳太建七(五七五)年九月、三八歳の時に霊山天台山(淅江省)に入山して、教説を仕上げようとされたのです。

翌年のこと、天台山の主峰「華頂峰」の修禅して、天台の妙義を一念開悟しました。それを「華頂降魔」と言います。大師の修行を妨げようと次々と魔物が現れたのです。智は、この魔物の誘惑をすべて退け、明けの明星を見て第二の真の悟りを開かれたということです。この悟りはなかなかレベルが高いもので仏教史の中でも最高峰かもしれませんね。

八、「天台三大部」講説

 

四八歳の時、陳の永陽王に請われて天台山を下山、光宅寺で『法華文句』を開講されました。これは用語解説と共に『法華経』それまでの『法華経』解釈を集大成したものです。その後、五八九年陳は隋に滅ぼされました。

隋の世になり、開皇十一(五九一)年には、晋王広(後の煬帝)に招請されて、広に菩薩戒を授けました。そして晋王から「智者」の称号を贈られたのです。

その後、戦乱を避け、故郷の荊州に帰郷、玉泉寺を建立します。開皇十三年(五九三)には『法華経』の精神を論じた『法華玄義』、翌年には修行法を説いた『摩訶止観』を講説されたのです。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を天台三大部と呼びます。これらは天台宗の聖典として弟子の章安潅頂により筆録されました。

 

九、入滅

 

開皇十五(五九八)年、天台山に帰山されました。余生を送りそこを入滅の地と定めたのです。天台山はすっかり荒れ果てていましたが、天台大師が戻ると多くの弟子が集まり、弟子の養成に心を尽くされたのです。。

開皇十七年(五九七)、隋の煬帝の求めに応じ天台山を下山され江都へ向かわれますが、その途中、天台山西門の石城寺(新昌大仏寺)まで来て、病に倒れ、後事を弟子の潅頂に託して、十一月二四日未時(昼二時)に、端座したまま滅されたそうです。享年六十歳でした。

十、天台智の教え・・・五時八教

 

それでは倫理のテキストを用いて、開祖天台智の教えを極く簡単に説明しておきましょう。重要なのは「五時八教」「一念三千」「三諦円融」の思想です。これらの思想は以後の中国及び日本の仏教に決定的な影響を与えたといわれています。 

五時とは釈迦の説いた教えを順番に並べたものです。沢山の経典が伝えられていますが,そのどれもが釈迦の教えをそのまま伝えた形式をとっています。ところがそれでいて内容はまるで相容れないように思われます。とても同一人物の教えとは思えないのです。しかしまさか釈迦直伝といわれているものを疑うわけにもいかず,どのように統一的に理解すべきかが非常な難問でした。 

西洋の文献学が明らかにしたことですが,実は経典は釈迦滅後五百年以上かかって様々な悟りに達した多くの仏陀たちによって書かれてきたのです。ところが彼らは自己と釈迦牟尼を同一視したので,釈迦牟尼の伝記的な体裁をとり,登場する弟子たちまでみんな同一人物になっていました。そこで相矛盾する思想がいずれも釈迦牟尼の教説になってしまったのです。 

 そこで天台智は五時つまり五つの時期に釈迦の人生を分けて教説を整理したのです。彼は,釈迦が@華厳 A阿含(あごん) B方等(ほうどう) C般若 D法華の順に異なる教えを説いたとするのです。          

@華厳は一即多,多即一の純粋な大乗哲学です。これはだれにも理解できませんでした。

Aそれで次に煩悩を取り除くための四諦・八正道の実践的な阿含の教えを説いたのです。しかしこの欲望否定の 余りに倫理的な教えでは生命の喜びがありません。これでは修行者だけの悟りの哲学です。

Bそれでその次に個々人が勝手に悟ってしまう小乗の立場を否定する方等の教えを説いたとします。

Cそして更に次には大乗仏教独自の空の思想を説いたのが,般若の時期なのです。

Dそして入滅の8年前になって説かれたのが法華経だったとしたのです。

『法華経』は釈迦が久遠の本仏であり,永遠の過去から未来に生まれ変わり出現して,衆生を救うと宣言します。法華経の教えによって全ての衆生が仏性に目覚め,自らの生命の歓喜を肯定できるようになるのです。大乗仏教では真の成仏から取り残されるとされた声聞(しょうもん・釈迦の教えを聞いた弟子たちで自己一身の悟りを目指した。)や縁覚(えんがく・独自の悟りに閉じ籠もって衆生済度を願わない者)も法華経で救われると「法華一乗の思想」を展開しています。そして法華経以前の教えは完全ではなく,最後に法華経で救われるようにする為の方便だったというのです。 
 

「八教」は教義の説き方(化儀)や教義の内容(化法)による各経典のランク付けです。先ず化儀の四教は, 

@頓教(とんぎょう)−直ちに悟りに入らせる教説でして,性急で難解過ぎます。華厳がこれに当たります。

A漸教(ぜんきょう)・段階を追って悟りに入らせる教説です。阿含・方等・般若がこれです。

B不定教(ふじょうきょう)・聞き手の心構えでそれぞれ違った受け止め方をする教えです。華厳・阿含・方等・般若が含まれます。

C秘密教・不定な結果にも係わらずそれぞれ会得しますが,互いの内容は理解できません。やはり華厳・阿含・方等・般若が含まれます。 

 次に化法の四教ですが,@蔵教 A通教 B別教 C円教に分類されます。 

@蔵教は三蔵(経・律・論)を完備したもので,小乗の阿含経はこれを完備しています。

A通教は説教を聞く人次第でどうにでもなる教えで,声聞・縁覚・菩薩に共通するものです。方等・般若がこれにあたります。

B別教は華厳にあたります。これは全く純粋な大乗の教えですが,純粋すぎて現実的ではありません。

C円教とは円融・円満・円備にして完全なる真実教すなわち法華経のことです。華厳の理想を現実に沿ったものにしているのです。

 

十一、天台智の教え・・・一念三千

 

          

『華厳経』では,微細世界即大世界,大世界即微細世界,少世界即多世界,多世界即少世界,一毛の孔の中で一切世界を分別し,一切世界の中で一毛の孔の性を分別するという曼陀羅的世界観が展開されていますが,天台智 はこの思想に啓発されて一念の中に三千世界があるという「一念三千」の思想を説きました。 

 六道輪廻説では此の世界を地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の境涯に分けましたね。それで悟りを得て輪廻の河を越えれば彼岸の涅槃(ニルバーナ)に到ることになっていました。ところが大乗仏教では声聞・縁覚・菩薩ではそれぞれ異なった境涯に到ります。それを声聞乗・縁覚乗・菩薩乗と呼びます。この三乗の上に仏乗を加えて六道とで合計十の世界,つまり十界を考えます。この十界はそれぞれ相互に十界を宿しているというのです。

 つまり地獄には地獄から仏乗までがあり,反対に仏乗にも地獄から仏乗まであることになります。ですから百界がこれでできましたね。地獄の境涯に生きている者にも仏の世界は宿っていて、仏のような慈悲に満ち溢れた者にも地獄の妄執は潜んでいるというのですから、大変鋭い心理分析ですね。そしてどんな境涯にいてもその中に仏性はあるのですから.目分を信じて生きるべきだということです。

 そしてこの百の世界にそれぞれ十の性格があります。それはr相・性・体・カ・作・因・縁・果・報・本末究竟です。これで千の世界ができました。そしてまたそのそれぞれが物質面の五陰世間と,そこに生きる主体に即した衆生世間と,環境面の国土世間の三世間の面を持っているというのです。こうして人間はその時,その場の実存主義的に言えぱ,現に今ここに有る一念の中に三千世界を宿しているのです。

十二、天台智の教え・・・三諦円融

 

「諦」は真理という意味です。四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)というのがありましたね。天台智の「三諦」は空諦・仮諦(けたい)・中諦です。

空諦は般若の教えに則り,全ての存在するものを無常で空しいと観ずることです。この真理によって欲望への執着つまり渇愛を脱却できるのです。しかしこれに止まっては消極的なニヒリズム,小乗の立場で終わってしまいます。 

いったん否定された存在を,仮のものとして肯定することを仮諦というのです。空諦の真理だって,存在するものが仮のものであり,空しく滅び去るから感得されるのです。ということはこの仮の存在こそ,法の現れであって,仏性を示している尊き愛しき存在だということです。しかしこの仮諦に固執しますと,存在するものの空しさを忘れて渇愛から脱却できなくなります。華厳の教えは仮諦に止まって現実存在の全面肯定になってしまったと批判されているのです。 

 そこで空諦と仮諦が相互に否定し合い,全てのものを空として否定しつつ,仮として肯定する,この中に中諦が有るのです。その上で空諦の中に仮諦・中諦を含み,仮諦の中に空諦と中諦を含み,中諦の中に空諦と仮諦を含んで,三種の真理が渾然一体となっている状態が「三諦円融」なのです。 

 このような否定を介した存在への慈しみが,日本思想の中で仏教的無常観に基づく「物の哀れを知る心」として,主情主義的な心情を育む宗教的背景になっていると思われます。本居宣長は仏教伝来以前に「物の哀れを知る心」の形成を求めていますが,『源氏物語』などの歌・物語や中世・近世の美意識の形成には仏教的無常観の深い影響を見逃すことはできません。



4天竺取経 Index

2仏教伝来