善悪を知る木と生命の木
もう一度、エデンの園の中央の二つの木の意味を考えてみましよう。エデンの園は地上
ですからその中央にある二つの木は、天地創造の秘密をその内に蔵した木であると言えます。生命の木は、その木の実を食べたら永遠の生命を得ることができることで有名ですが、個体の生命の象徴というよりも、コスモス(宇宙)全体を生命として捉えたものではないかと思われます。つまり根源物質(アルケー)としての生命なのです。これを生命の木が象徴しているのです。もう一本は善悪を知る木とされていますが、そこには生命の流れや調和を定め、その現れ方の具体的な形式や展開が、知の体系の形でプログラムされているのです。つまりプラトンのイデアの世界に当たるわけです。こうして世界の二つの要
実はこの発想は真言密教にあるのです。大日如来は宇宙の本体を仏として捉えたものです。大日如来は金剛界と胎蔵界から構成されています。金剛界には無量最上の知恵を宿し、胎蔵界にはそれらを事象として発出する全ての種子を宿しているとされています。金剛界を善悪を知る木が象徴して、胎蔵界を生命の木が象徴していると考えればよく分かりますね。このような発想にはギリシア哲学の影響があったのかもしれません。あるいはネストリウス派のキリスト教つまり景教から二つの木の伝説を知り、教義に取り込んだとも想像できます。仏教学者の中には如来蔵思想を非仏教的だと排斥する人もいます。でも仏教と
もちろんこういう「二つの木」解釈は、イデア界と現実界、精神と物質、形相と質料を
でもプラトンもヘレニズム的限界にいますから、どうしてもイデア界と現実界を空間的に繋がったものと考えてしまいます。頭の部分のプシュケー(魂=生命)、つまり理性は死後肉体を離れて、希薄なので上昇して、空気の上の「火」の世界と合体します。そこがイデア界です。このように理性自身が自然の物質を構成しているという限界があるのです。とはいいましても、それはプラトンがギリシア人に分かりやすくするための方便なのかもしれません。彼自身はイデア界をまったく超越的に自然自体から異次元的に捉えていたとも解釈できます。だとしますとそれはヘブライズムの神観念に非常に近いことになります。
フェティシズム(物神崇拝)との関連で、この二つの木について考えてみましょう。エデンの園を地上における神の国と解釈し、神を空間的に表現したものとしますと、二つの木は神の本体の中枢に当たることになります。木が神であるというのは物神崇拝ですが、これは木が神であるというよりは、神が木の姿をしているということに過ぎません。その意味では原始的なありふれた物を神にして崇拝するというフェティシズムとは区別されます。石塚正英著『フェティシズムの思想圏』『フェティシズムの信仰圏』(いずれも世界書院刊)によれば、ド・ブロスの定義ではフェティシズムはありふれた物を神にして崇拝
この聖なる木は空想の木ですが、おそらく先祖の記憶の中に神の木についての物神信仰の伝承があったのでしょう。そして太古ではその木に願いをかけ、聞き入れてくれなければ切り倒したり,棒で叩いたりしたのでしょう。しかしそれは余りに身勝手で神に対する冒涜だと気づいて、神木に触れたり、木の実を食べたり、叩いたり、ましてや切り倒したりすれば神の罰が下って死ななければならないというタブーが形成されたのだと想像できます。つまり物神の方に感情移入して、神の身になって考えてみた結果、人間は何と神を蔑ろにした酷い信仰をしていたんだろうと気づいたのです。禁断の木の実を食べたら死ぬ
それに物神(フェティッシュ)は、人間がきまぐれか何かの事情で選んだものですが、本当の神は人間が選択できるでしょうか?蛇、聖石、神木、神山、人形、聖剣、聖鏡等々はみんな人間が選んだ神です。人間によって選べない神ということで「見えざる神」観念がフェティシズム批判から生じたのかもしれません。