善悪を知る木と生命の木

 もう一度、エデンの園の中央の二つの木の意味を考えてみましよう。エデンの園は地上 の楽園です。天上の神の国ではありません。でもアダムとエバは、いわば子宮の中の胎児のような状態だったのです。その意味ではエデンの園は、地上において神の国を象徴している存在だといえます。神の国は宇宙創成の以前から、いわば時間・空間を超越して存在している、われわれにとっては空想の世界です。空想の世界ですが、もしそんな世界が存在するとすれば、現実の世界はかえって神の国で予め構想されたものでしかないのかもしれません。かえって神の国から地上の国が生みだされたことになります。神の国は神その ものと考えてもいいのですが、神を空間として思い浮かべた姿だと言えます。地上というのは空間的な形で実在を示す場所ですから、時間・空間を超越している神の国をあえて空間として捉えたのがエデンの園なのです。

 ですからその中央にある二つの木は、天地創造の秘密をその内に蔵した木であると言えます。生命の木は、その木の実を食べたら永遠の生命を得ることができることで有名ですが、個体の生命の象徴というよりも、コスモス(宇宙)全体を生命として捉えたものではないかと思われます。つまり根源物質(アルケー)としての生命なのです。これを生命の木が象徴しているのです。もう一本は善悪を知る木とされていますが、そこには生命の流れや調和を定め、その現れ方の具体的な形式や展開が、知の体系の形でプログラムされているのです。つまりプラトンのイデアの世界に当たるわけです。こうして世界の二つの要 素が予め有るので、それにそって世界創造や世界史が展開されることになるわけです。

 実はこの発想は真言密教にあるのです。大日如来は宇宙の本体を仏として捉えたものです。大日如来は金剛界と胎蔵界から構成されています。金剛界には無量最上の知恵を宿し、胎蔵界にはそれらを事象として発出する全ての種子を宿しているとされています。金剛界を善悪を知る木が象徴して、胎蔵界を生命の木が象徴していると考えればよく分かりますね。このような発想にはギリシア哲学の影響があったのかもしれません。あるいはネストリウス派のキリスト教つまり景教から二つの木の伝説を知り、教義に取り込んだとも想像できます。仏教学者の中には如来蔵思想を非仏教的だと排斥する人もいます。でも仏教と いう統一的教義があると考えたり、釈尊の教えを再現できると考えること自体が、非現実的です。それに純化された仏教を取り出すことができるとしても、それは如来蔵思想を包み込んだ思想よりも、素晴らしいものであり得るでしょうか?

 もちろんこういう「二つの木」解釈は、イデア界と現実界、精神と物質、形相と質料を 二元論的に展開する形而上学的な哲学の立場からの解釈です。『バイブル』をわざわざ哲学的に解釈して難しくすると、『バイブル』に親しめなくなると不平の声も聞かれそうですが、よく考えますと、プラトンのイデア界という構想は、超越的な発想です。ヘブライズムと通じるところがあるのです。ヘレニズムでは神も世界の中に存在します。原理や論理といっても、物質自身の中で貫く原理や論理ですから、決して自然を離れた、異次元の実在ではないのです。ところがプラトンのイデア界はオリュンポスの山中に住む神々の世 界のイメージに近いのです。オリュンポスの山中に神々が住んでいるから、森羅万象が姿を現し、その姿を認識できるのです。もし風の神がいなければ、頬に当たる抵抗感を風だと感じ取ることはできません。単なる感覚の束でしかないのです。ですから何者も我々の前に姿を現しません。つまり頬に当たる空気の抵抗感を風と認識させる観念が確固として確立しているから、風だと認知できるわけです。その為には風が他の現象と区別され、関連づけていなくてはならないことになり、概念の関連の世界が時間・空間を超えて実在するということになるのです。その場所がオリュンポスの山中にありとしたのがギリシア神 話のプラトン的解釈です。プラトンのイデア界はその哲学的表現なんです。

 でもプラトンもヘレニズム的限界にいますから、どうしてもイデア界と現実界を空間的に繋がったものと考えてしまいます。頭の部分のプシュケー(魂=生命)、つまり理性は死後肉体を離れて、希薄なので上昇して、空気の上の「火」の世界と合体します。そこがイデア界です。このように理性自身が自然の物質を構成しているという限界があるのです。とはいいましても、それはプラトンがギリシア人に分かりやすくするための方便なのかもしれません。彼自身はイデア界をまったく超越的に自然自体から異次元的に捉えていたとも解釈できます。だとしますとそれはヘブライズムの神観念に非常に近いことになります。

 フェティシズム(物神崇拝)との関連で、この二つの木について考えてみましょう。エデンの園を地上における神の国と解釈し、神を空間的に表現したものとしますと、二つの木は神の本体の中枢に当たることになります。木が神であるというのは物神崇拝ですが、これは木が神であるというよりは、神が木の姿をしているということに過ぎません。その意味では原始的なありふれた物を神にして崇拝するというフェティシズムとは区別されます。石塚正英著『フェティシズムの思想圏』『フェティシズムの信仰圏』(いずれも世界書院刊)によれば、ド・ブロスの定義ではフェティシズムはありふれた物を神にして崇拝 し、それに願いを託して、願いを叶えてくれなかったらその物神を攻撃し、破壊するという信仰形態なのです。この二木信仰には物神への攻撃は既にありません。

 この聖なる木は空想の木ですが、おそらく先祖の記憶の中に神の木についての物神信仰の伝承があったのでしょう。そして太古ではその木に願いをかけ、聞き入れてくれなければ切り倒したり,棒で叩いたりしたのでしょう。しかしそれは余りに身勝手で神に対する冒涜だと気づいて、神木に触れたり、木の実を食べたり、叩いたり、ましてや切り倒したりすれば神の罰が下って死ななければならないというタブーが形成されたのだと想像できます。つまり物神の方に感情移入して、神の身になって考えてみた結果、人間は何と神を蔑ろにした酷い信仰をしていたんだろうと気づいたのです。禁断の木の実を食べたら死ぬ という言い伝えは、おそらくフェティシズムへの反省から由来しているのです。

 それに物神(フェティッシュ)は、人間がきまぐれか何かの事情で選んだものですが、本当の神は人間が選択できるでしょうか?蛇、聖石、神木、神山、人形、聖剣、聖鏡等々はみんな人間が選んだ神です。人間によって選べない神ということで「見えざる神」観念がフェティシズム批判から生じたのかもしれません。

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