楽園追放
第一節「アダムとエバの人間論」はやっと大詰めです。楽園は、まだ人間が人間として誕生する前の子宮にいた状態です。罪を得て人間はやっと自分に目覚めるのです。ですから楽園追放からやっと本格的な人間の歩みが始まるのです。最大のポイントは人間は、個人としては有限であり、死ぬということです。皮肉にも死の自覚によって、人間は人間に成ったのです。この有限な時間の中で何を得ることができ、自分の人生を納得できるのでしょうか。神は死の問題をどういう形で克服させてくださるのでしょう?救済の意味は、永遠の生命とは。それらが歴史の中でいかに証されるのでしょう?これまで読んできたほ
いよいよ楽園追放になりました。「人は我々の一人ように、善悪を知る者となった。今は手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者になるおそれがある。」そこで神は人と神の断絶を保つ必要を感じて、エデンの園から追放します。神は人が永遠に生きる神のような存在になって欲しくないのです。じゃあ、神が人を死から救済して永遠の生命を与える筈はありませんね。イエスの永遠の生命を与えるという言葉は、楽園追放とは矛盾することになりませんか?
イエスの「永遠の生命」が本当に無限の長時間生きることを意味していたのかどうか、これは、『バイブル』全体の大きなテーマの一つです。ともかく死の問題を克服するというのが、宗教の最大のテーマで、中国の道教では不老不死の仙人が究極の目標ですし、アーリア系では肉体は可死だが魂は不死だとして魂における不死を説いています。つまり魂は輪廻転生して、さまざまな境涯を永遠に生き続けるんです。表面的にはこの輪廻転生を苦しみとして否定的に捉えていますが、魂が消滅するとする「魂の断滅」論を否定しているんです。それで輪廻説では、やり直しが何度でも効くことになっています。やはり本音
科学的な見方をすれば、これが一番妥当ですね。人間結局何十年生きられるか分からな
すごく深い真理を聞いているような気もするんだけれど、抽象的過ぎてよく分からないでしょう。たしかに「永遠の生命」が文字通り、無限の長時間死なないという意味であれば、死への恐怖心はなくなるけれど、生きることへの意欲は殺がれますね。別に今日しなくてもいいわけですから、何もしなくなってしまいます。かえって本当に生きることはできないのです。そういう意味で生命の輝きや充実はなくしまうのです。だから神は、人には充実した生き方をして欲しいから、あえて人を命の木から遠ざけ、痩せた大地と格闘させて、生きる意味を問い直させてくれたわけです。これこそ本当の意味での救済と言える
とはいえ、楽園追放は、楽園へのあこがれ、夢を激しく募らせるわけです。命の木の実を食べて、神のごとく永遠に生きたいという夢やあこがれです。やっぱり有限な生命でははかなすぎるのでしょうか?短い人生の中では、ほとんど大したことはできないで、苦役に追われ、次から次へと襲ってくる不幸との応対に疲れ果てて、命を縮めてしまいます。それで悔しくて堪らないのです。だから『バイブル』では神への信仰を守り、どんな苦難にあっても誠実に生き抜いているのに、結局、死ぬまで悲惨な生活を送ったり、悪業の限りをつくして神をさんざんこけにした悪党が、死ぬまで栄えていることを描いています。
でもね、正しく生きたけど報われない、それでも自分なりに精一杯自分を貫いた結果、これだけしかできなかったんだから、まあ仕方無いじゃないか、はいお終いでは、納得がいかない人が多いんですよ。だからこれは長所でもあるけど、同時に不満なところでもあるんです。そこで結局は、審判や来世を説く預言者が現れ、救い主メシアの登場が預言され、イエス・キリストの福音につながって行きます。これをキリスト教では永遠の生命が与えられたり、最後の審判で帳尻が合うような信仰として捉え返す人が多いのです。
『バイブル』では、楽園追放から始まって、最後の審判へと人類の歩みは続きます。始点である楽園追放から終点である審判までの時間が直線的なのです。この宗教的な歴史観では、歴史には始まりと終わりがあり、審判という目的に向かって時が流れているとされています。おや?始点と終点があるのなら、直線的時間ではなくて、厳密には線分的な時間の筈ですね。直線的な歴史だと終点や目標なんかなくて、どこまでも続くイメージになってしまいます。
『バイブル』のように歴史には終わりがあるという歴史観は「終末史観」と呼ばれています。東西冷戦が終わって、歴史が終わったと宣言したのがフランシス・フクヤマです。彼は、『歴史のおわり』(三笠知的文庫)を出して、世界中に話題を振りまきました。フクヤマの場合は、歴史は自由実現への歴史であり、ソ連などの全体主義体制が崩壊したことによって、リベラル・デモクラシー体制の普遍性が認められ、リベラル・デモクラシーを克服してより進歩した体制に発展することはなくなったので、そういう意味で歴史は終わったというのです。
たしかにもう全体主義体制はこりごりですね。経済体制としての資本主義を克服することの是非はまだまだ議論の余地はありますが、資本主義を克服するにしても、リベラル・デモクラシーの枠だけは崩してほしくありません。でも歴史は常にその時代に抱えている課題の解決によって、次の時代に発展するものです。だから現代は、国民国家では解決できない問題が山積しており、国民国家の枠を超えて、グローバルな世界統合の時代に向かわなければならない時代なんです。各国でリベラル・デモクラシーが実現して、それでおしまいなんて呑気なことでは駄目なんです。それに各国のリベラル・デモクラシーもその
ではじゃあ世界統合が実現して、リベラル・デモクラシーが充実すれば歴史は終わるのかと言われますが、歴史が終わるということは、人類に解決すべき課題や矛盾がなくなるってことなんです。ある課題の解決は、次の矛盾や課題を生み出し、人類は常に新しい課題と取り組んで解決していかなければなりません。その意味では歴史は終わりません。
神の審判による歴史の総括だと、いつ終わりになるかまるっきり分かりません。突然審