輸血は呪われるか?  

 「エホバの証人たち(ものみの塔)」がこだわっている輸血禁止の箇所が、ここに出て います。第九章、第二節から読んでみましょう。

 「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地に這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたがたの手にゆだねられる。動いている命あるもの は、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし肉は命である血を含んだまま食べてはならない。またあなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」

 人間はノアの洪水以後、草食から肉も食べる雑食になったのです。それで肉食の際の注意で、肉を血を抜かないで食べてはいけませんというのです。どうしてでしょう?その肉の命が、血まで食べると、食べた人の命と混じってしまうからだって解釈でしょう、「エホバの証人(ものみの塔)」は。「エホバの証人」の信徒の話では、命が混じってしまうと審判の際に蘇らなくなってしまうそうです。

 この解釈は微妙だから、一応血を食べてはいけないと明示されされている箇所を、可能な限り取り出して見ましょう。

 「レビ記」第七章二六節「あなたたちがどこに住もうとも、鳥類および動物の血は決して食用に供してはならない。血を食用に供する者はすべて自分の属する民から断たれる。」

 同第一七章一〇節「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者に、わたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。

 イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら血は注ぎ出して土で覆う。すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も決して食べてはならない。すべての生き物の命はその血だからである。それを食べる者は断たれる。」

 次は『新約聖書』からです。

 「使徒行伝」第一五章二八節「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に捧げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

 同、第二一章二五節「また異邦人で信者になった人達については、わたしたちはすでに手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」

 「エホバの証人」の人から説明を聞いているところでは、命つまり魂と肉との結合で身体はできているわけです。ハードとソフトみたいな関係ですね。ハードである肉は他の動物の肉を食べて、それを栄養源にして造ってもいいけれど、ソフトである血は命だから、混ぜてしまうとその人の命ではなくなってしまうんだということです。だから輸血は命を混ぜるからいけないと、いうのです。蘇りの際、元の命に復元できなくなるって解釈なんです。

 その解釈は、納得できません。第一に創世記ができた時代に、果たして審判の際の蘇りという発想があったかどうか問題です。でも『バイブル』を書いた人にはなかっても、書かせた神にはあったと反論されます。ものみの塔では、『バイブル』は神の言葉で書かれているという信仰が彼らの出発点なんです。

 理由ははっきりしませんが、『バイブル』では血が命です。特に人間の命の場合は、神 が人間を自分の形につくっただけに、大切にしているんです。だから「人の血を流す者は、血を流される」として命を奪う流血殺人を糾弾し、報復されると警告しています。神はあくまで人間たちが平和的に愛し合って生きることを望まれているのですね。これは大切なトーラーです。

 また命である血を食べると「断たれる」とあります。これが「エホバの証人(ものみの塔)」では、命が混ざって復活が不可能になる理由とされているんです。でもね、「民のうちから断たれる」という意味なんです。だから、復活が不可能になるという意味とは確定できるでしょうか。あるいはイスラエルからの追放という意味だという解釈も可能かもしれません。もっともイスラエルの民だけが復活するとすれば、イスラエルから追放すれば復活できないから、同じことでしょうが。

 それに、「民のうちから断たれ」れば復活できないとか、断たれなければ復活できるとかは、個人の命が復活されるという信仰がなければ言えないことです。果たして「レビ記」の時期にそれがあったかが証明される必要があるんです。この「民」というのは歴史的な概念です。つまり神が選ばれた栄光の民族、イスラエルの歴史があるんです。イスラエルこそは、さまざまな苦難を経てやがては全地を支配し、神の栄光で地上を照らすべき民族なんです。その民族の輝かしい歴史の頁にその構成員として認められ記憶されるという意味じゃないでしょうか。「民の内から断たれ」ると、歴史的にイスラエルから除名され てしまうと解釈できます。

 「肉の命は血にあるからである。あなた方の魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえにあがなうことができるからである。」とあるのだから、血を飲めば命があがなわれないという意味になります。つまり、血を飲めば死ぬということです。でも血を飲んでも普通の意味では死なないんでしょう。だからこの「命があがなわれない」という意味には、特別な宗教的な意味がある筈なんです。復活できないとか、輪廻転生できないとかの。実際「魂のための祭壇」という言葉からも、輪廻を信じるヘレニズム的な不死信仰か、死んで肉体が分解しても、生命である血が混じらなければ、復活できるという信仰があったんじゃないでょうか。

 というのは一応、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記)には「来世、復活」などの信仰は明記されていないけれど、異民族支配を受けたり、様々な文化的影響をうけていますからね。ところが周辺部族では輪廻転生、復活、来世などの信仰が盛んだったから、魂の不死に関する信仰が浸透していたかもしれません。そうだとしても、血が混ざらない限りという条件つきなんです。まだ物質である血という形で命を理解していたのですね。  

 それに『バイブル』に書いてあるからといって、それを全部神の言葉で真実だと鵜呑みにする「エホバの証人」の態度こそ問題にすべきなんです。でも彼らは、『バイブル』の一字一句が神の御言葉で真理であることが大前提ですから、できれば彼らの土俵に乗っかって、その上で輸血を許容できる解釈を提示するのが、彼らに対して説得力があるんじゃないかと思うんです。だってわれわれにすれば、みすみす輸血で助かる命を見殺しにはできないですからね。でもやはりそれは困難です。エホバの証人の信徒たちを納得させるには、やはり聖書の一字一句が神の言葉であり、真理だという解釈が無理だってことを示せ ばいいのでしょうか。聖書のいろんな矛盾がありますね。「ネフィリム」の存在なんかあるじゃないですか。

 当時の科学水準が幼稚だから、血の神聖視がなされたのです。死後どんなに血が分解し変化してしまうか、他の血が混じる以上に土中でバクテリアなどの他の命に浸食されることなどを考えれば、全く信じるに値しない考えなんです。でもね「エホバの証人」にすれば、輸血禁止の解釈をすれば、信仰が実際に命懸けの信仰になるでしょう。きっとそれが狙いなんでしょう。命懸けの信仰でないと、本当に信じているという実感を持てないものでしょうから。

 信仰に命懸けになりたいからわざわざ輸血禁止の教団を選ぶという心情を想いますと、みんな本当に命を燃やして生きる生き方ができていないのだなと、感じます。そういう自分は本当に今日を悔いなく生きているでしょうか。燃焼しきれないものが心に鬱積するとだれもが危ないのかもしれません。

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