神の兵士ヤコブ
じゃあ、続きを。そしてラバンのところへ行き、井戸でその娘ラケルにあって好きになっちゃったのです。ラバンに大歓迎されて、一箇月ラバンの元で働き、報酬に何を望むか尋ねられ、「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます。」といって、七年目に結婚することになるのですが、朝になってよく見ると姉娘レアだったんです。それがね、妹を先に嫁にやるわけにはいかないというわけで、結局姉妹を両方妻にするんだけど、その為にもう七年間ラバンに仕えなければならなかったのです。
最愛のラケルはなかなか子が生めません。姉のレアは七人生み、ラケルが差し出した侍女ビルハは二人生み、レアの侍女ジルパも二人生みました。だから結局十一人も子ができてから、やっとラケルが孕んだのです。
その子の名はヨセフで、この子が実は後で大活躍するのです。それでヨセフができてからいよいよヤコブは、二十年間一緒に暮らしたラバンの元を離れ、イサクの家に向かったのです。でも心配なのは兄エサウがまだ恨んでいて、ヤコブやヤコブの妻子を殺すのではないかということです。どうも四百名を率いて兄エサウはヤコブを待ち構えているという様子です。そこでヤコブは自分たちの隊を二つに分けて、皆殺しにあわないようにし、兄にたくさん贈り物をしてなだめようとしたのです。
その夜、ヤコブに一人の見知らぬ人がきて、夜明けまで組打ちをしました。つまりレスリングでしょうね。ヤコブがその人に勝ったんです。するとその人は「おまえの名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。おまえは神と人と闘って勝ったからだ。」(第三二章、二八節)と言って、ヤコブを祝福してくれたのです。そこでヤコブは「わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている。」(三〇節)と言ったそうです。
ヘブル人の神は、「見えざる神」です。なのにレスリングをしてまともに顔を見られていますね。それにソドムとゴモラでもアブラハムやロトの家を尋ねた神は、面と向かって人と話を交わしていました。これじゃあ「見えざる神」失格ですね。「見えざる神」でないと超越神論も一貫性がないことになりますね。
「見えざる神」もいろんなバージョンが考えられるです。自然を神にできずに、部族の団結を神格化したという場合は、全くだれにも見えない筈です。でも族長神という性格だと族長にだけ現れるから、族長には見えてもいいのです。そういう場合は族長以外は見たら死ぬという話になります。ヤコブが見ても死なないというのは神から族長として認知されているということなんです。いずれにしても神が見えるというのは、超越神としては不徹底だということです。『バイブル』も「叢書」なんで元々たくさんの書を集めたものです。いろんな異質な信仰が混ざっているです。そして「創世記」も独立した書物であると同時に、エジプトに行くまでのいろんな説話を集めたものなのです。ですから後の完成した信仰の観点から一色にしてしまうのは無理があります。
ヤコブが神とレスリングをして勝ったというのがおもしろいでしょう。普通なら神が人に負けるわけがありません。ヤコブが負けん気が強いから、俺は神と戦って勝ったんだといいふらしていたのでしょうか。神に対してもライバル意識が旺盛だから、フロムのいう人間が神に迫ろうとするヒューマニズム的な神観念なのかもしれません。
それにこの場面は、兄エサウとの戦争を控えているかもしれない場面です。隊を二つに分けたし、本当に戦闘になったら勝つ見込みはゼロです。そこで俺は夕べ神とレスリングをして勝ったんだ。だからだれにも負けないし、神にも守られていると言って、みんなの士気を高めようとしたと、精神分析学的には解釈すればいいのです。それは嘘も方便でいったのか、夢か幻でそういう体験を実際にしたのか、それとも本当に現人神が出現したのか、われわれが実証できることではありません。
だから「イスラエル」という名をもらったのも、われわれは「神の兵士」だから負けないぞという意味なのです。『バイブル』の本文には神に争って勝ったから「イスラエル」と名乗るようにとしか書いていませんが、『聖書物語』には「『イスラエル』という名は『神の兵士』または『神の王子』という意味であった。」(九〇頁)とあります。(眉に唾をつけながら)どうも神はレスリング試験で自分より強い人を「神の兵士」に採用していたようですね。