血統と共通の信仰の尊重
ハランに向かう途上でヤコブは、石を枕に野宿していて夢を見たのです。夢で神が現れて、その土地をヤコブとその子孫に与え、地上の支配権を得るようになると祝福されたのです。そこでヤコブは無事父の元に戻れたら、この枕にした石を記念碑として、それを神の家とし、収入の十分の一を収めると誓約したのです。この話で神がヤコブをイサクのあとつぎに認知したことを現しているのでしょうね。ヤコブは兄を二度も謀略で陥れています。でも、なのに神の罰があたらないし、そのままあとつぎに認めてしまうというのが納得いきませんね。
この話でもフェティシズム的傾向が伺えます。石を枕にしたら神が夢枕に立って、地上の支配権を与えると約束したわけです。そしてその石を神の家とするわけですから、石自体が神ではなくて、石に神が宿っているつきもの信仰です。約束を守らないと破壊するぞと脅迫しているわけでもありませんから、ド・ブロスの崇拝と攻撃の交互運動を特色にするフェティシズムには当たりません。でも起源的にはやはり聖石信仰があったと想像することができます。もちろん後に確立したヘブライズムの超越神信仰の立場からは、フェティシズム、聖獣信仰、偶像崇拝、つきもの信仰等はすべて偶像崇拝禁止のトーラーに抵触する、極悪非道な神への冒涜にあたります。
エサウはあつものと長子権を引換えにしました。これもアブラハムの家系を軽んじる大変な罪なんです。その上、ヘテ人を妻にしてヘブル人の血統を軽んじました。だからエサウには一族を率いていこうとする責任感や意欲がまるで認められないんです。それにひきかえヤコブは、謀略によってでも長子権、族長権を手に入れようとしました。そして今、ヘブル人の血統を護る為にラバンの娘と結婚しようとしています。それで比較すればヤコブの方がまだましなんです、神にとっては。つまり神は血統と共通の信仰を重んじる正しい結婚を祝福されるという、これが結婚についてのトーラーなんです。それが物語として展開されているんです。