ソドムにおけるロトの善行
アブラムと別れた甥のロトは、ソドムの町に住んでいました。でもソドムとゴモラの町はとても評判が悪いのです。あまり悪業ばかりしているものだから、ついに神も堪忍袋の緒が切れて滅ぼしてしまうことになるのです。
神は天使を従えてソドムの町に審判に行く途中にアブラハム(アブラム改め)の家に寄られます。アブラハムは神を歓迎し、御馳走しました。神は既に高齢のサラ(サライ改め)に来年の春には子供が産まれているでしょうと祝福されます。サラはわたしはもう老人なのにといって笑って信じません。でも、神は神には不可能はないんだと言い切るのです。そして実際に子が出来てイサクと名付けら
れることになります。
それはさておき、アブラハムはロトのことが心配で神に尋ねます、もし五十人の正しい人がいてもソドムを滅ぼしてしまうのですかと。正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすようなことを神はなされないでしょうと釘をさします。神も正しい者も一緒に滅ぼすことは嫌だから、五十人の正しい者の為にソドムを滅ぼさないと約束されました。でもソドムには五十人も正しい者はいないかもしれません。それでアブラハムは、四十人が正しければいや二十人、十人の正しい者しかいなくても、神はソドムを滅ぼされないかどうか聞きたのです。相当ワルの集まりなのですね、ソドムは。こうしてアブラハムは、神に十人の正しい者がいたら滅ぼさないという約束を取りつけたのです。
神の御使いが二人ソドムの町に入って、アブラハムの甥のロトに出会います。ロトは「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まり下さい。」と貴人(まれびと)を歓待しようとします。御使い達が気品にあふれ、ロトにはやんごとないお方に見えたのでしょう。あるいはロトは貴人信仰からよそ者を神として歓待しようとしたのかもしれません。そして町の人々が見知らぬ客に危害を加えると分かっていますから、御使いを家に強いて招き入れました。すると町の連中はロトの客をなぶりものにしようと、ロトの家に押し入ろうとしたのです。なぶりものにするのがどうすることなのかは書いていません。ともかくロトは客を守る為に、自分の大切な生娘を犠牲に差し出そうとしたのです。
「実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。」・なんて無慈悲な父親なのでしょう。娘たちにすれば、お父さんに裏切られた気持ちにならないでしょうか?ところが神はこの行為を自己犠牲的な正しい行為と考えるんです。当時は娘を私物のように見なしていたので、娘を犠牲に差し出すのは、気高い行為なのです。でも私はロトも、町の連中とは違った意味で悪人だと思います。だってロトはどうも客がソドムの町を裁きに来た神の御使いだとかっているようですから、娘を差し出したように読み取れます。ですから神の歓心を買って、自分の点数を稼ぐためと思えます。
『バイブル』は神の御言葉を記していますが、実際に書いたのは人間ですから、どうしても書かれた時代の人々の生き方や考えが出てしまうんです。娘を狼達の犠牲に差し出すなんて、ほんとにぞっとします。許しがたいです。だけど書かれた当時の人倫の考え方では、娘は親の分身であり、財産でもあるわけです。だから神の為に役立つんだったら、犠牲になるのは娘達にとっても光栄なことだと、ロトは思ったのです。当時世間では、それはとても勇気のある、気高い行為と考えられていました。
実際娘達も、自分の娘を犠牲捧げる父の行為を気高いと思っていましたから、父親を恨んでなんかいません。後日談からもそれは分かります。ロトと娘二人だけが、ソドムから脱出できたのですが、山の中で親子だけで暮らしていたので、仕方無く、父を酔っぱらわして一緒に寝て、父親から子種をもらっています。家族を絶やさない必要からとはいえ、いかに父を尊敬し、愛していたか分かりますね。ところでロトの方は、全然それに気付かなかったのです。近親婚はトーラーでは厳禁だけど、子を絶やさないという種の保存の方がより強いトーラーだということが示されているのです。また精神分析的にこの近親婚物語を解釈しますと、ロトは意識的には娘に対して全く欲情を感じていなかったのですが、無意識的には強く惹かれていた事を意味していたことになります。ロト・コンプレックスです。無意識的に父親は娘と結ばれたいという衝動を持っているということですね。
ロトの善行に類する話ですが、羅貫中作『三国史演義』で劉備玄徳が山に逃げた時に、貧しい農夫に助けられ、肉を食事に出されましたが、後でそれが農夫の奥さんの肉だったって分かる話が載っています。余りに貧しくて出せるものが何も無かったのです。でも玄徳は慈しみの政治をしていたので、農夫は感謝の気持ちでどうしても御馳走したかったのです。それで奥さんの納得づくで料理しちゃったってお話です。これが中国では感動を与え続けたのです。私は感動どころかあまりに残虐な悪徳行為だと思いますが。
時代によって人間の生き方や考え方が変わるのです。昔は善行と思われていたものが、今では悪徳になる場合があるし、逆に昔は悪徳だと考えられていたものが、今では善行の場合もあります。でもそういう場合、だからいつの時代も変わらない正義とか、どんな社会でも誰もが納得できる価値などないんだ、ということで納得する人が多いんです。私はやはりそれじゃ駄目だと思うんです。ロトの行為は、神の御使いに対する態度としては立派だったけれど、娘さんに対する態度としては極悪でした。神の御使いに対する犠牲だから娘を悪者に差し出してもよいという態度は、当時だったら正しかったという意見に与したくありません。そういう当時だったら正しいという考えは、正義は多数決で決められるものだと考えていることになってしまいます。やはりいつの時代にも通用する正義かどうか、問い直す必要があるんじゃないでしょうか。
でもそういう考えは法律ができる前の事件を、その法律で裁くということで、罪刑法定主義の立場からは認められないと反論されるかもしれません。確かに遡って法律を適用するのはいけないんです。しかしそれは法律論でして、われわれが過去を問い返す場合は、倫理的に考えて問題にしているわけです。ロトの場合もそうです。もしロトの行為を過去においては正当と認めてしまうと、われわれの現在の行為も現在においてだけ正当ということになってしまいます。神の御使いに関する行為は正当でも娘に関する行為は不当だったことにして始めて、われわれは両方に関して正当な行為を選択せざるを得なくなるのです。ですからわれわれ自身の内面の倫理の法廷では、常に過去の事件も再審に付されるべきなんです。