審判の炎、ソドムとゴモラ

 ではソドムの町を滅ぼすという神の行為の正当性について考えましょう。そんなことを言うと、神の行為の正当性について議論すること自体神を冒涜することだという非難を浴びそうです。でもソドムの町を滅ぼしたのは噴火という自然の猛威ではなくて、神の審判だという判断は人間の判断です。

   そこにはソドムは神に滅ぼされて当然なぐらい悪であったという人間の審判が下されているのです。ですからそういう人間の判断の正当性は当然吟味する必要があります。そうでないと神の名においてどんな残虐な行為も、どんな冷酷な仕打ちも神の審判の代行として正当化されることになります。

  ソドムの町にこれまでロトも暮らしていけたのです。そうするとソドムの町でも、人々が暮らしていけるだけの秩序や平和が保たれていたことになります。いつも強盗ばかりみんながしていて、暮らしていける筈はありませんから。喧嘩や人殺しばかりしていると、住めなくなって人口が激減している筈です。ということは大部分の人々はまともな仕事をして暮らしていたって事になりますね。ギャング団の巣窟だというなら別ですが、それならそう書いてある筈ですね。

 いじめとか売春とか麻薬とか贈収賄だとか、買い占め売り惜しみとか、その他姦淫や同性愛など道徳的に許されないようなことでも、横行していたのでしょうか。それなら死刑にする程でもないし、罪を問う程でもないこともありますね。たとえそういうことが許されざる悪業だとしても、それを取り締まるように神は指導すべきです。法律を定め、それに違反したら捕まえて、裁判にかけて処罰したらいいのです。そういうことを面倒くさがらないで、神の威力を示してきっちり役人を監督すれば、どんな悪い気性の人々でも善良になる筈です。ひどい状態だから滅ぼすというのでは納得できません。正しい人の数ではなく、本当に殺されるに値するだけの悪人は何人いたか聞きたいですね。

 やはり『バイブル』には勧善懲悪の思想があるんです。自分たちを苦しめている悪者たちを、神がいつかは滅ぼして下さるという願いが込められているんでしょう。だから悪徳の町ソドムとゴモラが天から降り注がれた硫黄と火で滅ぼされた話で、善良に暮らしているつもりでいる人々の多くは、ざまあみろと思ったでしょうね、きっと。

  ところで、自分を善良だと思っている人に、本当はすごく悪い人っていないでしょうか?悪人が滅ぼされる話に拍手喝采する人が、真先に悪人として滅ぼされるべき張本人だってことあるでしょう。だって自分を善良だと思い込んでいる人は、自分のやってることを悪いことじゃないかと反省することがありませんからね。頭から自分は善いことをしているつもりでいます。でもある行為が善か悪かは、本当は簡単には決められないんです。

  ギロチンで悪人が処刑されると歓声をあげたり、狂喜乱舞する人がいます。フランス大革命の時なんか、公開処刑場がすごい興奮の坩堝になったそうです。人間というものは、殺人や処刑に快楽まで感じてしまうところがあるんじゃないでしょうか。ですからソドムとゴモラの炎上は、読み手や聞き手の魂をも燃え上がらせ、信仰心を盛り上げる効果がすごくあったと想像されます。

  いじめ・盗み・暴行・姦淫・詐欺・放火・殺人などの悪業は、どれも人間の欲望を好き勝手に解放したものなんです。だからそういうことをする悪者たちを生かしておいたら、人々の心に潜んでいるそういう衝動が疼いて抑えきれなくなるんです。かといって自分たちで悪人たちを殺そうとすると危険がありますし、そういう殺人衝動こそ悪人達と共有しているものですから、抑圧しなければなりません。だから、超越的な神に自分たちの代わりに悪人たちを大掃除してもらいたいのです。神による大虐殺こそ、民衆の殺人衝動を代行するもので、民衆に快感を与え、民衆の苛立ちを癒すものなのです。

  だからソドムとゴモラの炎上は神の怒りというよりも、民衆の怒りの祭典のようなものです。ソドムとゴモラはおそらく実在したのでしょう。きっと商業が盛んで、美女が裸に近い恰好で踊ったり、酒や秘薬を振る舞ったり、売春したり、いろんなギャンブルもやっていたかもしれません。そういう歓楽施設なんかたくさんあったんでしょうね。きっと素朴な農牧民からは罪深いと思われる町だったのでしょう。そんな町が火山の大爆発か何かで一夜にして滅亡してしまった。それでこれはきっと神の罰が下ったんだと、歓呼したのです。

  われわれは愛の神を期待していて、審きの神を期待していません。しかし『バイブル』の立場では、人間は悪を滅ぼす神なしでは、愛や正義に生きることは難しいのです。神がノア一家以外すべて抹殺された徹底した裁きこそ、人間が愛や正義に生きざるを得なくする為の裁きなんです。それでも人間たちは懲りないので、ソドムとゴモラの炎上が必要だったと『バイブル』は言うのです。

  悪が人間の深い業というか、消せない欲望の炎のようなもので起きるのだったら、それを神の炎で焼きつくす審判こそ、悪の衝動を抑えてきた人々にとっては、こたえられないような快楽だったのです。だから徹底した審判を行う神こそ魂を浄化し、救済するまことの神だと感じたのかもしれません。すごく恐ろしいことのような気がしますが、『バイブル』の思想を詩にしますとこうなります。

  ああ、ソドムとゴモラよ、燃え上がれ。
  天から硫黄と火が降り注ぐ、悪徳の町よ、われらが内なる悪をも燃やし尽くせ。
  罪業の大きければ、それだけその炎も勢いよく燃え盛る。
  いまはもう問うなかれ、いかなる悪が滅びに値するかと。
  ただ審きがわれわれの魂を救い、清めたもう、その喜びに酔いしれよ。

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