神の正義と人の正義  

 でも神がしたことは、方舟の乗組員になったノアの家族や一組ずつのつがいの動物たちを残してなんと皆殺しです。ホロコースト(大虐殺)の極致です。人殺しはいけないことなのに、どうして人類や動物の絶滅はしてもいいのでしょうか?神と人とは立場が違うのです。人が神になり代わって、勝手に審判だとして殺し合うのはいけないけれど、神が自分が造ったものを破壊する権利がないとすると、神は自分の創造に責任を持てなくなり、神の正義を貫くことはできないことになります。たとえば、陶器造りを職業にしている陶工は、自分が気に入らない作品は、どんどん壊してしまうでしょう。そうしないと粗悪品の製造者としての不名誉を受けなければなりません。

 でもそういう神の論理は、我々は承認できませんね。それってやっぱり優しくありません。すごく恐ろしい顔をして、わしのいうことをきけない人間ども!いい加減にしろよ!でなきゃ皆殺しにしてやるから覚悟しろ!て、どすの効いただみ声で怒鳴っている神を想像してしまうじゃないですか。とてもそんな神を好きになれません。神だけの正義じゃなくて、みんなが納得できる正義でみんなを導いてくださらないとね。

 『バイブル』では、神の正義というのが普遍的正義なんです。人間は善悪を知る木の実を食べたから、善悪の価値判断ができるんだけれど、めいめいでそれをやっちゃうから、いろんな価値判断、正義が並び立ち、それぞれ自分の考えが普遍的だと主張することになるのです。だからどの考えが正しいかはっきりさせる神が必要だということになります。

 神がこれが正しいといったら、それが正しくなっちゃうんです。それよりあなたがこれが正しいと言ったら、それが正しいってことにしましょうか。その方がみんな安心するでしょう。だってあなただったら言うことをきかないからといって、皆殺しなんて心配はないでしょうから。『バイブル』の神の普遍性というのは、みんなが納得できる普遍性じゃないみたいですね。だって神の場合は、俺の言うことはなんでも聞けという暴君の普遍性のようですから。

 でもね、隣人への愛を忘れて私利私欲で、隣りに飢え死にしそうな人や凍え死にそうな人がいても、ほったらかしにするようなのが普通の世の中になったらどうでしょう。治安が悪くなって、安全に暮らせなくなったり、公害や地球環境破壊がますますひどくなり、戦争だってしょっちゅう起こることになります。そういう人間たちなら、せっかく神が造った地球環境を台無しにしてしまうし、自業自得でやがては自滅してしまうでしょう。とはいえ、自滅するのなら、神の審判じゃありません。たとえ人類が絶滅しても神にやられたと、神をうらむことはなくなります。ところが『バイブル』の神は、人格というか神格というかそういう主体的存在なので、自分の意志で罰を下されたことになるのです。そこでどうしても神にやられたと神に反発することになります。

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