神の見えざる手と審判 

 アダム・スミスは客観的な理性としての神を説きました。市場経済の原理は、めいめい が自分の私利私欲に基づいて行動すれば、後は「見えざる神の手」が働いて、上手い具合に調節して、社会の富を一番効率的に増やしてくれるんです。みんな勝手に自由に自分の利益を追求しろと言いながら、利己主義は駄目だって言われても納得いきません。スミスは利己の追求を自由に放任してこそ神の働きが邪魔されないで、みんな幸福に成れるとしたのです。もっとも、アダム・スミスの『諸国民の富』での経済内部に機能する自動調節作用としての「神の見えざる手」は、自然や社会の法則としてはたらく理性としての神な んです。だから超越的な『バイブル』の神とは違います。

 それに自由放任主義だけではかえって「市場の失敗」が起こります。公共的な部門、電 気・水道・治安・教育などでは効率が悪くなり、貧富の差も激しくなり、社会不安も大きくなります。だから市場経済の原理だけで経済を運営するのは無理です。相互に協力し合う体制づくりが、自治体や国民国家、今後はグローバルな国際的経済機構を通しても行われる必要があるんです。そういうグローバルな協力体制を生みだせるのは、そうしなければ人類の存続だって難しいという地球の危機を自覚するからなんです。この危機を自覚して、人間は自らの身勝手さを反省し、相互に協力し合えるし、自然や生物たちとの正常な 関係を取り戻せるんです。

 「ノアの方舟」の時代だって、隣人同士愛し合い、協力し合ってやってないと、獣から 町を守ったり、外敵の侵入を防ぐことはできなくなったんです。放っておくと、それぞれの部族は滅んでしまうのです。人類だって絶滅しかねません。そうした危機を神の教えに従わなかった報いとして、これを神の審きと受け止める必要があったのです。だから神に人類を滅ぼす権利があると考える事にしたんだと思われます。そして残念な事に、人間は人類を絶滅させられかねないような恐ろしい神の審判で脅迫されないかぎり、自分の罪を反省できない程に身勝手で、自分の利益や享楽しか考えないという傾向も持っているんで すね。『バイブル』を書いた人はそう考えたのでしょう。

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