罰としての労働

   最後にアダムに判決が下ります。『バイブル』では「人」なんです、アダムは。エバは 「女(人から)」なのに。つまり女はちゃんとした「人」と認められていないんですよ。単なる人の「助け手」として、人に与えたものとして扱われています。だからアダムに対する判決が、人間の原罪に対する一般的な判決に当たるんです。「おまえのゆえに、地は呪われるものとなった。おまえは生涯食べ物を得ようと苦しむ。おまえに対して土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするおまえに。おまえは顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。おまえがそこから取られた土に。塵にすぎないおまえは塵 に返る。」

 大地がアダムが犯した罪によって呪われた大地になって痩せてしまい、穀物の成育が悪くなります。今までは、エデンの園では果実がたわわに実り、労働の必要がなかったのですが、その時からは痩せた大地を耕して水を引き、いばらやあざみ等の雑草を刈り取り、不作の時は雑草も食べて命を繋ぐがなければならなくなったのです。そして苦労の末なんとか生命を保てても、寿命が来て、土に帰ってしまうことになりました。

 結局人間は神様のような姿はしていても、生涯原罪を償う為の労役に明け暮れて、やがて疲れ果て、弱って死んでいく、そして土に帰ってそれでおしまい、ということになったのです。これじゃあ人間は原罪を終身労役刑で償うだけの存在だとということになってしまいますね。それにアダムとエバが犯した罪をどうして子々孫々まで償い続けなければならないのでしょうか?

 今でも中南米の密林等にナマケモノという猿が住んでいて、全く労働なんかしないで、のんびり暮らしています。人口や欲望さえ肥大させずに、最も効率的にカロリーや栄養源を道具を使わずに補給できる環境さえ造れば、労働の必要はありません。だから『老子道徳経』では文明を一切否定して、欲望を最小限にし、小さな村で閉じ籠もって暮らすのが理想だって言ってます。いわゆる「小国寡民」ですね。文明ができるとピラミッドや万里の長城や大宮殿ができます。だって文明というのは権力の強大さを誇るためのものだから、大きいものをつくるんです。宮殿の周辺には人が大勢集まり、大きな都市ができ、さま ざまな文物が集積され、交換されます。美味しいもの、綺麗なもの、珍しいものがいっぱい集まって、人間の欲望はどんどん膨れ上がってしまいます。

 でも都に集められた富を消費できるのはごく一部の特権階級だけです。残りの大部分の 民衆は、そういう連中の欲望を満足させる為に、莫大な富を生産しなければなりません。そしてその生産機構にうまく組み込まれないと、今日一日の生活資料も手に入らなくなるのです。そこで「労働する人間」の登場です。働いて、働いて、働いて、働きづめで死んでいくのが人間の本質になってしまうんです。

 実際はこれは神の罰というより、安定的で抑圧的でない社会機構をどうしたら造り出せるか、生産力の無理のない発展と欲望の肥大化をどのように調整するかという難しい問題なんです。宗教は解決困難な問題を神に対する人間の原罪とその償いとして説明して、悲惨な現実を運命だと受け入れさせる効果があるんです。つまり悲惨な現実を自分たちの身に覚えがないけれど、先祖から背負ってきた罪のせいにさせられちゃうわけです。それで諦めがつくのでしょうか?皆が同じように苦しんで労働しているのなら、まだしも諦められるかもしれませんが、貧富の格差が大きくて、労働しなくて豪勢な暮らしをしている人 もいるのに、自分たちは悲惨な労役に耐えなければならないとしたら哀れですね。

 アダムとエバが犯した罪を、どうしてわれわれが償わなければならないかという問題がありましたね。原罪の問題を「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」など日本が過去に犯した過ちを、われわれ戦後生まれの日本人が償う問題に応用してみればどうでしょう。わたしは個人としては、全く責任は無いと思います。でも日本という国家は続いているのですから、国民としては国家の罪を償う責任は認めなければならないのです。同じ国家の構成員として過去の日本人と現在の日本人は、同じ日本人なんです。少なくとも被害を受けた側の国民はそう思っています。さてどれだけの償いをできたでしょうか?中国や朝鮮(韓国)の 人々は、充分償ってもらえたと思っているでしょうか?

 それが全く思ってないんです。だって中国政府は賠償請求権を放棄したし、韓国政府は五億ドルの経済援助と引換えに解決済にしてしまったのです。でも戦争被害者には一円も賠償金は支払われていないんです。だから中国や韓国の人はやっぱり日本人を恨んでたのですね。たとえ多額の賠償金が支払われても、虐殺された人々の生命は帰らないし、屈辱の日々は決して贖われない。その思いは子々孫々に語り継がれます。恨みが現在や将来の日本人に向けられることになるのです。そういう悪感情がどんな痛ましい悲劇を生まないとも限らりません。

 ではそのことと、アダムとエバの罪が原罪としてわれわれにのしかかることと関係ある のでしょうか。神にとったら男はみんなアダムだし、女はエバなんです。そういう面がどうしても残るんです。つまり人類という全体を神は見てるわけです。ちょうどわれわれが世界史、人類史を振り返るように。そしてアダムとエバが犯した、神から離れ、神に背くという罪を人類はきちんと贖っただろうかと考えると、相変わらず、神から離れ、神に背き続けているんじゃないだろうかという気がしませんか?

 ではそれは不信仰という意味でしょうか?確かに不信仰が罪だとしたら、わたしも神の実在は疑わしいと思っています。でもそれはわたしの罪じゃありません。たくさんの宗教があって、どれが正しいか断定できないこともありますし、科学的な知識によって、天上界だとか神の国とかの存在が、迷信としか思えないようになってしまっているからなんです。そういうのをすべてきれいさっぱり無くして、それでも神よ、あなたを信じます!って叫べるような、奇跡とか特別の宗教的体験を与えてくれなくっちゃ駄目なんです。

 でもそれこそ神から見れば、人類全体が罪深いということになります。それに愛に生き るようにという最低限の教えだって守っていない人が多いんです。世の中醜い争いだらけですし、自分の私的な利益の追求に汲々とし、その為に人を騙したり、蹴落としたりしようとしています。ということは原罪というのは、濁った世の中で人間が生きていくことによって、繰り返し犯さしてしまうような、どうしようもない罪なのですね。アダムとエバはその典型で、罪の鏡みたいなものなのです。でもその為に人生が懲役刑のようになってしまうのは納得できません。

 同じ労働でも、私利私欲の為に自分の生活や金銭欲のために働くとしたら、当然それは犠牲でしかなく、懲役のような強制されたものになってしまうのです。ということは利己主義という罪に堕ちているから懲役になるので、愛の実践として働けば懲役とは感じないということなのです。みんなの幸せのためとか、自分の能力を実現して社会に貢献するために働けば自由な充実した時間になるということですね。

 自分に合った、自分の好きな仕事ができればいいんですが、現実はそうもいきません。そこで生活の為に我慢して、嫌な仕事をしている場合が多いのてす。だからいやいや働かされている人に、皆の為になるから喜んで働きなさいというのも酷ですね。でもね、いつまでも「エデンの園」に居て、何も働くこともなく、自然に融合して暮らしてるだけなら、それはナマケモノと変わりませんね。それこそ何も認識する必要はないし、殊更考えることもありません。人生の意味に思い悩むこともないんです。神に背いて、楽園から追い出され、痩せた土地と格闘して、命を削って働いてこそ、生きる意味、働く意味、人を愛す る意味、人生の喜び悲しみが味わえるわけです。つまり労働も宗教的にはエゴを捨てる「勤行」なんです。そういうように開き直りますと、自分自身の営みが自然に対する神の営みと一体化して、宗教的な法悦が味わえるそうなんです。

 もちろん私もまだそういうとこまで達してはおりません。もっとも私は働くのはいやじゃないんです。ただそれできちんと家族に対する責任が果たせていないのが心苦しいところです。ところで神に対する信仰も、直接神の懐で神と対面しているようなエデンの園では、神の存在は疑う余地はありませんから、まだ生まれていません。神に見放された「エデンの東」の痩せた大地との苦闘の中でこそ、本物の絶望や希望そして不信仰や信仰が生まれるんです。エデンの園ではまだ本物の人間は誕生していません。だから子宮の中のようなものなんです。エデンの東に追放されて、そこに本当の人間が誕生するんです。それ は土にまみれて働き、土から生まれ、土に帰る有限なか弱い、しかし生きる意味と愛の救いを求める存在なんです。

 労働を何か神の罰のように考えるのは、すごく辛いことですね。できれば労働こそ自分の力が発揮でき、社会に貢献できることだから、一番のいきがいのように感じたいじゃないですか。だから若い内に自分にあった仕事、一生続けても悔いのないような仕事を見つけることが大切なんです。これからは女性も家庭を守るだけではやっていけなくなりますから、自分の一生の職業を決めて、それに就けるよう頑張らないといけません。

 「わたしは小さい子供が好きだから、幼児教育ができたら楽しいだろうと思ってるの。もちろん辛くて苦しいこともたくさんあるでしょうけれど、楽しいこともいっぱいあるでしょう。」とうちの娘は言ってましたが、このように具体的に目標の定まっている人は、自分で決めたら、自分で努力することです。本気でやりだしたら、きっといつかは実現できます。

 では「あなたは塵だから塵に帰る。」というのはどういう意味でしょう?死んじゃったらお終いという意味でしょうか?そしたらどうして神を信仰する必要があるのでしょう?元々『バイブル』の古い思想には、後で出てくる死後の審判・復活も、来世における神の国の到来も、天国の思想も、いわゆる今日宗教的救済といわれるようなものはなにもないということです。だから素朴に「あなたは塵だから塵に帰る。」とあれば、その字句どおりの意味になります。しかし天地創造の「創世記」は、全体としては神を唯一絶対の超越神と捉え、全知全能と考えていました。そして神との契約を守ることで、イスラエルの栄 光がもたらされるという信仰はあったのです。

 つまり個人の救済より、民族的な救済の方がウエイトが大きかったのです。その解放の 時のイメージが広がって、義人は審判の際に復活するというようになり、来世思想が展開されることになりました。そうなると塵に帰っていた体が再び骨・肉・皮を取り戻して元の体に復活されるとされたのです。ですから元々は、ヤハウェは現世におけるイスラエルの守護神だったのです。そしてイスラエルの栄光をいつかもたらす神だったのです。それがバビロン大捕囚以後はなかなかイスラエルに栄光を現わしません。栄光は自分たちの生きている時代には無理だということで、その審判の時が来たらぜひぜひ我々を死から復活 させてほしいと願うようになり、来世信仰になったのです。まあ全知全能で不可能ということはないんですから、塵に帰っても復活可能ということになる理屈です。

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