ノアの方舟・何故神は裁かれたか?
ところで天地創造から「ノアの方舟」までは何年かかっているのでしょう。アダムがセツを生んだのが百三十歳、セツがエノスを生んだのが百五歳、エノスがカイナンを生んだのが九十歳、カイナンがマハラレルを生んだのが七十歳、マハラレルがヤレドを生んだの
神はいったい何に怒って人類を全部、ノアの家族を除いて滅ぼされることになったのでしょうか?それがね、どんな凄い悪業が告発されてるかと期待して読むと、すごくあっさりしか書いてないのに、失望します。
第六章、第五節「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を傷められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』しかしノアは主の好意を得た。」第十一節「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。」
要するに、「悪い」「堕落している」「不法に満ちている」というだけなのです。その内容が知りたいですね。どんな悪い事をしていて、それがどの程度だったのか。現代と比べてもすごく悪かったのか。それに人間が悪いとどうして動物たちまで滅ぼされるのか、この点が納得いきません。とんだとばっちりじゃないですか。
カインがアベルを殺した時、神はカインを追放して放浪者にしたけれど、殺すようなことはしませんでした。最初の殺人だったということを除けば、どんな理由が考えられるでしょうか。それは神がアベルにひいきしてカインの存在を無視したからです。それで少しは神も責任を感じていたからです。ところがノア一家以外の人間たちは、神の審判が甘かったのに高を括って、神を無視して暮らしていたんです。神を無視して否定するなら、神も人を否定するということになります。これが『バイブル』における審判の論理です。
神は人間を自分に似せてつくったんです。だから人間をこの上なくいとおしく思っています。そして人間たちに、神に造られたことを常に感謝し、清く正しい愛の生活をおくって欲しいと願っていたのです。ところが、人間は恩を仇で返すように、神をシカトし、汚れた行いに溺れ、互いに愛し合うのではなく、自分の欲から騙し合い、憎しみ合っていたのです。カインのように肉親さえ殺しかねない。すきあらば他人の足を引っ張って、自分が這い上がろうともくろんでいました。それほど大袈裟に考えなくても、我々の日常の心
どうして人間を創造した神がこういう人間たちのあさましさや暴虐を見過ごすことができようかと怒ったんです。人間は神に造られたのだから、あくまで神の御心に叶うことで存在することが許され、神の御心に背けば存在することは許されないんです。この原理を人間が確認してはじめて、神と人間の関係が成立するということなんです。つまり神は人間が神をシカトし続ける限り、人間が生まれつき生きる権利があるってことを、認めないのです。