人間対動植物、そして魂の不滅について
ところで神は何から最初の人間アダムを造られたのかご存知ですか。第二章、第七節。「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」人間については土から作ったとはっきり書いていますが、動植物のことは書かれていませんね。それに動植物を作った時には「命の息」の吹き入れについても書いていないんです。これは動植物と人間とがまるっきり断絶しているって事なのでしょうか。
ギリシア思想をヘレニズムと呼び、『旧約聖書』に書かれた思想をヘブライズムと呼ん
でいます。ヘレニズムとヘブライズムを自然神信仰と超越神信仰として対極的な信仰と考えるか、『旧約聖書』にも中に両方の要素が入っていると考えるかで、解釈は違ってくるのです。「命の息」を輪廻転生する魂のことだと解釈しますと、ヘレニズム的な信仰になります。つまり肉体は滅んでも魂は不滅だということになるんです。これではヘブライズムの立場から見れば、神と同様に人間も魂としては不死だということになり、人間を神化して超越神を否定することになってしまいます。
じゃあキリスト教は、超越神論だから不滅の魂を説く教えじゃなかったのでしょうか。
不滅の魂を信仰するから、死んでも天国に行けるとか、永遠の生命を信仰できるのですよね。キリスト教はヘブライズムとヘレニズムの融合と見られるので、そこが微妙なんです。ヘブライズムでは「お前はそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記、第三章、第十九節)・とあります。神から吹きこまれた命の息は永く止まりません。命の息が抜けてしまうと死んでしまうのです。命の息を不滅の魂と捉えると、自己は肉体よりもこの命の息だとなるところですね。しかしバイブルでは、人間はかえって「ちり」
や「土」や「肉体」として捉えられているんです。
じゃあ、少なくともユダヤ教では、人間は死んだら土に帰って、それでおしまいだとい
ってるわけなのでしょうか。実は『バイブル』では死後人間が天に昇った例は、『新約聖書』のイエスしかいないのです。でも彼らは神との契約を信じています。神との契約を忠実に守り抜けば、神はイスラエルの栄光を実現して下さる筈なんです。それに奇跡を信じ
ていて、神の辞書には不可能という文字はありませんから、義の為に生きた人々は、いず
れ死後の審判の時に甦らせてくださり、不死の楽園に導かれる筈だという信仰を持っているのです。
それならいつになるか分からない審判まで無ですね。でもキリスト教では死ぬことは神
に召されることで、かえってめでたい事だって言います。これも矛盾した話ですね。キリスト教の葬式に行くと、牧師さんは死についていろんな説明をされます。「神に召されたのだから、残された者には寂しいが本人の為には祝福すべきだ」とか、「人間はちりらちりに帰るのだ」とか、「神は全能だから必ずさばきの時に甦らせて下さる」とか、バイブルのあちこちから矛盾した言葉を引いてくるんです。そして結局はイエスの次の言葉を信じるように言われます。それは『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」第一一章、二
五節の言葉です。・「わたしは復活であり、生命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも、決して死ぬことはない。」・だからイエス・キリストを信仰することによって、彼が死を克服して甦ったように、死を克服できるというのです。魂の輪廻転生説とはやはりだいぶ違いますね。
ヘレニズムでは輪廻転生する魂は、動物や植物にもなります。それに対してヘブライズ
ムでは動植物は人間の為の食糧源や家畜としか捉えられません。ヘブライズムのこの人間中心主義はすごく傲慢な気がしますね。そしてヘブライズムでは動植物に魂を認めないので、全く動植物の生命の尊厳を認めません。デカルトは動物機械論を唱えました。デトによると動物は神が作られた精巧なエンジンつきの自動機械なんです。人間の身体もその意味では同じ自動機械なんです。ただしデカルトに言わせますと、人間には思考する主体としての霊魂が宿っているのです。彼は霊魂の主座を、頭のてっぺんの松果腺だと推理
しました。全体液が必ず頭のてっぺんの松果腺を循環して、すべての情報が伝えられますから、そこに魂がはりついていれば、判断が可能だからです。こういう傾向に対してイギリス経験論は否定的です。ホッブズは人間の霊魂を身体のはたらき以上に考えることに猛反発しているんです。
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