エデンの園 

 神は人間を作られてから、人間が快適に過ごせる環境としてエデンの園を作られたのです。第二章、第九節「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、さらに園の中央には命の木と、善悪の知識の木とを生えさせられた。」そして神はこう人に言いまた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 あれ、命の木の実は禁断じゃなかったのでしょうか? 書かれてませんが「命の木の実」も禁断だったんです。この禁断の木の実の話は、〔エデンの園の中央には命の木と善悪を知る木があった。〕という話と、〔善悪を知る木の実を食べてはいけないという禁令を犯したので、エデンの園を追放された。〕という話と、〔神は命の木の実を人間に食べられるのを恐れた。〕という話が別々に作られて、まとめ られたと考えればいいんです。そういう風に『バイブル』誕生の謎を解く「聖書学」という学問があるそうです。

 「善悪の知識の木」を食べちゃって賢くなると、「命の木の実」の取り方も考えつくかもしれませんね。それで神は恐れたかもしれません。でもどうして善悪を知る木の実をわざわざ作っておいて、食べるのを禁じたのでしょう。どうせ禁じるのなら、エデンの園にはそういう木は植えなければ良かったのに、そう思われませんか。ほんとに神は罪作りですね。だから本当は、神は人がそれを食べることを期待していたのではないかって、精神分析学的に勘繰られているんです。

 子供が誕生しますと、最初は笑ったり泣いたりするだけで罪がないですよね。それがだんだん成長してきて、言葉を覚え、智恵がついてくると、親の思い通りにいかなくなります。わがままばっかりいったり、親に反抗したり、悪たれをついたりしだします。だから親という者は、子供は幼いままで、初な心のままでいて欲しいと思うものなんです。でも成長しなければしないで、これ程心配なことはありません。やはり自分の頭で善悪の判断がつけられる一人前の人間になって欲しいものです。それがたとえ親を裏切り、反抗して、家庭から出ていくことであってもね。

 ということはエデンの園は過保護の幼児期に当たるんですね。欲しいものは何でも与える状態ですから。ただ、善悪の判断を勝手にしちゃいけない、そういう時はお父様である神様に聞きなさいということなのです。ですからこの「善悪を知る木の実」は「智恵の木の実」じゃないんです。「善い悪い」の価値判断と「ああすればこうなる」の知的判断は違うでしょう。昔から神が食べたらいけないと言ったのは「禁断の智恵の木の実」と思われていて、物事の客観的な知的認識それ自体が神に対する罪に当たるんじゃないかと誤解されてきました。だから科学技術が発達することは、神が隠した秘密を暴くことで、神へ の冒涜に当たるという非難があったんです。

 そういう批判に対して、フランシス・ベーコンは『ノヴァム・オルガヌム(新機関)』で反論しています。ベーコンによりますと、神が禁じたのは、勝手な道徳的善悪などの価値判断なんです。もし一人一人が自分で善悪を判断しちゃうと、それぞれ別の価値体系を持つことになってしまいますね。各々が自分の道徳的良心に従って行動したら、善意故に傷つけ合い、殺し合うことにもなりかねません。そこで道徳的価値判断は神に任せ、神の定めたトーラー(律法)に無条件に従っておけばよいということになります。

 それに対して事実についての知的判断が正しいかどうかは、実験、観察や効果について調べればはっきりすることだし、知れば知るほど生活が改善されるとベーコンは考えたのです。それで彼は、神が隠した創造の秘密を知ることは、それによって神の創造の偉大さを賛美することだと主張しました。

 でも人間にとって便利なように自然を改造する科学的な知には、とても恐ろしいところがあります。だっていつもある決まった目的からしか物を見ていないでしょう。その目的には役に立つかもしれないけれど、それによって変化させられた自然がどのような副作用を伴うか、初めから分かっているわけではないのです。この危惧が当たって、今では、この道具的理性が地球を深刻な環境危機に追い詰めているわけなのです。だから便利なものをどんどん生み出そうとする科学技術も原理的に反省すべきです。  

 それに各自が価値判断をしてはいけないというベーコンの考えも、怖いですね。神による価値の一元化と絶対的な専制支配になってしまいます。神の支配といっても、実際には神と交信できると称する特権的な司祭や預言者の独裁になります。地上の権力者が神の権威を笠に着て、専制支配をおこなうことになりかねないのです。でもみんながばらばらな意見になってまとまらなくなると、人間は一人一人になって、衰退してしまいます。やはり意見を喧嘩ごしじゃなく、しかも対等な話し合いで一つにまとめるシステムが必要なのです。

 そこで共通の価値観を共有していない者同士でも、はたして対話が可能なのかが問題になっています。現代は急速にグローバル化しつつあり、異質の価値観に基づく文化が地球上の到るところで混ざって住み始めました。それでかえって文化の衝突が懸念されているんです。特に宗教は教義や教団にこだわって排他的になる傾向が強いですね。だから対話によって、対立を緩和するのが難しいのです。宗教的な教えが正しいかどうか、客観的に証明できるわけじゃないでしょう、だからお互いに譲れないわけです。それに奇跡や預言といった理窟を超えた部分を含めて信じ込んじゃってますから、余計にこじれちゃうみた いですね。

 でも交通や情報の発達によって、異文化が接近し、混住しているってことは、やはり異 質な文化間の相互理解、融合が進むということなんです。宗教も互いの教義を学び合い、欠陥を是正し合うチャンスなんで、排他的な態度を取り続けると、孤立してしまいます。グローバルな世界市場統合と地球環境の保護、集団安全保障体制の確立、資源・食糧の確保などを考えると、もう国民国家の時代は行き詰まっていて、グローバルな政治的統合が必要な段階にきているんです。その際、宗教的紛争でみんな台無しにされたのではたまりません。オウム真理教事件や各地の宗教紛争を反省材料にして、各宗教が自己の教義の排 他性、攻撃性、残虐性を点検し直し、他宗教との相互理解、和解を進めるべきなんです。

  

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