第三章、ヘブライ王国建国の物語
第一節、エジプト大脱出劇
モーセとは何者か?
ついに「出エジプト記」に入ります。イスラエルのエジプト大脱出劇(エクソダス)は 『旧約聖書』の最大のヤマ場であり、この輝かしい勝利の物語が、ユダヤ人のアイデンテ ィティの核を作っているのです。唯一絶対の超越神という神観念や契約神という捉え方も 出エジプト説話と深く係わっています。つまり神とは何か?イスラエルとは何か?を問い ながら、砂漠へイスラエルの群衆は向かうのです。神よ!モーセとイスラエルの民を乳と 蜜のしたたる緑の沃野に導きたまえ、アーメン。あ、いけない、嵌まっちゃった。
ヤコブたちが招かれてエジプトに移った時、イスラエルの一族が総勢でいくらいたかは っきりしませんが、おそらく数百人規模でしょうね。それが国に満ちるようになったそう ですが、結局モーセに率いられてエジプトを出たの何人ぐらいだったのでしょう?
第一二章、三七節「イスラエルの人々はラメセスを出立してスコトに向けて出発した 。一行は妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。その他種種雑多な人 々もこれに加わった。羊、牛など家畜もおびただしい数であった。」
政治集会などの人数は主催者発表と警察発表には大きな食い違いがあります。壮年男子 だけで六十万人だと総勢百万人を優に越えることになります。これはモーセ側の数字です からその半分や場合によってはその十分の一程が実態だったかもしれません。「実際は数 千人規模だった」とある研究書もあります。一度だけの大脱出だったのか、じょじょにエ ジプトから脱出したのかによって違ってきますし、後にカナン地方に進入していった仕方 によっても違ってきます。
何年の間にそれだけ増えたのでしょうか?四三〇年の終わりになった日に、「主の全軍 」つまりイスラエルはエジプトを出たということになっています。四百年もあれば、どん どん増えてしまいます。それでヨセフを知らない新しい王(ファラオ)は、イスラエルが 強大化して、エジプトの実権を掌握するようになることを恐れました。イスラエルの上に 監督をおき、重い労役で苦しめたのです。漆喰こね、れんが作りおよび田畑の務めなどで す。それからヘブル人のお産を手伝う助産婦に命じて、男の子なら殺し、女の子なら生か しておくようにしました。ところが助産婦は神を恐れていたので、男の子も殺せなかった のです。
そういえばオウム真理教の医師が自分は生命を救うことを務めとする医師なのに、尊師 の命令とはいえ、人の生命を奪わなければならないので大変苦しんだと告白しています。 この世に生命を迎え入れるのが天職の助産婦なんですから、それが長男を殺す仕事を強制 されたのじゃあ、とても辛かったのでしょうね。
そこですべての民に命じて、ヘブル人の男の子を川に投げ込ませたのです。レビの家で も男の子が生まれて隠し切れなくなり、パピルスで編んだかごに男の子をいれて川に流し ました。それをファラオの娘が拾って、「モーセ」と名付け、自分の養子にして育てたの だと「出エジプト記」ではなっています。ところが、あの精神分析学の創始者フロイトの 解釈では、モーセは生粋のエジプト人の高官だったというのです。フロイト最晩年の「人 間モーセと一神教」という論文にそう分析されているのです。まさか、どうしてエジプト 人が、わざわざユダヤ人の為にエジプト人の多くを犠牲にしてまでエジプトから解放する ようなことをするのかと思いますね。
フロイトは精神分析を「ユダヤ人」という民族に適用したのです。フロイトの分析によ るとこうです。モーセはエジプトで起こった太陽神アートンの一神教を布教する仕事をし ていました。だがその宗教改革の推進者のアメンホテブ四世(イクナートン)が亡くなっ てから、エジプトでは廃れてしまったのが悔しかったのです。そこでモーセは、ヘブル人 をエジプトから解放してあげる代わりに一神教を押しつけたということなんです。
ところが一神教は自然を神にして祈ってはならないという掟なので、なかなか定着しま せん。トーラーが厳しすぎるので、猛烈な反発が起こり、ついにモーセは殺されてしまっ たのです。でもねモーセはなんといっても「エジプトの悩み」から解放してくれた大恩人 です。とんでもないことをしてしまった、ということになりました。すごい罪の意識に襲 われたというのです。そこで自分たちが民族の父モーセを殺したという事実を忘れ去り、 否定しようとしたのです。その為にはどうしたらいいでしょう。
さあ坂本弁護士一家の時のように、死体を山中に埋めてしまって知らん顔をするとか。 でも、それって他人はごまかせても、自分自身はごまかせませんね。自分自身をごまかす のはどうしたらいいでしょうか?自分がやったことを自分はやってないってごまかす方法 です。そんな自分勝手なことできるのでしょうか。それはモーセの教えをひたむきに実践 することです。厳しいトーラーを厳密に守り抜くことによって、自分たちはこれほどモー セの教えを守り、信仰しているのだから、モーセを殺した筈はないじゃないかと自分に言 い聞かせることなんです。
でも、この話にはモーセがユダヤ人でないという根拠が必要ですね。モーセはヘブライ 語がほとんど話せなかったことが状況証拠になります。それで兄とされていたアロンが、 モーセの話しや命令をすべて通訳していたことも納得できます。「出エジプト記」ではヘ ブライ語ができない理由は、エジプト人であるファラオの娘に育てられたからだとされて います。もちろんそれが通説です。フロイトの解釈はかなり特殊です。
フロイトは彼自身ユダヤ人の出身ですから、ユダヤ人の民族的運命悲劇には深い関心が あったのです。ユダヤ人はどうしてこんなに何千年も迫害され続けなければならないのか というテーマです。それはもちろんユダヤ教という排他的な宗教にこだわり続けてきたか らです。じゃあ何故迫害される原因であるユダヤ教にこだわるのでしょうか。そりゃあ、 信仰しているからですね。でもなぜ信じるかが問題です。それに答えるのはむつかしいで すね、だって信仰というのは、神の方から気がついたら自分の中に入ってしまっていると 言われていますから。
フロイトの分析では、モーセの一神教を信じるという形ではモーセ殺しの罪を贖えませ ん。罪を贖うって、どういう意味でしょう?代償になる犠牲を払って、罪をチャラに、つ まりなかったことにしてもらうことなのです。イエス・キリストは人類の罪を贖ったと言 われています。この人類の罪というのは神に背いて禁断の木の実を食べたことだったのな ら、原父殺害は冤罪です。
でも禁断の木の実を食べたというのは事実というより、あくまで想像上の罪です。フロ イトは、本当の原罪を民族の父モーセに対する原父殺人にあると推理しているのです。こ の罪をキリスト教はキリストの十字架によって贖罪しました。ところがユダヤ教徒はユダ ヤ教によって、原父殺害を否定したので、それを贖うことすらできないことになってしま ったのです。そこで彼らはユダヤ教という排他的信仰を守り続け、それによって迫害され 続けることによって、罪を隠し続けなければならなかったと解釈しているのです。
なんだか頭がパニックになりそうですね。だってキリスト教もモーセを殺したことは認 めていませんし、ユダヤ教徒もトーラーを守って罪を償い続けているんだったら、三千年 償えばもう充分じゃないかと思いませんか。フロイトが言うには、キリスト教は、庶民が いくら代償を払い続けても無駄で、聖なるキリストの死によってしか贖えない恐ろしい罪 を犯したという潜在的な罪の意識を持っていたのです。この意識にしっかり応えているか ら、あとはイエスが本当に救い主キリストであると認めるかどうかだけが問題なんです。 でも、ユダヤ教はトーラーを遵守することによって、罪を隠し続けているだけで、本当の 償いになっていないということなんです。
じゃあ、イスラエルのヤハウェ信仰というのは、モーセ以降の信仰なのでしょうか?ヤ コブ以前の信仰のお話はみんな後からの創作なのでしょうか?「創世記」は紀元前六世紀 バビロニア大捕囚以降にできたようです。「出エジプト記」もその頃といわれていますが 、紀元前一二五〇年頃にエクソダス(大脱出)を指導したモーセ自身が書いたものも含ま れているという説もあります。ともかく史実とトーラーである「出エジプト記」にはかな りのずれがありますので、フロイトのような大胆すぎる推理も生じることになります。で もイスラエルのエジプトからのエクソダスは、世界史的な大事件ですからエジプト側の資 料で裏付けがとれそうに思いますね。それがエジプトの記録からは一切抹殺されているの です。それでモーセ非実在説も含め諸説紛々なんです。ともかくヤハウェ信仰の大集団が エジプトを逃れて、カナンに定住し、かなり経ってから古代イスラエル王国を建国したこ とは確かでしょう。
「エジプトの悩み」から百万を超えるイスラエルの民を導き出そうというモーセ、これ は巨大なプロジェクトです。まかり間違えばみんな砂漠で野垂れ死になのです。神が力を 与えない限り、モーセにはどうすることもできないことだ思えたことでしょう。ヤハウェ はエジプトの神々と技を競い、エジプトに大いなる災いをもたらして、エクソダスを強行 させました。カナンへの道のりは近くて遠いのです。百万の民を飢えさせない方法はある のでしょうか。神を疑うなかれ。神は全知全能である。でも本当はどうしたんでしょうね ?