神の名は?「有りて、有る者」

 モーセは成長して、屈強な若者になりました。エジプト人がヘブル人を労役で鞭打つの を見ていて、いたたまれなくなって、エジプト人を打ち殺し、ミデアンに逃亡します。そ この祭司リウエルの元で娘チッポラを妻にして平和に暮らしていたのです。

   王の代は変わ っても、イスラエルの民の苦役は続きました。うめき叫ぶ声が神に届いたのです。モーセ は、羊の群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきました。この山の別名をシナイ山と 呼びます。ここで神がモーセと交わす契約を「シナイ契約」と呼ぶのです。

   そこでモーセ は不思議な光景を見ました。なんと芝が燃えているのです。しかもいくらたっても燃え尽 きないのです。そしとそこからなんと神の声がするのです。どうして神が芝の中にいるかってことを暫し考えますと、どうも芝のようなだれも注目 しない、山の中に埋もれた、つまらないように見えるもの中にこそ聖なるものがあるということのようなんです。でもそれがどうしたというのでしょう。それがこの偉大なエクソ ダス劇と関係するのでしょうか?

   トケイヤーの説くところではこうです。ヘブル人は、当 時はエジプトでは見捨てられた奴隷の境涯だったから、芝のようにつまらない、虫けらみたいな存在だと思われていたのです。ところが真の神は実は芝の中におられるのです。エ ジプト人に付くのではなく、芝のようなヘブル人の中にこそおられる、そう言いたいので す。また芝と火が一緒にいては普通なら燃え尽きてしまいますね。でも神の平和によって いつまでも燃え尽きることがないのです。イスラエルにとって世界平和は、イスラエルが 燃え続ける条件だというわけなのです。

  本当にそういうように平和的にイスラエルが存在すればいいんですが、イスラエルこそ力で侵略し奪い取ろうとするところがあるんじゃないでしょうか。もっとも力で奪っても 長続きしないものです。定住すると豊かにはなりますが、軍事力や統率力が弱まって、外 敵にやられてしまいます。今日の中東問題でも、やはりイスラエルにとっても平和が存続 の条件なのです。ともかくイスラエルがユダヤ教国家の枠に固執すれば、問題は永久に続 いていきます。宗教と国家の分離によるアラブ社会との融合が、現在では求められるとこ ろです。もちろんユダヤの宗教や文化の保存・発展は尊重されるべきですが。 

 モーセは「燃える芝」の前で、聖地だから靴を脱ぐように神に言われます。靴は古代で はエゴのシンボルだったのです。聖地ではみんな靴を脱いで、敬虔になり、へりくだらな ければならなかったのです。そこで神は、名乗りをあげます。「わたしはあなたの父の 神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」これは普通の名前じゃないですね。神の所属名のようなもので、固有名じゃありません。  神はこの後、私はイスラエルの民の苦しみの叫びを聞いたので、またエジプト人がイスラエルの民を虐げるのを見たので、イスラエルの民をエジプトから導き出し、乳と蜜の流 れる地、カナンの地に連れていくのだと説明しました。そしてモーセにその大任を命じた のです。

  さすがのモーセもこれにはびっくりです。だって百万を越える人数をエジプトから連れ出せって言われてもね。いくら神が守ってやるからそうしろと言われても、自信がありま せん。しかも彼は王でもなければ、宗教上での指導者でもなかったのです。エジプトの王 宮の中で育ったとしても、その当時は、ただのレビ一族の出身者の羊飼にすぎないのですから。いわば普通の人です。

  それで神の命令に従うとしても、ヘブル人たちにイスラエルの神から命令されたことを 信用されないと駄目なんです、改めて神の名前を訊ねました。ここは一番重要な箇所だか ら読んでみます。第三章、一三節「モーセは神に尋ねた。『わたしは、今、イスラエル の人々のところへ参ります。彼らに「あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのと ころへ遣わされたのです』と言えば、彼らは『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに『わたしはある。わたしはある という者だ』と言われ、また『イスラエルの人々にこう言いなさい。「わたしは有る」と いう方が、わたしをあなたたちに遣わされましたのだと。」神の固有名は「わたしは有 る」なのです。マイ・ネイム・イズ・ザット・アイアムですね。

  実はこの部分の神の名は「YHWH」なのです。「神はモーセに言われた。『YHWH ・asher ・YHWH』。また言われた。『イスラエルの人々にこう言いなさい。「YHW H」というかたが、わたしをあなたがたのところへ遣わされました』と。」となっていた のです。「YHWH」は発音できないから、母音を補って、エホバとか、ヤハウェと読ん でいます。最近はエホバではヘブライ語の呼び名としては不自然なので、「ヤハウェ(ヤ ーヴェ)」に統一されたようですね。

  どうしてわざわざ読めないにようにしたのでしょうね?声に出して呼ばれたら恥ずかし いのでしょうか?神はシャイなのでしょうか?それがおおいに謎なんです。「十戒」の一 つに「みだりに神の名を呼ぶなかれ」というのがあるので、声に出して神の名前を呼んで はいけないと受け止めたのでしょう。読めなくしたのです。

  そんなことをしてもスペルで読んじゃうし、母音をつけて無理にでも読まれてしまいま す。「名前は無し」にしても駄目です、「名無しの権兵衛」って呼ばれますから。名前を 付けると、名前で性格づけみたいなのができてしまいます。たとえば「智子」という名は いかにも知的好奇心が旺盛な女っていうイメージで見られてしまいますね。 

  性格づけされて一面からしか見られないのが、神は好きじゃないのです。「神は愛なり 。」というので、「愛」という名前を付けたとします。そうすると、なんでも許してくれ て、審きなんかないと思われても困ります。実際は「審きの神」でもあるわけですから。 だから中世ユダヤ教の最大の神学者といわれるマイモニデスは、「神は〜である。」と特 定の属性で神を捉えてはいけないとしたのです。これをフロムは「マイモニデスの属性の 無い神」と呼んでいます。

  一般人だと名前なんか、別に符号みたいなものですから、余り意味にとらわれる必要は ありません。生まれた順番に「太郎」「次郎」「三郎」と付けてもいいんだし、字画や字 数を占いで縁起のいいのをつけてもいいわけです。つまり名前の意味を名前の本質のよう に考えるから、名前を付けられなくなるのです。でも『バイブル』の場合は「わたしは有 る」って名前に訳されています。名前を訳すのもへんですね。どうしてこんな訳になった のでしょう?

  「YHWH」は「EHEYEH」の略記ではないかという説があるのです。これは「エ ヘイエー」と読むのですが、古代ヘブライ語の「わたしは有る」の半過去形なのだそうで す。半過去形は現在形でも過去形でもないんだから、現在完了形でしょうか?まあ現在完 了進行形に近いでしょう。共同訳聖書で「わたしは有りて、有る者」という訳語になって います。「わたしはかつて存在したし、現在も存在し続けている。」という意味に解釈さ れています。「わたしは有る。」なんて文章になってる名前って変ですね。動詞の名前も 変わってるし、そういう名前って普通じゃないと思われそうですね。

  デカルトは、絶対確実な真理から出発して、真理の体系を作る為には、まず疑える全て を疑うべきだと気付いたのです。それで疑い得るすべてを疑った末に、それでも疑えない のは、わたしが疑っているという事実だということに気付きました。それで「我思う、故 に、我有り。」という哲学の第一原理に辿り着いて、そこから演繹して真理の体系を構築 しようとしたのです。

  この哲学の第一原理は、ラテン語で「コギト・エルゴ・スム」と言います。「コギト」 も「スム」も動詞なのです。ただし主語が一人称の場合は、動詞の人称変化で分かるから 主語が要りません。「コギト」は「わたしは思う」という動詞。「スム」は「わたしは有 る」という動詞なのです。じゃあ動詞では名前にふさわしくないから、思い切って抽象名 詞にして「存在」という名前にしたらどうでしょう。哲学的な深みのある名前でいいじゃ ないですか。

  そう考えたのが、中世のキリスト教神学なんです。神は「存在」あるいは「真実在」と いう意味だというわけなんです。ところがこれは由々しき大問題を含んでいます。といい ますのは「存在」や「真実在」が神だというのでは、ギリシアのヘレニズム神学と変わり ません。ヘレニズムでは神は超越者じゃないんです。自然存在なんです。自然のなかに働 く摂理、自然の中に繰り返し現れる働きや現象が、不滅な存在として神格化されて神だと されています。愛の神、豊穰の神、叢雲を寄せる天空の神、大地母神などです。それとは 対極的にヘブライズムの神は、自然存在から断絶して、唯一絶対の超越神であり、万物の 創造主であり、全知全能の神だとされていたのです。

  でもヘブライズム的にいっても、神も神がつくった宇宙も両方とも存在しているわけで す。そしてそのどちらが真の存在かと言えば真の存在は神の方ですね。神が宇宙を作った んで、その逆じゃないのですから。ヘブライズムから言っても、神が真の存在はわたしな んだよと宣言しているという解釈もできますね。

  ともかく、中世キリスト教神学は神の名を「存在」と捉えたことで、ギリシア哲学、特にプラトン哲学やアリストテレス哲学と結びついて、神の存在を論理的に証明しようとし たのです。キリスト教はヘレニズムとヘブライズムの融合の産物なのです。つまり超越神 が人間という自然存在としても現れたわけですから。それはともかくとして『バイブル』 は元々、「わたしは存在だ。」と名乗ってるわけじゃなくて。「わたしは有ったし、現に 有り続けている。」と名乗ってるわけです。だから意味が全然違ってきます。

  はて、どう違うのでしょう?話が哲学的過ぎてチンプンカンプンになっちゃっています ね。ここで神は「わたしは以前からいたし、今もいますよ。」と、自分がちゃんといるこ とを名前にしてアピールしているわけです。でも神の名が「存在」だすると、「わたしは 全ての存在の本質で、真の存在です。」と哲学的な神概念の講義を始めていることになっ てしまいます。文脈(コンテキスト)から言って、日本語版の「わたしは有りて、有る者 」でいいのです。もっとも「YHWH」が「EHEYEH」の略記であるとすればの話だ が。

  「わたしは以前からいたし、今もいますよ。」というのは、ヘブル人の祖先神である神 がモーセについているから、モーセを信頼し、従いなさいという意味になります。後の「 存在」という名前だと、モーセの神は真実在だから本物の神だというアピールになりますね。でも「出エジプト記」の物語から考えますと、ここの場面では、神とは何かについて の哲学的反省を求めるような「存在」という名前はふさわしくないと思われます。四百年 間エジプトにいてエジプトの風俗や信仰にも慣れ親しんできたでしょうから、祖先神に対 する信仰はかなり薄くなっているのです。十二支族の族長の家族を中心に伝承されてはいても、アブラハムやイサクやヤコブと神が交わした契約を一般のイスラエル人は忘れてい たと思われます。だから神はイスラエルの民に「わたしは本当にいたんだよ、そして現に 今もいるんだよ。だから祖先と交わした契約もあったし、そして今も有効ですよ。」とい うメッセージの意味を、自分の名前にしたと推理されます。

  ところで「真実在」としての神の名も一理あります。真実にあるものは永遠にあるのだ から、「初めにあり、今あり、世々限りなくあるなり、アーメン」と神は讃えられるのです。「エヘイエー」だって「有りて有る」という意味です。だから同じ意味だとも考えられます。

 「YHWH」がこの場面しかでてこないなら、「有りて有る」にこだわるところです。それが六千五百回も出てくるのです。だから御名を妄りに書きすぎなんですね。実は『旧約聖書』で「主」と訳されてる語の大部分は原文では「YHWH」だということですから、あまりストーリーからだけ押すのは説得力がないのです。「存在」や「真実在」にするとアルケーや一者が存在として神と見なされるような発想のヘレニズム(ギリシア思想)と区別できなくなりそうなので、注意が必要だと思われます。

   『バイブル』では「YHWH」より、「あなたがたの祖先の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブと神」の方を「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」として正式名にしています。固有名より所属名の方を正式名にするのは腑に落ちない方もおられるでしょう。

   正式名はイスラエルの歴史と共に、その時々の族長神として存在する神という意味です。エヘイエーは「出エジプト」の文脈で特に必要な性格づけの為の名だったのです。でも結局「YHWH」が固有名化しちゃったのです。

 ヤハウェとかヤーヴェとかヤーウェとか書くのはヘブライ語の発音のカタカナ表記が困難ですから、三通りになってしまっただけです。どれも神聖四文字の仮の読み方なのです。ただエホバは間違いです。日本語訳の『旧約聖書』は「アドーナイ」にあたる「主」という言葉で、この神聖四文字を訳していますが、それは「ヤハウェ」では神の御名を妄りに唱えてはいけないというトーラーに反するからです。「アドーナイ」に含まれる母音を「YHWH」に入れて読みますと「エホバ」になるというので、ルター以来これが有力な読み方になりましたが、最近ではヘブライ語でそういう名前をする筈ないとされ、ほとんど使用されていません。

  NHKの日曜大河ドラマ『下天は夢か』で、信長を尋ねたイエズス会宣教師がたしか神を「ゼウス様」て呼んでいたので、変だなと思いませんでしたか?だってゼウスはギリシア神話で主神だったですね、つまり異教の神じゃないですか。『新約聖書』では「テウス」という神の意味する言葉かでてきます。これも「ゼウス」にひきずられているかもしれませんね。「ゼウス」に影響され、これをヤハウェと一体化させたのかもしれません。「ゼウス」という呼び方は、神の御名を直接唱えられないから、異教の神の名を代用で唱えたとされています。我々のセンスでは到底理解できませんが。

  他に「イスラエルの主」という呼び名もあります。第六章で神はモーセにそう名乗っています。これは神はイスラエルの主であり、イスラエルの民は神の奴だという事を意味するのです。だから神の意志には絶対服従が求められます。神の意志といっても、イスラエルの一般民衆には、直接には神は語りかけないのです。だってそんなことをすると、神から話を聞いてなくても、聞いたような顔をして、自分の都合で話を変えるおそれがあります。そうするとみんな自分の都合で勝手な解釈をしますので、イスラエルの団結は壊れてしまいます。

  それで神は預言者とだけ話をすることになっているんのですが、それじゃあ預言者の恐怖独裁が出現してしまうことになります。モーセが神の名を「イスラエルの主」だとしたのも、出エジプトの大事業に参加を渋るイスラエルの民に、神の命令には絶対に服従しなければならないことを示すためだったのですね。

   他に「熱情の神」という言い方もありますが、これも名かもしれませんね。 

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