モリヤの地に立つー逆対応の論理ー
最晩年の西田幾多郎は、最後の完成論文に「場所的論理と宗教的世界観」を敗戦の年に死の二月ほど前に二月余りかけて、「毎日決死の覚悟を以て」書き上げました。そこで絶対者との関係を「逆対応」の論理で表現しています。我々相対者は絶対者に対することはできません。もし絶対者が相対者の前に現れたとしたら、それは既に絶対者でないのですから。
そのことをバイブルでは「だれも神の顔を見た者はいない」とか、「神の顔を見た者は死ぬ」とか表現します。もっとも族長時代の神はまだ超越的な絶対性が確立していませんから、族長だけは見ても死なないのですがね。アブラハムもサラも神を家に招いて、普通に喋っているのです。孫のヤコブも神とレスリングをして神を負かしています。それでも死なないのです。それはともかく、超越的な唯一絶対神の論理では、相対者である人間は、神と相対する時、自らの死を覚悟しなければならないのです。
アブラハムにとってひとり子イサクは、自分の命よりも大切なものだったに違いありません。でも我々は絶対者に対面する時には、全てを捨てて、一番大切なものを捨てて、「唯一なる個として、人間の極限として神に対していた」のです。キルケゴールの「神の前にただ一人立つ単独者」です。モリヤの地に立ってイサクを捧げるというのは、アブラハムはいつでも裸一貫となって、自己を絶対無において神に対面する覚悟ができているということなのです。そうして自己を絶対否定してはじめて神に接することができるのです。
このような神からの対応が逆対応なのです。つまり絶対者である神を限定しようとする人間の側の対応に対して、神は自らを無にするように求め、それができた者に神は自己を限定し、神の栄光で照らすことになるのです。
なお西田幾多郎につきましては、現在『月刊 状況と主体』(谷沢書店刊)に「西田哲学入門講座」を連載しました。このHOMEPAGEに掲載されていますから、是非お読みください。西田は内在的超越の立場からキリスト教と仏教の対話を可能にしようという試みに、決死の覚悟で取り組んでいたのです。