アブラハム・コンプレックス

 そういう試みに合わせる神って、イヤですね。質が悪いって思いませんか?だからサルトルはね、アブラハムがイサクを殺そうとしたことは、全く神の意志に従っただけで、アブラハムには罪がないという解釈には反対しているんです。アブラハムが神の命令を聞いたときに、真の神ならそんな事はする筈がないって判断して、お前は神の声色を真似たサタンだろうと言い返すこともできた筈だと言うのです。でももしサタンが神を装って、理不尽な要求をアブラハムにしかけてきた場合、アブラハムはそれが真の神ではなく、サタンだと見破る能力はあったのでしょうか?

 それは何とも言えません。ともかくサルトルは、その声の主を真の神だと思い、その要求を受け入れたのは、イサクに対する殺意が潜在的にアブラハム自身にあって、自分自身でイサク殺しを選択したんだと精神分析しました。今度は息子殺しのアブラハム・コンプレックスです。でもどうしてそういう殺意が生まれるのでしょうか?

 母親の娘殺しの衝動を「白雪姫コンプレックス」と呼びます。グリム童話『白雪姫』の初版の話では、実は、白雪姫を殺したのは実母だったのです。彼女は娘が美しくなればなるほど、自分が醜くなるのを見て、あさはかにも娘に自分の若さと美貌を奪われていくような気がしたのです。それで毒りんごを食べさせたのです。石塚正英が『白雪姫とフェティシュ信仰』(理想社刊)で書いています。石塚の本はグリム童話ブームの先鞭をつけたのです。

 父と息子の場合でも世代交代というのがあり、子供は父親に反抗し、自立して生きようとします。つまり父の権威を否定して、自分のやりかたで生きようとします。これを心理学では「父殺し」と呼んでいるんです。それで親は子によって否定され乗り越えられるのに反発して、自分を否定するものを否定する「子殺し」で、子から精神的に自立すると言うわけなんです。それに妻サラが、『バイブル』には書いていませんが、やはりイサクにばかりかまうのが気に食わないってことも考えられます。

 アブラハム・コンプレックスは、もちろんほんとに殺すのじゃなくて、精神的な分離をいうわけです。でも親殺し、子殺しの事件がシンボリックに起こっています。精神分析をすれば、そういう衝動はだれにでも多かれ少なかれあることが分かるそうです。ですから家族の中は殺意だらけってことに成ります。ひょっとしてあなたの家族も、隙あらばってあなたのことを狙ってないでしょうね。ご用心、ご用心。

 キルケゴールって実存主義者がいました。十九世紀前半のデンマークの哲学者です。高校の倫理の授業を受けた人は、「実存の三段階」を習ったでしょう。人生においては、精神的に次の三段階を体験していきます。享楽を求める美的実存、責任を果たす充実感を追求する倫理的実存、そして神の前にただ一人立つ単独者の宗教的実存の三段階です。

 彼は「不条理ゆえにわれ信ず。」という言葉を説明するのに、この「アブラハムの信仰」を取り上げました。人の道に反するような残酷な要求を神ならばなさる筈がありません。でも、敢えて神がそれを望まれるなら、たとえ人倫に反したことでも、進んで従うのが信仰であるというのです。信仰は人間の理解を越えて不条理なものを含んでいるのです。

 そして不条理ゆえに信仰が成り立つという理屈です。だって不条理じゃなかったら敢えて身構えて信仰することもないでしょうから。という趣旨のことをキルケゴールは主張しました。つまりなんでも合理的に説明できれば宗教なんか成り立たないということです。

 宗教はすぐに絶対とか永遠とかという言葉を使います。しかし有限な人間にとっては、それを手に入れることができないから絶対であり永遠なのではないでしょうか。「アブラハムの信仰」にはこの絶対的な絶望を克服しようとして、敢えて断崖絶壁に立っているような危うさを感じますね。オウム真理教のようなカルト教団では敢えて人倫の対極に立つような教義を実践することで、絶対帰依を実行し絶対的な宗教体験をしようとするのではないでしょうか。

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