見えざる神と族長神

   唯一絶対の超越神で万物の創造主、イスラエルと契約する「みえざる神」などの『バイブル』の神の根本的特徴ははじめから示されるのではありません。イスラエルの歴史を通して示されるのです。ノアから十代目のアブラハムの頃は、まだ見えざる神としても不完全で。族長アブラハムにだけ現れる族長神であり、アブラハムにではなく、アブラハムの子孫に肥沃なカナンの土地の所有を約束する神だったのです。

 それではまだ唯一絶対の超越神で万物の創造主としては未成熟な神について考察しましょう。この人類神的な普遍性とヘブル族の神としての特殊性の矛盾が、イスラエルの全地支配の幻想やその挫折としてのイスラエルへの異民族支配になって出てくるのです。この矛盾は中世にはキリスト教世界と非キリスト教世界の対立へ、近代西欧文明の世界支配とそれに対する反発へと展開するのです。

 ノアの大洪水からアブラハムまでは、あととりを産む年齢が以前よりぐっと若くなっています。この方が自然ですね。洪水の二年後にセムが百歳でアレバクサデを生んでいるけれど、その後はたいがい三十歳台であととりを生んでいます。アレバクサデは三十五歳で、シラは三十歳で、エルベは三十四歳で、ペレグは三十歳で、リウは三十二歳で、セルグは三十歳で、ナホルは二十九歳で生みました。ナホルの子テラは七十歳でアブラムつまりのアブラハムを生んでいるから、ノアの大洪水の二百九十二年後にアブラムが誕生しました  

 もし系図の続き具合が正しくて以前の年齢が高すぎたとしますと、アダムからノアまでとセムからアブラムまでが両方とも十代ですから、両方で六百年足らずということになり。両方とも十代だからいかにも作り話じゃないかというので、アブラハム以前の話は、「創世記」が書かれた頃に後から創作されたとも考えられています。モーセのエジプト脱出からがユダヤの歴史だという説もあります。あるいはモーセだって実在を疑う人もいますし、フロイトのようにモーセは根っからのエジプト人だったと推理する人もいるんです。

 アブラムの家族はいろんな土地を放浪しました。彼は七十五歳で父の家を離れる時、妻サライと弟の子ロトと集めた財産とハランで獲た人々を携えてカナンへ行こうとしたので す。お父さんのテラもかつてカナンに行こうとしていたけれど、あきらめてハランに住んだとあります。カナンの土地がとても魅力的だったのですね。

 アブラムはカナンについた時、そこにはカナン人がいたんです。アブラムは財産や従者を持つ一角の人物だったのです。彼の勢力の大きさは、彼がロト救出の為に動員できた家子は三一八人だったということから推測できます。これではとてもカナン人を追い出して定住できる人数じゃありません。でもカナンの緑豊かで乳と蜜のしたたる土地が欲しく。だから神が現れて第十二章、第七節でこう言っています。「あなたの子孫にこの地を与える。」

 それでカナンを諦めてネゲブに移ったのです。でもその土地はたいして肥沃じゃなかった、ききんでエジプトに寄留することになるのです。ところで寄留て何でし ょう?この寄留体験が見えざる神信仰を生むことになると、山形孝夫『聖書の起源』(講談社現代新書)では指摘されています。ヘブル人たちもカナンのような肥沃な土地に定住 農耕や牧畜をしたいのはやまやまなんです。でも自然災害や侵略に遇って、土地を失 って放浪する人々も多かったんです。ヘブル人は定住民の土地や家畜の一部を借りて、そこに寄留していました。自ら遊牧や簡単な農耕をしながら、外敵から定住民を防衛する仕事をしていたんです。もちろん定住民の都合で契約が解除されて、追い出されることもあ ります。だから半流浪民ですね。

 じゃあ、それがどうして「見えざる神」信仰につながるのでしょう?大地や川や雷や雨 そういう自然に頼り、自然を神として崇拝するのが、当時の普通の信仰でした。ところが ヘブル人には確かな自分たちの自然というものがありません。自然は定住民に帰属してい るんです。自分たちが生きていくのに最も頼りにするのは、部族の団結の力だけだったのです。だからヘブル人は目に見える自然の神ではなく、見えざる神を自分たちの族長神として信仰していたのです。

 さて「族長神」というのはどういう意味でしょう?ヘブル人全体の部族神じゃないのでしょうか?部族のみんなが信仰するのですが、神は族長にだけ現れるのです。そうしないで、めいめいに現れてると、族長の権威がなくなってしまいます。族長にしか神が現れないから、族長に従うということになる。その意味で神と部族を結ぶ族長は特別の選ばれた存在なんです。そういう形で族長の権威を神に由来させないと部族の統率がとれなかったのでしょう。

  

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