ヘブルの神とエジプトの神の戦い

 さあさあ、ついにモーセはファラオにイスラエルの出エジプトを要求し、それを拒否するファラオと対決します。といっても互いに背後に控えた神と神の技くらべです。どちらが大きな災いをもたらすことができるかっていう恐ろしい技くらべです。これが大きな幸いをもたらす技くらべだとお話になりません。だって、もっともっと技くらべして欲しいってことになりますから。ヤハウェはエジプト人をふるえあがらせ、なんでもイスラエル人にあげるから、イスラエル人はみんな出ていってくれと,エジプト人にお願いさせるようにしないといけないってことになっているのです。

 モーセは、神の名前だけ言ってもヘブル人たちは信用しないだろうって、神に言いました。すると神はモーセの杖を蛇に変えたり、モーセの手を癩病にかからせては、すぐ直したり、さかんにオカルト的な奇術を見せて、神にはナイル川の水を血の色にかえる奇跡力があるから大丈夫だって励ますのです。

  ところがモーセは自分は「口が重く、舌も重い」から適任じゃないって辞退しようとするのです。そこで神は、モーセの兄アロンに代わりに民に告げさせようといいますこれがモーセがヘブル語が話せなかったという根拠です。「あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、彼はあなたの代わって民に語るだろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代わるだろう。あなたはその杖を手に執り、それをもってしるしを行いなさい。」

   ところでモーセが逃れていたミデアンはシナイ半島にあったらしいのです。シナイ山で神に話しかけられたのですから、その近くでしょう。そうするとそこの祭司はイスラエルと同じ神を信仰していたかどうか疑わしいですね。だってモーセ自身神の名を知らない状態で神に呼び掛けられているのですから。そこでこう考えたらどうでしょう。ミデアンの祭司たちが信仰していたのは、素朴な自然神としての神の山ホレブ(シナイ山)だったと。山自体が神だったのです。よくありますね、富士山信仰、三輪山信仰みたいな山岳信仰です。それとエジプトで苦しんでいる同胞イスラエルの「みえざる神」が、モーセの中で一体化したのです。

 モーセが羊飼いをしていたとき、ヘブル人といたのなら、ヘブル語が話せないのはおかしいですよね。シナイ半島の人々はおそらくヘブル人じゃないでしょうから、ヘブル語ができないというのは納得できます。でも本当にヘブル語ができないんだったらそう書いたと思われます。そのへんの微妙な謎は残るのです。「口が重く、舌も重い」は、普通は素
直にどうしても吃ってしまう言語障害と理解されているようです。この言語障害コンプレックスのためになかなか決断できない。でも兄アロンが自分の口になってくれればなんとかなると考えた、これでもすっきり解釈できますね。

 あなたは、ほんとに神様に語りかけられたと信じていますか?『バイブル』って宗教書ですから、神が実在して、イスラエルの歴史が展開したことになっています。でもそれをそのまま信じるのはおかしいでしょう。そんな嵌まった読み方だけじゃ駄目な筈です。突き放して、客観的にモーセの神との出会いを精神分析しなくてはいけません。

 モーセはエジプトの現実、つまりイスラエルの悩みから逃れて、数十年羊を追っていました。そして彼も次第に年老いてゆきます。もう八十歳に近かったのです。さばを読んでるから五十歳ぐらいかもしれませんが。もしこのまま死んだら、彼の同胞の苦しみを見捨てて、自分だけ安穏と羊飼いの人生を終えることになります。そのことを思うと良心の呵責に耐えられません。

 でも自分はただの言葉も満足にしゃべれない、芝のようなつまらない存在です。とてもイスラエルを救えるような立派な人間じゃありません。そう思って、募るイスラエルへの思いを抑えてきたのです。ところが神の山で「燃える芝」という宗教的体験をしました。

   これは山の気象と夕日の関係でそう見えるだけのことかもしれません。本人がこれを宗教的体験だと感じることが大切なんです。下らない存在と思われているものにこそ神が宿るという体験です。

   人間どうせ死んで土に帰るのです。自分はまともに喋れないし、年寄りだし、イスラエルの神についても何も知りません。でもそれがどうした、それがなんだ、それがなんだよ。あれ古い歌の文句みたいですね。駄目で元々なんです。精一杯やって失敗して、イスラエルの犠牲になって死ねたら本望じゃないですか。もうすぐわしも八十だ。どうせもう永
くない人生なんですから。きっとこの気持ちを神はみていて、助けてくれるに違いないと確信して決意したのでしょう。そして兄のアロンがアジテーターで、モーセが呪術と神のお告げを知らせるという形で、ヘブル人に請願・強訴など示威行為を組織し、ファラオに聞き入れられないと、暴動やテロで治安を攪乱するなどして、出エジプトを強行したので
しょう。

 ではヘブルの神のエジプトの神々に対する技くらべは実際にはなかったのでしょうか?『バイブル』の物語の世界では、ここはベブルの神がエジプトの神々に勝利する場面なんです。勝った神は真実の神であり、負けた神は贋物の神であると思わせ、唯一絶対神信仰へと発展させる絶好のヤマ場です。だから物語としては神々の技くらべは絶対にあったことにする必要があります。

 ファラオにモーセがヘブル人の解放を迫ると、逆に労働をきつくされたのでモーセとアロンはヘブル人に恨まれます。それでモーセは神に文句を言いいますが、そこで神は「わたしは主である。」と言い返したのです。つまりつべこべ文句を言うんじゃない、神の言うことに従っていればいいんだと言うことなのです。

  神とイスラエルとの契約は、神の意志で成就させるものなのです。だからヘブル人がこんなつらいめにあうくらいならもう結構と断っても駄目なのです。約束の土地を獲得するまでは、ヘブル人をどんな恐ろしい目にあわせても、絶対に実現させずにはおかないというのが、神の側の論理なんです。モーセは神の意志という切り札をかざしてイスラエルの民を説得し、強制したのです。

  いよいよ技くらべです。杖を蛇に変えるという子供騙しのようなのもあります。これはエジプトの神官たちもできますが、モーセが作った蛇にすぐに飲み込まれてしまいました。でもかたくなにファラオはヘブル人の解放を拒否しましたので、モーセは杖でナイル川の水を打って血に変えたのです。でもファラオのかたくなな心は変わりません。今度は蛙
を大発生させました。もうそこいらじゅう蛙だらけなのです。人間の体にもはいあがってきます、ニュルニュルとね。あのね、おもしろいことにエジプトの神官たちも同じことができちゃうのです。だから余計にひどい結果になってしまいます。血を水にしたり、蛙をなくしたりすればよかったのに。

  これは「出エジプト記」作者(モーセ自身だと伝承されています)のギャグかもしれませんね。だって『バイブル』の表現が不自然すぎます。元は反対のことをしようとしたけど同じ結果になってしまった、という筋書きだったのでしょう。ファラオはこれにはまいって、去らせる約束をしましたが、蛙がいなくなるとすぐ、心を変えるのです。で、次はモーセは塵をぶよに変えます。ぶよという奴は三ミリぐらいの小蠅のようなもので,血を吸うのです。それが砂塵のように群れを成して襲ってくるんです。でもファラオは言うことを聞きません。それなら次はあぶで攻撃です。あぶは蜂より大きいくらいでこれも血を吸うのです。ヘブル人の居住区を除いて、あぶで埋まってしまいます。さすがのファラオもこれには参ったっていうのですが、あぶがいなくなると、もうあぶなんかいないから危なくないと思って、イスラエルの民を去らせないのです。

 そこでこんどは神は、イスラエル人に属さない家畜に激しい疫病を発生させて、大量に死なせるのです。でもファラオはかたくなで、民を去らせません。それでつぎは、モーセは竈のすすを集めて、撒き散らせました。これが人や家畜に付くと膿のでるはれものができます。そしてそれも無視するので、今度はエジプト全土にすごく大きい雷と雹を降らせたのです。これで甚大な被害が出て、ファラオは降参するのだけれど、やっぱりやんじゃうと心はかたくなに成るのですね。で、次はいなご攻め。その次は暗闇攻め、ヘブル人のとこ以外は、三日間真っ暗闇なのです。そしてファラオはまた降参しました。

 でもモーセは神に捧げる犠牲のものを要求し、またもや交渉は決裂したのです。そしていよいよクライマックスになります。 それが未だにユダヤ教最大のお祭「過ぎ越し祭」に名残が残る「過ぎ越し」です。その夜は、ヘブル人の家の外壁に羊の血でユダヤマークを書いておくのです。そしたらその夜、神はヘブル人の家を過ぎ越されたのです。そして印のない家に侵入して、その家の初子を殺しました。はしためや家畜の初子も含めてね。
 
 あらあらそれはえらいとばっちりですね。何の罪もないのにはしための子や家畜の子が殺されたのです。当時のファミリィは、いわば家内奴隷制でした。家族や家畜を含めた生産と消費の共同体にもなっていましたので、はしための子、家畜の子も重要な財産になっていたのです。特に初子はもっともよいものとされていたものですから、初子を殺されるのはすごい打撃だったのです。

 それでとうとうエジプトの人達は、ヘブル人に去るように懇願しました。金銀財宝を与えるから疫病神は出ていってくれって頼んだのです。ファラオもついに去るのを認めたのです。手ぶらで出ていかないところが凄いですね。牛や羊、金銀財宝を奪い取って出ていったのです。何百年にもわたる奴隷労働に対する報酬として当然だというわけでしょう。
 『バイブル』では「主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。」という柔らかい表現もありますが、実態はほとんど暴動状態だったのでしょう。

 ヘブル人を中心に、奴隷状態にあった下層民衆が大規模な暴動を起こしたんじゃないかという推理は説得力があります。だって初子を殺されて、同情的に餞別を与えるなんて考えられませんからね。もし奴隷暴動だったら、階級闘争の歴史でもこれは画期的な大事件ですね。普通は奴隷階級が紀元前千年以上前のこの時期に、これだけ組織的に行動できることは考えられませんが、ヘブル族という血縁と宗教的目覚めを軸に、モーセとアロンという素晴らしい指導者を得て成功したと考えられます。

 イスラエルの人々は、戦争になって後悔してはいけないので、ペリシテ人の国に入るのを避けて「葦の海」に沿う荒れ野に宿営していました。ファラオはそれと知って、引き戻そうと兵を差し向けたのです。追っ手が迫ってくると、「荒野で死ぬよりもエジプト人に仕える方がましです。」とイスラエルの民は訴えました。でも大丈夫ですよ。神がちゃんとついてるんだから、絶対負けっこないんです。モーセは杖を上げ、手を海の上にさし伸べて、バァーと海を開いて、かわいた道を作り、そこをイスラエルの人々を渡らせたのです。それを見て、追ってきたエジプトの軍勢も渡ろうとしましたが、その時にまた海が元通りになって、海のもくずと消えてしまったというお話です。 ギリシア語訳の『バイブル』のが「紅海」となっていましたので、紅海が割れたと伝承されてきました。ヘブライ語の元の原文では「葦の海」なのです。それで新共同訳から「葦の海」になっているのです。映画『十戒』は大スペクタクルのハリウッド名画でした。チャールトン・ヘストンがモーセ役で紅海が割れる場面が未だに忘れられません。中学生ぐらいの時に観たのです。

 これもトケイヤーの話しですが、風が強いと紅海が露出して渡れることが、百年に一回ぐらい、非常に暑い日に強風で水が引く事があるそうです。それが上手い具合にエジプト軍に追われていたタイミングで起こったのは奇跡だけど、有り得ないことじゃないんだという話しです。葦の海だともっと確率は高いでしょうね。でもそれも出来すぎのような気
がします。

 もちろん奇跡を行う神の実在を信仰すれば、葦の海渡海はあったことになりますが、エジプト側の資料がないだけに、現在の資料からだとそれは一応保留させてもらうしか、ありません。そういう不思議な現象の事を知って、出エジプトの物語に盛り込んだということでしょう。

 この勝利がヘブル人の神のみが真の神で、他民族の神は贋物だという唯一神信仰を生み出すことになるのです。まだこの時期に唯一神信仰になってないことは、神の勝利を讃える歌からも分かるのです。第十五章、第十一節です。「主よ、神々の中に、あなたのような方がだれかあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、奇しき御業を行う方があるでしょうか。」ここではヘブル人の神こそ神々の中で最高の神だってほめたたえているのですから、唯一神信仰ではないということになります。

 でも百万人を超える大集団を抱えて砂漠をさまようのは大変です。食糧の調達なんかどうしたのでしょう。牛や羊は出がけに略奪してきているし、金銀財宝も大量に奪ってきています。これで食糧を調達するのですが、とても百万食の用意は無理です。そこで神はマナと言って地に結ぶ薄い霜のようにみえるパンを降らせて食糧を与え続けたのです。

 ほんとに不思議ですよね。百万人を飢えさせずに野宿させるわけです。それも砂漠の中で長期間も、少々財産や、家畜があっても無理だし、略奪して集めるにしても人数が多すぎます。そうなるとマナしか考えられなませんね。ということはマナは実話じゃないでしょうか?もちろん神を信仰していれば,『バイブル』の記述がどんなにオカルト的でも疑
問に思いません。でも歴史学的には通用しない論理です。だから百万を越す大集団が、長期間マナに頼った食事をしていたと仮定するのは、歴史学的にはできません。

 そこでこう推理しておきましょう。定住民の周辺に寄留したり、農耕地の周辺で放牧したりで、なんとか生き抜いていたんじゃないかと。「神ともにいまして」という賛美歌を御存知ですね。「神共にいまして、行く道を守り、天の御糧もて力を与えませ。また会う日までまた会う日まで、神の守り汝が身を離れざれ。」そう、この「天の御糧」がマナなのです。

 この歌では「マナ」はシンボリックな意味です。つまりいかなる苦難や危機においても真実の神を信仰しているのなら、何も心配する必要はないんだ。神が必ず守って下さり、力を与えて下さる筈ですから。それにたとえ挫折したり、失敗したり、敗北することがあるとしても、それは神が与えてくれた試練であり、アドバイスです。たとえ道半ばで死ぬ
ことがあっても、神に召されたのだから何も悲しむことはないんだ。つまり真実の神を信じていれば、何も恐れることはない。自分が義だと信じる道を貫けばいいということなのです。

 その「真実の神」を見分けるのは難しいですね。宗教や宗派は一杯あるのですから。同じ教会の中で礼拝していても、同じ神を信仰しているとは言えません。それぞれひとりずつ神の定義が違いますから。それで真実が一つだとたったひとりしか真実の神を信仰していないことにもなりかねません。

 ノアの場合がそうですね。人それぞれに真実の神があるんだったら、神は普遍的なものではなくなってしまいます。人それぞれの個性を通して現れながら、しかもその人の個性や特殊な事情を超えて、普遍的で時と場所を超えて輝いている永遠の真実があって欲しいですね。そういう「真実の神」を求めて真摯な宗教的対話が求められるところなのです。

  残念ながら「真実の神」を知っている者はだれもいません。あるいは居るかもしれませんがそれを正しく伝えられる人はいないのです。こういうソクラテスのような「無知の知」の立場に立ち返る必要があるんじゃないでしょうか。

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