人間の自己疎外としての神
そこで神の正体がばれるからだという解釈をする人もいます。人間は分業と協業によってみんなの能力を組合せ、発見と発明を積み重ね組織すれば、空を飛べるどころか、月や火星にだって行けるんです。つまりみんなの力を人類として合わせれば、全知全能の神の観念が出来上がるんです。フォイエルバッハという人間学的唯物論の哲学者は、神というのは実は人間の類的な存在のありかたを、一個の仮想の存在に託して作り上げたでっち上げだというのです。
えーと難しいですね。個人には大した能力や力はない。でも人類がやったことをあげていけば、すごくなんでも出来ちゃってるわけです。これを人間をはるかに超えて、人間と断絶している神の能力と考えようとした、どうしてまたそんなこと考えたのでしょう?その結果、神がいるってことになっちゃったというのも不思議ですね。そもそもわざわざ神という存在を仮想しようとしたのはなぜでしょう?
それはね、フォイエルバッハの用語で説明しますと、神は人間の自己疎外だということなんです。もしこうした人間みんなのすごい能力を自分たちの暮らしに活かせて、その恩恵を充分感じることができていれば、当然自分たち人類の本質的な力として感じることができた筈ですが、実際には人間全体の力が強大であればある程、個々人の力はどんどん無くなって、生活も不安定になり、個性的能力も無くなっていくように感じられたんです。だから人間全体の力を、人間を超絶した、人間の外にある、人間に疎遠なものとしての、人間を支配する仮想の神の力として受け止めるしかなかったっていうわけなのです。
じゃあ、神が実は人間全体の類的な本質なんだったら、神は別に人間の力が大きくなる
のを恐れるの必要はない気もしますね。それこそフォイエルバッハ的に言えば、神が人間自身の本質であること、つまり人間こそが神であることがばれちゃうからなんです。つまり神が人間とは超絶し、人間を恐怖支配するから人間でない特権的な神でいられるのに、人間の力が強大になり過ぎると、そうした自己疎外の秘密が暴露されてしまうことを恐れたんです。
つまりフォイエルバッハという人は、神の正体を人間のみんなの力を合わせたものだという類的本質だと見抜いたことで、神は存在しないという無神論の立場を打ち出したのです。というより、人間の類的本質を神として信仰したといった方が正確です。つまり人間同士の愛の交わり、人間と自然との感性的なつながり、そうした人間の自然なあり方を大切にしようというんです。本当に信仰すべき尊さは、そういう人間の本性にこそあるという人類教なのです。
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