ホモ・セクシュアル
ソドムが物騒で旅人に危害を加える町だとされていますが、神が最も憎まれているのはフェティシズムです。ソドムとゴモラではフェティシズムが盛んだったので神が審判を下したことも考えられます。そうだとすれば、この審判は人間対神、フェティシズム対超越神論の宗教戦争の色彩を帯びることになります。ただしフェティシズムは原始的信仰としてはかなり普遍的でしたので、ソドムとゴモラだけ選ばれて滅ぼされるのは不自然です。
実はソドムの名は英語で男色(ホモ・セクシュアル)という意味の「ソドミー」の語源なんです。だとしますと町の男たちがこぞって押しかけて、ロトの客達を「なぶりものにしてやるから」と言った意味が想像できますね。そしてロトが代わりに娘を差し出すといういう意味も通じます。もっとも娘ではホモ専門の連中には相手になりませんが。もちろんホモ・セクシュアルは、トーラーで厳禁になっていて、死刑に値します。
「レビ記」十八章22節「女と寝るように男と寝てはならない。それは厭うべきことである。」同二十章13節「女と寝るように男と寝る者は、両者共いとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。」
でもどうして『バイブル』ではホモ・セクシュアルを罪悪視するのでしょう。それは被造物としての分を弁えていないからです。それぞれ男として造られ、女として造られている者同志がセックスをして、子供を産むように造られているわけです。人間はその事に造物主に感謝して、異性とセックスすべきなのです。同性同志でまぐあうということは、自分の肉体を私物化して、神の創造の意志に逆らっているわけです。それにホモ・レズの流行は、異性間のセックスの価値を相対化し、減少させます。もう、家族や社会なんてどうでもいいことになってしまいます。そこで家族制度や社会生活の維持という観点からも、同性愛は根源的な反社会性を持っており、罪悪として処罰の対象とされたのです。
しかしホモ・セクシュアルの愛好家にとっては、自分たちの行為はごく自然なのかもしれません。つまり同性同志でセックスしないとおられない肉体に造られていると感じているからです。彼らにすれば自分をホモに造っておいて、ホモ・セクシュアルをすると死刑だなんてとんでもない、ということになります。
女性性器を持っていても、男のような気性の人もいますし、男性性器を持っていても、女性的な気性の人もいます。それに性的興奮は相手の身になって想像することによってかき立てられます。男は自分の性行為がいかに女に性的悦楽を与えているかを想像して、女の昂奮に昂奮するわけです。女も自分とまぐわっている男がどんなに快感や征服感に浸っているかを想像して、男の昂奮に昂奮するのです。ということは、だれしも両性具有的な性格を持っていると言えます。ユング派の理論では男性の心には女性の魂である「アニマ」が住んでいて、女性の心には男性の魂である「アニムス」が住んでいると言います。
そして隣の芝生ではないですが、男は女を羨ましいと思い、女は男を羨ましいと思うようになるわけで、同性愛が起こることになります。特に男性同志の社交が親密すぎたり、軍隊や修道院など異性愛の制限された状況では、性欲の捌け口として同性愛がはびこりやすいのです。もしホモ・セクシュアルが滅ぼされるべき罪悪だとしたら、現在の欧米人の多くが滅ぼされるべきだということになります。彼らは『バイブル』への信仰を失っているのでしょうか。