光と闇
「神は『光あれ。』と言われた。こうして光があった。」たしかに語る事と作る事は、
神では同じ行為なのです。「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇とを分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」これが第一日です。「光を良し」とされたのに、わざわざ「闇」を作るなんて意地悪の感じもしますね。光は輝く栄光であり、自己実現つまり成功のシンボルです。歓喜であり、愛であり、正義であり、希望であり、救済なんです。それに対して闇は奈落であり、自己喪失つまり失敗であり、悲哀であり、憎しみであり、悪であり、絶望であり、責苦あるいは滅びなんです。
つまり光はプラス・イメージ、闇はマイナス・イメージなんです。「光」が愛のシンボ
ルなのは仏教でも言えます。慈悲の純粋な固まりのような「阿弥陀仏」は「無量の光」という意味なんです。だから初めに愛があった、神の愛が宇宙を造った、世界は愛のためにあるんだ。愛を感じとり、愛を確かめ、愛を行うために全ては存在しているんだというメッセージで『バイブル』は始まっていると言えるかもしれません。理窟でなく、イメージで思いをキャッチすべきです。でもこういう反発があります。神が人間を本当に愛しておられるのなら、人間に幸福だけ与えて、不幸を与えなければいい筈なのに、どうして多くの不幸を与えるのか納得できないという反発です。
でも「ヨハネによる福音書」で言うように「光は闇の中で輝いている」んです。もし人
間に幸福だけ与えて、不幸を与えないと、人間は幸福が当たり前で、幸福に飽きて鈍感になり、少しも幸福だと感じなくなりますね。むしろ幸福が息苦しくなり、かえって不幸になるんです。子供たちは両親の愛を、押しつけや干渉と感じ、むしろ重圧と感じるようになるでしょう。山登りの苦しみが大きければ大きいほど、頂上での景色は素晴らしいと感じますし、失敗すればするほど、成功は素晴らしい歓喜になります。だから光を輝かすために闇をコントラスト効果で与えているということなのでしょう。でもそれなら、その犠
牲で闇の方に回される人は気の毒ですね。ほんの薬味程度に闇があるんじゃなく、むしろ闇が光を圧倒しているような人もたくさんいるんですから。
でもこうも考えてみてください。一生極貧の生活をしていた人でも、常に神の恵みを感謝し、隣人と愛し合って幸福に暮らしたかもしれませんし、どんなに大金持ちで、贅沢三昧で暮らした人でも憎しみ合って、不幸な人生だったって事もあり得ます。悲惨に見える人生だって、ほんの一瞬、葉の上に一粒の露が朝日にきらめいた瞬間に永遠を感じるような、幸福体験で神に感謝して死ねる人だっているわけです。数え切れない不幸を取り上げて、神の無慈悲を責め、そこから神なんかいないという結論を導き出すことは自由です。でも、人間たちは希望の光を求めているんです。だから自分の力だけでは光を獲得するの
は到底無理だと思っている凡人たちは、それを与えてくれるかもしれない神が実在することを、どうしも渇望してしまうんです。
だとすれば信仰を得るには、何か深い悲しみの体験や不幸の体験がいるようですね。ということはこれだけすごい信仰の記録を残したヘブライ人達は、相当の苦難にあってるのでしょうね。ともかくこうして「光と闇」が葛藤し合い、調和し合って、『バイブル』の物語の主旋律を奏でていくのです。元々「光と闇」の対立は、善神つまり光明の神アフラ・マズダと悪神つまり暗黒の神アーリマンの闘争を原理としたペルシアのゾロアスター教(拝火教)の原理でした。ヒンズー教も創造神(ヴィシュヌ神)と破壊神(シヴァ神)の二元論です。中国の陰陽五行説も二元論ですね。物事を対立物との闘争や相互関係で説明
していく方法を弁証法と呼びますが、ダイナミックに捉えようとするとどうしても弁証法な捉え方になるのは哲学でも宗教でも同じことなんです。
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