天地創造と神の言葉 

 さて神は天地創造された時、何を材料に天地を作られたのでしょう。彫刻家が彫刻を作る様子を想像してください。『バイブル(聖書)』では、神は自分の外に、彫刻を作るように宇宙を作ったのです。だから神は自然存在からは離れて立っています。『バイブル』の神はそれで唯一絶対の超越神と言われるのです。この対極としてヘレニズムつまりギリ シアの神々は、自然に内在する神々です。豊作をもたらす神ディーメーテールや、愛の神アフロディテのような、自然の摂理なのです。

 日本の神々はどうでしょう。日本も自然神信仰です。日本の神は、ワーびっくりしたと驚くようなもの、巨木や白鹿、白蛇、富士山のような自然物だったのです。『バイブル』の神は、それら自然神信仰とはまるで違います。さて天地の材料ですが、「はじめに神は天地を創造された。」という書き出に『バイブル』はなっていますね。一般には「無から 有の創造」と言って、何も無いところから万物を作ったというように解釈されています。それじゃあ、質量保存の法則に反しますが、作り手の神から発するパワーは人間の想像を絶します。ですから無といっても形が無いということでしかありません。神のエネルギーが神から出て、宇宙が出来たという考えを発出論と呼ばれています。

 ところで、バイブルには『旧約聖書』と『新約聖書』があるのはご存じですね。『旧約聖書』はユダヤ教とキリスト教の共通の教典で、『新約聖書』はイエス・キリストの降誕以後の文献だけなので、キリスト教だけの教典です。『新約聖書』の中の「ヨハネによる福音書」では、「初め」について興味深い表現になっています。「第一章 初めに言(こ とば、ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。この言の内に命があった。命と人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。」じゃあ初めからあった言葉はだれが作ったのでしょう。神 が作ったとしたら、その神はだれが作ったのでしょうか。

 その最初が神なのです。つまりたいていの事物にははじまりというものがあって、何らかの原因で生じたものです。あなたはお父さんとお母さんが原因で生まれましたね。ずっと遡っていけばファースト・マンであるアダムとエバにいき着きます。このファースト・マンは『バイブル』では、神が創造されたとされているんです。こういう決まった原因か ら決まった結果が生じることを因果律と呼びます。でも因果律はこの最初の原因である神には、あてはめられません。だって最初の者は何らかの原因で生じたものではないから最初なんですから。そこで「初めに有り、今有り、世々限り無く有る」存在を考えてしまっ たのでしょう。これを神と名付けと思われます。

 ところで言葉というのは動物は使いませんね。なのにどうして初めに言葉があったと言えるのでしょうか。『旧約聖書』の「創世記」が書かれた時期は、紀元前五八六年から紀元前五一六年までの時期でした。バビロニアにユダヤ人が捕囚として連れていかれていた時期から、捕囚民解放後の第二エルサレム神殿完成までの時期までの間とされています。

 その時期には、ギリシア哲学の影響はなかったので、モデルになる観念つまりプラトンの 言葉で、ものとか出来事がどういうものかを観念として作り上げたモデルであるイデアが先ずあって、それに基づいて、それに合う事物が生み出されるという考え方に到達していません。ところが『新約聖書』はギリシア語で書かれていて、ギリシア文化の影響の下に 書かれていますから、「ヨハネによる福音書」(著者は十二使徒の一人のヨハネではなくて、一世紀末のギリシア語やギリシア文化に詳しいユダヤ人のキリスト者だとみなす見解が有力)の思想にもどうもイデア論の影響があるらしいのです。

 「イデア」は単なる言葉ではありませんが、この場合は「言葉」になっています。人間がコミュニケーションの手段として作りだした言葉が事物の元になっているというのはさかさまの気がしますね。しかし神の言葉と人の言葉は区別しなければなりません。物事や事物には「これは〜である。」という本質がありますね。例えばカラスは人間が名付けたからカラスになったわけじゃないけれど、カラスと名付けられるに相応しい存在として作られていたわけでしょう、人間が登場する以前にね。ところでカラスを作り出す際に必要なものは何かって考えますと、まず「カラスとは黒くて大きくて嘴が特に大きく鋭い頭の いい鳥である。」という設計図が必要になってきますね。その設計図は、生物学では細胞の核にあるよじれた糸みたいな染色体が螺旋階段になっていて、そこにどんな遺伝子が乗っかっているかで決まる筈です。

 でも『バイブル』は進化論とはずっと折り合いが悪いんです。だから自然自身の中で設計図が進化していくのじゃありません。万物は神によって創造されたと推論したのです。だとしたら自然から超越した存在である神のイマジネーションの中で、設計図が書かれていることになりますね。正しいカラスの観念がカラスのイデアで、聖書では、これが神の言葉なんです。人間の言葉は、この神の言葉を推測して生まれたと考えられています。それで神の言葉には、言葉に対応する物や事を誕生させる力つまり「命」があるんです。ですから神がある言葉で考えると、それに対応する事物が生まれるという理屈です。だから 神においては、考えることと行うことは同じなんです。この「言葉」はギリシア語の原典では「ロゴス」なんです。ギリシア語で「ロゴス」と言えば、言葉と論理と本質という意味を兼ねています。

 「あれ!『バイブル』の原典は古代ヘブライ語じゃなかった?」ですか、ええ『旧約聖書』はそうです。ユダヤ教徒は古代ヘブライ語で書かれた『バイブル』への信仰で結合していますから、イスラエルの公用語は古代ヘブライ語なんです。でも『新約聖書』は、ユダヤ人がローマ帝国に対する植民地解放戦争に敗北して、無理やりディア・スポラつまり 離散させられていたので、キリスト教徒たちが、ギリシアで集まって古代ギリシア語で書かれたんです。だから「キリスト」というのも元は古代ヘブライ語で救世主を意味する「メシア」のギリシア語訳なんです。ついでに「イエス」という名前もギリシア的な呼び方です。古代ヘブライ語では「ヨシァ」に当たるそうです。

 話を戻します。そういう本当の言葉が霊力を持っていると思い込む信仰を言霊信仰って 言いますが、人間の言葉にはそういう力はありませんね。ですから人間の言葉はまがいものだという捉え方があります。人間も修行次第で考えることが、そのまま物事を生み出すことができるということになると、オカルト的な念力信仰になるのです。その意味で人間 の言葉は、まがいものだという面を強調しますと、その言葉を使った人間の認識も真理とはほど遠いということになり、人間の智恵なんてたいしたものじゃないと卑下するようになります。

 この反省も無意味ではありません。確かに人間は自分たちの知に驕って、悪智恵を働かしたり、自然を安易に作り変えて、かえって人間環境を破壊してしまうことがありますからね。それでメソポタミア文明もインダス文明も崩壊したんです。だから人間の智恵に対する反省は大切です。でもね、だからといって、それを教会権力が世俗権力に対して優越 して威張っていい根拠にしたり、宗教の方が哲学や科学に対して優越すると主張する根拠にされたらたまりません。宗教が政治を支配したらそれこそ恐怖です。十字軍を造って、聖地奪還なんて言って、侵略や人殺しをしました。また科学に口出ししてジョルダーノ・ ブルーノを火炙りにしたことがあります。進化論を学校で教えないように圧力をかけてい る教団が未だにあるのです。それにおびただしい魔女狩りなどが起こったのも、宗教が力を持ちすぎたからですね。宗教は独善的で、自分たちだけが絶対正しいって過信しやすいのです。それで対立すると、相手の宗派はサタンの陣営だということになります。それも 結局、宗教的に分かってることは思い込みからきているのに、かえって無条件に正しいことになってしまって、哲学的認識や科学的認識より優越するという考えになったからなのです。

 人間の認識だって、経験に基づいて自然や社会からの働きかけで成立するわけで、それ ほどいい加減なものじゃありません。教会が神の権威を借りて、神の言葉を推量するのに比べ遜色ない筈です。ところが宗教では神は絶対で、教会は神に聖化されているから無条件に正しいということになってしまいます。  

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