蛇の誘惑 

 「エデンの園」で禁断の智恵の木の実をとるように誘惑した蛇の正体は一体何でょう?禁断の木の実は甘いのですが、それがもたらす神からの離反、人間の精神的自立、そしてその結果生み出される文化は苦く、酸っぱく苦悩に満ちていますね。神の死の警告をもはねのけて、木の実を食べずにはいられなかったのは何故でしょうか。

 そろそろ禁断の木の実の話に入りましょう。エデンの園にはうっそうと木が生えていて、果物がたくさん実りました。アダムとエバは好きなだけ食べてもよかったのです。でも園の中央にある、命の木の実と、善悪を知る木の実は食べたら死ぬぞと神に脅かされていました。ところが野の生き物で一番狡猾だとされる蛇がエバを誘惑するわけです。この誘惑の蛇というのは、果してサタン(悪魔)なんでしょうか。

 そう一般には解釈されています。でも『バイブル』の本文では、ただ蛇とあるだけで、その正体はサタンだったとは書いていません。蛇を精神分析的に夢判断すれば、誘惑の象徴なんです。それも性的な誘惑の感じが強いのです。男性のペニスのシンボルでもあります。だから統一協会ではエバがサタンの性的誘惑に負けてしまったと解釈して、これで血が汚れたとしているんです。この血の汚れを清めるためには、汚れのない血で清めなければならないとして、キリストの生まれ変わりである文鮮明との性交が必要だとしていたらしいと噂されています。

 結婚式の「血分け」の儀式と言いまして、脱会者の言によりますと、教団がまだミニ集 団だった時には行われていたらしいのです。「血分け」で浄化されてから、今度は結婚相手と性交して相手の血も浄化するのです。きれいな血、きれいな体に戻らないと最終的な御国で暮らすエリートに残れないということです。でもそういう儀式はいつまでも続けていられません。教祖の血や精液を薄めていただいたり、今では象徴的 に教祖が祝福した液体を飲む儀式になっているということです。その結果あの社会的大問題になった集団結婚式や、その準備のための詐欺的商法が編み出されました。

 ずっと前にテレビで、アフリカの未開部族の酋長の初夜権の事を観たことがあります。 それを連想します。でもよくそんな最初の女がだれとどうしたって問題に未だにこだわれるますね。「創世記」は、人類の登場についての象徴的な寓話に過ぎないのに、そのことが理解できないのでしょうか。そこがポイントですよ。統一協会は特に『バイブル』の「創世記」説話を、全く実話として取り扱っているんです。つまり信仰する以上、すべて真実として扱うべきであるというのが原理主義の立場です。だから荒唐無稽な説話を、荒唐無稽だからこそそのまま信じるのが、一つの信仰告白なんですね。信徒はそこに信仰の純 粋性や本物意識を持つんじゃないでしょうか。統一協会は『バイブル』の記事から計算して、アダムとエバの時代を今から五千年前と考えているらしいのです。

 じゃあ統一協会では、それ以前は人類はいなかったし、その一週間前に天地が創造されたというのでしょうか。そんな事今時信じられるなんて、驚異ですね。第一、何万年、何億年前の化石なんかどう説明するのでしょうか。それは全能の神ならたやすいことだと考えるのです。化石も一緒に創造されたことにすればいいんですから。つまり五千年前に神は何万年前、何億年前の化石を一遍に造っちゃったんだって事になっているのです。

 エバは死んだらいけないからって、神さまに禁じられていた善悪を知る智恵の木の実を食べる事を、蛇に「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」と言われて心が動きました。「目が開け」というのは、それまで盲目だったってことじゃないありませんよ。続きを読むと、盲目じゃなかったって分かります。善悪を判断する心の目が開いていなかったという意味です。

 「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで目を引きつけ、賢くなるように唆して いた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分達が裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆うものとした。」なる程、目には美しくとあります。ここで女がいかに欲しがりで感じたがりで、敏感で、活き活きしてたかが分かるでしょう。おいしいもの、美しいものを欲しがり、世界を知り、賢く成ろうとしていたのですね。欲しいものを得れるなら、たとえ死んだって構わない、悪魔にだって心を売る、そんな欲深くて、もっともっと充実したいと構えて いたのです。

 その頃は死に関しても何も知らないし、生まれたての、感じる心しか持っていないものでしたから、蛇の誘惑に乗ったのは仕方無いですよね。だって神は善悪を知る能力すら与えていなかったんですから、道徳心のない彼らにとって、神の命令は脅しの効果しかありません。もっと刺激的な蛇の甘言の方にひかれてしまったってことでしょうか。ここでは妻エバがイニシアティブ(主導権)を発揮しています。つまり女が男をリードすると、罪を犯すことにしているんです。だから夫アダムが妻エバを支配すべきだという、男尊女卑を説く説話の典型なんです。

 そういえば、『古事記』のイザナギの尊とイザナミの尊が国生みのセックスをする時、 女の方から「いい男ね」と先に声をかけて、セックスをしたら蛭子が生まれたので、次に男から「いい女だな」と声をかけてセックスしたら、ちゃんと国生みができたという神話がありましたね。この世に登場したのも男が先、女がでしゃばると罪を犯す、蛭子が生まれる、国が滅びるということを神話で強調していますね。こうした神話は、男性中心社会を確立する上で、重要な役割を果たしたのでしょうね。それに善悪判断の最初が、裸が礼に失するという性的タブーだったのがおもしろいですね。

 これこそ人間は『パンツをはいた猿』(栗本慎一郎著、カッパサイエンス)だという説 の見本です。いちじくの葉で性器を覆うことにどんな効果があったのでしょう。パンツというのは性器の露出を防ぎ、発情を抑えて、日常生活を円滑にしようとするものでした。それだけ人はいつでも発情できる色情狂の傾向があるんです。他の高等動物はだいたい雌が発情してフェロモンを分泌し、これに誘われて雄が発情して初めてセックスします。それであまり回数も多くありませんし、普段から性欲を漲らしているわけではないんです。でもボノボ(ピグミー・チンパンジー)は特別ですよ。あのチンパンジーより賢くて、ア メリカではたくさん言葉を覚えた猿のことです。ボノボの雌は食べ物を取ったり、いろんなサービスを雄にやらせるのですが、そのお礼に気軽にセックスをさせてあげるそうです。それも不特定多数にですって。ボノボのようなのは例外で、普通の動物は、淡白なものだからパンツなんか要りません。ところが人は、パンツを穿かせておかないと駄目なぐらいエッチなのです。栗本慎一郎に言わせると、本性はやりたがりなんだから、パンツは脱ぐために穿くんだということになります。これが栗本によると、文化の本性なんです。

 じぁあ、文化もパンツみたいに脱いじゃう為に穿くってことは、文化を作り上げておい て、壊しちゃうってことでしょうか。つまり破壊するために文化を作り上げるのでしょうか。これを栗本は「余剰(あまりもの)・蕩尽(無駄に消費しつくすこと)」論と呼んでいます。パンツもただ発情を抑制するだけじゃなくて、いざセックスの場面になるとパンツを脱ぐってことが、初めからスッポンポンより演出効果があって盛り上がるじゃないですか。そういう効果がかえってあるんです。

 栗本によりますと、文化というのは一般に、別に必要のない余剰なんですが、それを破壊することによって快楽を得る構造になっているんだそうです。だから余剰な文化が積み上げられれば、積み上げられるだけ、それを破壊しようという衝動が強くなるそうです。現代文明は破壊と建設を繰り返しながら、とてつもなく巨大になり、それを破壊する装置もどんどん進化しています。栗本は、核兵器の廃絶を目指す運動に対して、人間の本性に反対しても無駄だと書いていました。つまり破壊するために積み上げているのに、破壊に反対しても余計に積み上がって、破壊が大規模になるだけだってことです。

 なんて恐ろしいことを考えていたのでしょう、栗本は。栗本の論理でいくと、いちじく の葉が文化のはじまりってことですから、それじゃあ神が恐れていたのは、人間が文化を創造するってことになりますね。そう考えますと、禁断の木の実は「善悪を知る木の実」の意味だけでなく、やはり「智恵の木の実」の意味もあったかもしれませんね。ともかく人間は物事に対する自分の価値判断力を身に付け始めたことによって、神から離れ、自立していくのです。それが人間を造った神の側から見れば罪に当たるんです。

 未練がましいですね、神は。本物の芸術家は、一度作品に自分を表現してしまうと、その作品は既に過去の自分だって捉えるものです。もう自立した他者として、否定し、乗り越えるべき対象の筈です。そうでないと、次の作品に取り組む意欲が出てきません。むしろ神は人間が価値判断できるようになったことを、褒めて祝福してやれば良かったのに、子離れの悪い父親ですね、この神は。

 そこなんです。『バイブル』は信仰の記録だから神を賛美する書なんですが、人格的な存在として捉えられているでしょう、神は。それでどうしても人間の感情や思いが神自身の感情や思いとして表現されてしまいます。そうするといじけた性格の神が浮き彫りになってしまいます。そこで十三世紀のユダヤ教最大の神学者マイモニデスのように、これを神に人間の弱点を投射していると感づいて、神に対する人格的な表現は、全て比喩として理解すべきだという議論も出てくるんです。つまり神には摂理はあっても、人間のような感情はないという解釈ですね。

 ところで神から離れるのを罪だという場合、罪は人間の欲望が神との約束を破らせたこ とによって生じたものなんです。ここで罰を与えないと、人間は欲望を抑制しなければならないという生活の原理を習得する機会を逃してしまいます。だから「禁断の木の実」事件で罪を問うのは神の摂理に叶っているんです。

 蛇の言い方ですと、人間が価値判断力を身につけると神のようになるから、神が神としての特権がなくなることを恐れているんです。神は人間が神のごとくに成ることに脅威を感じているようですね。逆に言えば、「創世記」では人間が神に迫っていこうとしているのです。価値判断力や永遠の生命を手に入れて、本物の神に成り上がろうとしています。それを奢りとして批判的に書いているんですが、逆読みすれば、神に迫ろうとするところに人間の本質を描こうとしているヒューマニズムを読み取ることもできるのです。エーリッヒ・フロムは『ユダヤ教の人間観』で、「アダムの神」をこの神に迫るヒューマニズム として解釈しています。

 ところでエバのエデンの園におけるアンニュイ(倦怠)を想像して下さい。エデンの園 には時間や変化がありません。きっと死にたいくらい退屈していたんでしょう。でないと神に死ぬと警告されて、蛇の誘惑に乗れる筈がありません。ですからたとえ蛇が誘惑しなくても、二人は禁断の木の実を食べたかもしれませんね。でも待って下さい。彼らはまだ死を知りませんね。だから死の恐怖もなければ、死にたいとも思わなかったかもしれません。

 

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