「エデンの園」で禁断の智恵の木の実をとるように誘惑した蛇の正体は一体何でょう?禁断の木の実は甘いのですが、それがもたらす神からの離反、人間の精神的自立、そしてその結果生み出される文化は苦く、酸っぱく苦悩に満ちていますね。神の死の警告をもはねのけて、木の実を食べずにはいられなかったのは何故でしょうか。
そろそろ禁断の木の実の話に入りましょう。エデンの園にはうっそうと木が生えていて、果物がたくさん実りました。アダムとエバは好きなだけ食べてもよかったのです。でも園の中央にある、命の木の実と、善悪を知る木の実は食べたら死ぬぞと神に脅かされていました。ところが野の生き物で一番狡猾だとされる蛇がエバを誘惑するわけです。この誘惑の蛇というのは、果してサタン(悪魔)なんでしょうか。
そう一般には解釈されています。でも『バイブル』の本文では、ただ蛇とあるだけで、その正体はサタンだったとは書いていません。蛇を精神分析的に夢判断すれば、誘惑の象徴なんです。それも性的な誘惑の感じが強いのです。男性のペニスのシンボルでもあります。だから統一協会ではエバがサタンの性的誘惑に負けてしまったと解釈して、これで血が汚れたとしているんです。この血の汚れを清めるためには、汚れのない血で清めなければならないとして、キリストの生まれ変わりである文鮮明との性交が必要だとしていたらしいと噂されています。
結婚式の「血分け」の儀式と言いまして、脱会者の言によりますと、教団がまだミニ集
ずっと前にテレビで、アフリカの未開部族の酋長の初夜権の事を観たことがあります。
じゃあ統一協会では、それ以前は人類はいなかったし、その一週間前に天地が創造されたというのでしょうか。そんな事今時信じられるなんて、驚異ですね。第一、何万年、何億年前の化石なんかどう説明するのでしょうか。それは全能の神ならたやすいことだと考えるのです。化石も一緒に創造されたことにすればいいんですから。つまり五千年前に神は何万年前、何億年前の化石を一遍に造っちゃったんだって事になっているのです。
エバは死んだらいけないからって、神さまに禁じられていた善悪を知る智恵の木の実を食べる事を、蛇に「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」と言われて心が動きました。「目が開け」というのは、それまで盲目だったってことじゃないありませんよ。続きを読むと、盲目じゃなかったって分かります。善悪を判断する心の目が開いていなかったという意味です。
「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで目を引きつけ、賢くなるように唆して
その頃は死に関しても何も知らないし、生まれたての、感じる心しか持っていないものでしたから、蛇の誘惑に乗ったのは仕方無いですよね。だって神は善悪を知る能力すら与えていなかったんですから、道徳心のない彼らにとって、神の命令は脅しの効果しかありません。もっと刺激的な蛇の甘言の方にひかれてしまったってことでしょうか。ここでは妻エバがイニシアティブ(主導権)を発揮しています。つまり女が男をリードすると、罪を犯すことにしているんです。だから夫アダムが妻エバを支配すべきだという、男尊女卑を説く説話の典型なんです。
そういえば、『古事記』のイザナギの尊とイザナミの尊が国生みのセックスをする時、
これこそ人間は『パンツをはいた猿』(栗本慎一郎著、カッパサイエンス)だという説
じぁあ、文化もパンツみたいに脱いじゃう為に穿くってことは、文化を作り上げておい
栗本によりますと、文化というのは一般に、別に必要のない余剰なんですが、それを破壊することによって快楽を得る構造になっているんだそうです。だから余剰な文化が積み上げられれば、積み上げられるだけ、それを破壊しようという衝動が強くなるそうです。現代文明は破壊と建設を繰り返しながら、とてつもなく巨大になり、それを破壊する装置もどんどん進化しています。栗本は、核兵器の廃絶を目指す運動に対して、人間の本性に反対しても無駄だと書いていました。つまり破壊するために積み上げているのに、破壊に反対しても余計に積み上がって、破壊が大規模になるだけだってことです。
なんて恐ろしいことを考えていたのでしょう、栗本は。栗本の論理でいくと、いちじく
未練がましいですね、神は。本物の芸術家は、一度作品に自分を表現してしまうと、その作品は既に過去の自分だって捉えるものです。もう自立した他者として、否定し、乗り越えるべき対象の筈です。そうでないと、次の作品に取り組む意欲が出てきません。むしろ神は人間が価値判断できるようになったことを、褒めて祝福してやれば良かったのに、子離れの悪い父親ですね、この神は。
そこなんです。『バイブル』は信仰の記録だから神を賛美する書なんですが、人格的な存在として捉えられているでしょう、神は。それでどうしても人間の感情や思いが神自身の感情や思いとして表現されてしまいます。そうするといじけた性格の神が浮き彫りになってしまいます。そこで十三世紀のユダヤ教最大の神学者マイモニデスのように、これを神に人間の弱点を投射していると感づいて、神に対する人格的な表現は、全て比喩として理解すべきだという議論も出てくるんです。つまり神には摂理はあっても、人間のような感情はないという解釈ですね。
ところで神から離れるのを罪だという場合、罪は人間の欲望が神との約束を破らせたこ
蛇の言い方ですと、人間が価値判断力を身につけると神のようになるから、神が神としての特権がなくなることを恐れているんです。神は人間が神のごとくに成ることに脅威を感じているようですね。逆に言えば、「創世記」では人間が神に迫っていこうとしているのです。価値判断力や永遠の生命を手に入れて、本物の神に成り上がろうとしています。それを奢りとして批判的に書いているんですが、逆読みすれば、神に迫ろうとするところに人間の本質を描こうとしているヒューマニズムを読み取ることもできるのです。エーリッヒ・フロムは『ユダヤ教の人間観』で、「アダムの神」をこの神に迫るヒューマニズム
ところでエバのエデンの園におけるアンニュイ(倦怠)を想像して下さい。エデンの園