アダム・エバコンプレックス 

 動物の中には、人にふさわしい助け手が見つからなかったので、ついに神は女を造りました。・「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れてこられると、人は言った。『ついにこれこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに男(イシュ)から取られたものだから。だから、これを女と名付けよう。』それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻は、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」・「男から取ったものだから女」というのは どういう意味でしょう。男は「イシュ」で女は「イシャー」なんです。「イシャー」は「イシュから」という意味です。つまり女は「男から」という意味なんです。元々同じ体だったから、母を離れて妻と結び合い一体になるということなのです。初めは男しかいなかったというのは、ギリシア神話でも同じです。

 染色体数からいくと、初めは女で、染色体が一つ欠けて男になるのです。どうせ男が考えたんですね、この説話も。男が先で、女は付け足しということにしておきたかったのでしょう。生物学的に考えれば、付け足しなのはたしかに男の方かもしれませんね。ギリシア神話にはパンドラ説話という有名な説話があります。初めはね、クロノスという時の神が主神だったのです。その頃、人間は男だけでした。ところがクロノスと大地女神ガイアの子、叢雲寄せる天空の神ゼウスが、父クロノスとの戦争に勝って、ゼウスが主神の時代になったんです。その後、ゼウスと人間の守護神プロメテウスが対立します。彼 は人間のイマジネーションの神なのです。そのプロメテウスが智恵の女神アテナイから智恵を、火の神ヘファイストスから火を盗んで人間に与えたのです。それで怒ったゼウスは、プロメテウスの弟、人間の後悔の神エピメテウスにパンドラという女を与えました。

 このパンドラは女神と見まちがえる程美しかったです。その上に、女神には見られない初々しく瑞々しい美しさをもっていたそうです。だって死すべき運命の人間としていずれは美しさも萎びるからこそ、若い日の乙女の美しさはひとしおなんですから。

 ギリシア神話では、女がいなかった時、男はどうして生殖していたと思いますか。まさ か単為生殖していたんじゃないでしょうね。そういえば『古事記』では、イザナミの尊を亡くしたイザナギの尊は、黄泉の国にイザナミを尋ねたけれど、振り向くなと言われたのについ振り向いてしまって、イザナミがあまりに変わり果てた姿だったので、ほうほうの体で逃げて来て、黄泉の国へ続く洞穴を岩で塞いでしまいます。それで禊をし、左目を洗って天照大御神、右目を洗って月読の命、鼻を洗って建速須左之男の命の三柱の神を生んだという神話があります。ギリシア神話では、クロノスの時代の人間は、なんと豊穰な地 面から生えて出てきたということです。その点、「創世記」ではアダムのアバラ骨からエバが造られたので、男女は元々一体だったということで、後はすべて男女が合体して一体に戻ることで子供を産んでいるんです。

 アダムからエバが造られたということは、科学的に見ればアダムの遺伝子でエバが造られたことになりますね。だからアダムはエバの父でもあるのです。そうするとアダムとエバは近親相姦で子供を造ったということになってしまいます。確かに娘というのは父にとって「我が骨の骨、我が肉の肉」です。分身としての娘が母と離れて父と合体しようとする、これこそ根源的な抑圧された性衝動かもしれません。

 これはフロイトのエディプス・コンプレックスやエレクトラ・コップレックスを超える発見かもしれませんよ。いままでアダムとエバを父娘関係で捉え返した人はおそらくいなかったんじゃないでしょうか。ひょっとして私が愛読している小此木啓吾の本に出ていたかもしれませんがね。もしこれが学問的に価値ある発見だと、そのプライオリティ(先駆性)を主張しなきゃいけないからエバ・コンプレックスと名付けておきましょう。

 でもちょっと変ですね。「それで人は父と母から離れて妻と結び合い、一体になる」とありますから、このコンプレックスの主体は、エバじゃなくてアダムです。アダム・コンプレックスか、アダム・エバコンプレックスにした方がいいですね。そのうえアダムの場合、父娘の抑圧された性的衝動を問題にするのだったら、「妻から離れて娘と結び合い」になる筈ですね、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」とあるのでやっぱり無理ですかね。それでもまだ未練が残ります。だってギリシア神話でも女が男の後で作られることになっていますが、男から女を造ったとはなっていません。だ から父娘じゃないんです。その点バイブルは体の一部から造っている。これは明らかに直系、親子関係です。そしてその失われた一体性の取り戻しとして性衝動を取り扱っています。

 ところがもう一点アダム・エバコンプレックスの成立に不都合なことがあります。エディプス・コンプレックスでは、先ず乳児期の母子一体関係があって、それが幼児期に父親という第三者の力で威圧されて、潜行するので説得力があったんです。ところが父娘には乳児期のような一体期がないじゃないですか。だからそれが抑圧されて潜行するなんてこともないわけです。でも観念的でしかないかもしれないけれど、一体だったって思いが根拠になって、父と子供は精神的に結ばれていますね。母の場合は一体だってことが乳児期の体験としてあるから確かだけど、父と子の一体性は生まれる前の一体性で生後体験じゃ ないんです。でも人間は観念的なというか推理する動物です。この子は「わが骨の骨、わ が肉の肉」じゃないかと思って、夫婦で育てたいと思うのです。子供も自分は母とは一体だけれど、父はよそ者じゃないかといぶかりながらも、自分のルーツみたいなものを父に感じて、父に頼ろうとするんです。

 でもそういう一体性の取り戻し欲求は性的な形をとるのでしょうか。母子相姦と父娘相姦と比較して母子相姦の方が多いという統計でもあるのでしょうか。やはり一体であるということを確認したい衝動を抑制し、昇華して、それを父親の責任感に変えているんじゃ ないでしょうか。娘も父に対しては遂げることのできない思いを別の男性に向けるから、結婚式前夜とか結婚式での「お父さん有り難う」が盛り上がるとは言えないでしょうか?

 ところで父と子供の一体感というのは、大家族主義の儒教では連綿と家系が続くということになるので、一番大切なんです。子供は親がこの世に遺した「遺体」だと見なされます。「ぎょ!遺体と言ったら死体のことじゃない。」と訝られるかもしれませんね。「遺体=死体」というのは魂の輪廻転生説に基づいています。不死である魂が抜けちゃうと肉体は死体に成ってしまいます。魂というのが即ち生命なのですから。そういうのはアーリア的な発想です。それでインドやギリシアでは輪廻転生説が盛んだったのです。

 魂の輪廻転生説では魂がものとして、まず有るわけです。それが肉体に入るのが生きる ってことで、離れるのが死ってことなのです。でも中国では死によって肉体を構成している気つまり物質が離散します。祖先霊の供養は家族で祭ることで気を寄せてできるだけ戻して、家族を守ってもらおうとします。だから物質的にあるのは気のみです。魂というのは、その気の集まろうとする働きです。それを親が子を造ることで遺していくんです。だから子は親の遺体なんですよ。この親子一体観念で子の中で自分の生命が生き続けていく不死信仰を持てるんです。『バイブル』の「我が骨の骨、我が肉の肉」は、ですから儒教 的な発想に近いことになります。

 カール・R・ポパーが『よりよき世界を求めて』(未来社)で強調していますが、現存 る生命は親の生殖細胞の遺伝子が子の原細胞になって、それが細胞分裂して身体を構成していますね。そうすると子は親の生命の生き残りの部分だということになります。ですから何十億年も前の原始細胞が生き残っているのが現存する生命だということになりますね。ポパーの場合は、儒教的な不死思想に非常に近いように思われます。

   ●次に進む    ●前に戻る      ●第一章の目次に戻る