アダム語の成立

 第二章、第十八節「また主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合 う助ける者を造ろう。』そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、」あれ!また造り直していますね。人を造る前に鳥や獣を造った筈なのに、神ならすでに造ったのをエデンの園に連れてくれば良かったのにね。ということは人の為の環境を 造ってから、最後に人を造ったという創造説話の他に、人を造ってから、他の動物たちを人の為に神が造ってくれたという説話が、別のバージョンとしてあったってことです。いずれにしても人間中心主義だってことですね。このようにバイブルの矛盾するところを、 謎解きしながら読んでいきますと、退屈しません。それを人によったら構成がめちゃくちゃだとか、前後矛盾するから駄目だとか言って、腹を立てたり、だからユダヤ教やキリスト教はいんちきだと決めつけてしまいます。そういう読み方では、せっかくの素晴らしい精神の宝庫から何も学びとることができなくなってしまうのです。

 続きを読みます。生き物たちを「人のところへ持ってきて、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた。人が呼ぶとそれはすべて、生き物の名となった。」・ということは、人は初めから名前をつける能力を持っていたのですね。バイブルでは、神が人に言語能力を授けたとなっているのかと思っていたでしょう。アダムが造った言葉をアダム語といいます。確かにこの言語能力を神が授けたとは書いていませんが、生まれつきの能力は神がみんな創造によって授けたものです。それで言語神授説と捉えてもいいのです。実はこの箇所はイスラム教の『クルアーン(コーラン)』では、かなり重要な役割を担っています。

 アッラー、変ですね。『クルアーン』でもヤハウェやアダムが出てくるのでしょうか。『バイブル』の神の名は「ヤハウェ」でイスラム教の神の名は「アッラー」です。イスラム教がユダヤ教やキリスト教と仲が悪くて、戦争ばかりしているのは、違った神様同士で喧嘩ばかりしているからじゃなかったのでしょうか?そういう初歩的な誤解が多いんです。

 『旧約聖書』はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖典なんです。イスラム教 の教祖ムハンマド(マホメット)によれば、神は初めモーセなどのユダヤ人に預言したのです。預言というのは、未来を言い当てるのじゃなくて、神の言葉を託するという意味です。それでたくさんの律法(トーラー)を与えたのですが、ユダヤ人は律法を破ってしまったのです。そこで神の言葉に従うように、モーセ以来の大預言者であるイエスを処女懐胎の奇跡でこの世に送り込み、神の言葉を伝えたのですが、ユダヤ人はかえってイエスを処刑してしまったのです。これは神への裏切りです。

 他方、キリスト教徒はイエスを預言者としてではなく、子なる神として崇拝してしまい ました。これは根本教義である唯一絶対神信仰に矛盾しますね。それで今度は、イスラム教によりますと、神はキリスト教徒も教えに背いたとして見捨てられたのです。そしていよいよアラビア人ムハンマドにアラビア語で預言されたのです。それが『クルアーン』の内容になっています。だからアッラーはヤハウェのイスラム圏での呼び名なんです。これは全くイロハのイの常識の筈ですが、世界史の授業でもそんな話は習っていない人が多いようです。いかに日本の教育が宗教の基礎知識さえ蔑ろにしているか分かりますね。宗教 上の誤解がとんでもない紛争に繋がりかねないのですから、こうゆう大切な事が抜け落ちないようにすべきですね。

 神は『クルアーン』では、神の代理者としてアダムを、つまり人間を地上に置いたのですが、天使たちは予感が鋭くて人間のような「害をなし血を流す者」を地上に置くことに反対します。人間って確かに恐ろしいことをしてきましたからね。天使たちが反対するのももっともです。でも神は人間を自分に似せて作られたので、可愛くてたまらないのでしょう。

 それで神は一計を案じたのです。天使に獣たちの名前を告げろと命令しました。もちろん天使は何も教わっていないから知りません。そしてアダムにそれらの名前を告げさせるんです。神は狡いんですよ、前もってアダムには獣たちの名前を教えておいたのです。それで天使より人間の方が偉いと言いたいのです。その上で、天使たちにアダムに跪いて拝めと命令するんです。天使たちにすれば、天使は火を素材に造られていて、土を素材に造られている人間よりも格が上だと思っていたので、いやいや跪かされました。

 どうして火の方が土より格が上か分かりますか。ギリシアでは、火・空気・水・土という四つの元素から自然が構成されているとされていました。そのうち最も活動的で純粋の生命に近いのが火で、その対極が土なんです。それにギリシア語で生命と魂は区別されないで、「プシュケー」と呼ばれていました。生命と魂が同じだなんて、ちょっと日本人には理解できませんね。魂というと死後は肉体から離れる考える主体のようなものを思い浮かべてしまうでしょう。 

 他の天使たちは神の命令は絶対だから、しかたなく命令に従いましたが、イブリースだけは自尊心が強くて、なんで土の塊に跪かないといけないんだと、ムカッときたんです。それで神に抗弁して、アダムを跪拝することを拒否しました。もちろん神はかんかんに怒りました。そこでイブリースを楽園から追放し、呪いをかけようとしましたが、イブリースは神に審判の日まで猶予して下さいと頼むんです。そしてその日までに人間たちをたくさん誘惑して、審判の日が来たら、煮えたぎる血の河であるゲヘナを人間で一杯にしてみせますから、と公約したんです。そしたら神はその申し出を気にいられて、それはいい是 非そうしなさい、おまえに誘惑されるような奴はみんなゲヘナで苦しんだらいいんだ、というわけなんです。

 恐ろしい神ですねえ。それじゃあ悪魔と神は通じているようなものでしょう。それに神 の天使たちに対する仕打ちも陰険ですね。予めアダムに名前を教えておいて、だから言語神授説になるんです。その上で天使に尋ね、後でアダムに答えさせるのだから、完全な騙しです。恐らくイブリースはそれに勘づいていたから、馬鹿らしくてアダムに跪拝しなかったのでしょう。それで神様に対する怒りが神様と同じ姿をした人間に向けられて、誘惑されることになったんですね。

 このイブリースという堕天使の説話は『クルアーン』で繰り返し出てくるんです。イスラム教の立場でいくと、イブリースにはそれなりの反抗の理由があるんですね。だからといって神に背いてはいけないということなんです。いかに理不尽と思っても、天使も所詮神に創造された被造物に過ぎません。なのにそういう肝心なことを忘れて、身の程知らずにも、自分を造って下さった神に反抗することは生意気な奢りなんです。これが最大の罪だということを強調しているんですよ。たしかに異教徒から見れば悪魔と通じているように見えるかもしれないが、罪の誘惑に負けた者を裁くことで、人々を善に導くことができ るという立場ですから、この裁きは愛の裁きということになるんです。

 『クルアーン』では、人間が生まれつき言語を造る能力を持っていたとは言えませんが、 でも『バイブル』ではどうもアダムは物の名前をつける天才だったようですね。ともかく人間の本質の一つは言語を話すということなのです。またロゴスは「論理」という意味ですから、ベーコンはこの言語能力、つまり名付け能力を、物事を客観的に捉えて、その属性や様態や運動を述語づける能力つまり論理的に認識する能力だと捉えています。この言葉を使って世界を認識し、神の創造の秘密を解くことを神を賛美することだと強調しているんです。それに「ヨハネによる福音書」の「初めに言葉(ロゴス)があった。言葉は神 と共にあった。言葉は神であった。」という叙述と結合させて捉えますと、その言葉を紡ぎ出すことができる人間は、真理に迫る神聖な存在であると訴えているとも受け取れるます。

 言葉を使うというのは要するに考えるということです。それから話すということ、つまり自分が考えていることを人に伝えるということです。そうしてはじめて、心と心を通い合わすことができます。単なる身体的な関係を超えて精神的な存在になれるのです。

 

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