アブラハムの信仰
ではそのことと『バイブル』はどうかかわっているのでしょうか?「創世記」第二二章の「アブラハムの信仰」について考えてみましょう。「アブラハムの信仰」というのは「アブラハムの神」とはまた別なのです。「アブラハムの神」というのは族長であるアブラハムに語りかける神でしたね。「アブラハムの信仰」は、神を絶対的に信仰し、神にすべて身をまかせますという信仰なのです。「主よ!煮るなり、食うなり、お好きにして下さい!」なんです。それからどんな命令でも従いますっていう誓約です。どんな恐ろしいことでも神の命令ならやっちゃうわけです。イスラム教の「イスラーム」はこの絶対帰依いう意味なんです。絶対帰依しますと、人を殺せと言われれば、当然殺すのです。麻原の弟子もテレビのインタビューで堂々と言ってましたね。尊師の命令ならやりますって。
じゃあ、核戦争のボタンを押せって言われても、押すのでしょうか。本当にそれが神の意志ならば、当然やります。それこそ光栄な役目だということに成ります。だって、人類を絶滅させて一からやり直すのでしたら、こんな神聖な任務はありません。地下鉄サリン散布に選ばれなかった麻原の弟子の一人が、あくまで噂で真偽の程は保証できませんが、地下鉄サリン事件の後で、どうして私には命令してくれなかったんだ、と言って抗議したらしいんです。要するに神の審判なのですから、聖なる行為だという捉え方です。
じゃあアブラハムは、どんな命令を実行したのでしょう?第二二章、第二節です。「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物(燔祭)としてささげなさい。』」
ゲェー!自分の独り子を生け贄にするんですよ。しかもイサクは、アブラハムが百歳になってから生まれた子なんです。実は妻サラの侍女のハガルが、サラに子ができないものだから、代わりにアブラハムの子イシマエルを生んでいました。このイシマエルがアラブ人の祖先だってことはしっかり覚えておいて下さい。
ところがサラがイサクができてから、邪魔になったハガルとイシマエルの母子を追い出してしまったんです。それで後から生まれたイサクは、「ひとり子」と呼ばれました。もちろんサラもアブラハムもイサクが最大の生きがいです。可愛くてたまらなかったのです。だからその子をほふってバーベキューにし、燔祭に捧げるなんて、あまりにもむごいですよね。
「ひとり子」と言えばイエス・キリストも神の「ひとり子」と呼ばれます。彼の場合はほんとうに十字架にかけられてしまい、「ほふられた仔羊」と呼ばれるようになるのです。ということはイエス・キリストの説話は、アブラハムのひとり子イサクの説話を歌枕にして成立したのです。
これは族長時代に長子を神に捧げるという風習があったことを窺わせるものです。「出エジプト」でもエジプトからのエクソダス(大脱出)に成功し、カナンの土地を手に入れたら、その時は神に長子を捧げる約束をしています。これはレビ族の子が身代わりに神に奉仕する役職に就くことで回避されますが。ともかく神が人間を食べるという観念があって、人間の生贄が行われていたんです。それがダビデ王の時代にも異教のモレク神信仰ではパレスチナで行われていたということなのです。
ところでアブラハムは、なんとか助けてくれるように神にかけ合わなかったのでしょうか?わざわざ神が九十歳になった女に奇跡で生ませた子がイサクですから、それを取り上げてしまうなんて、あまりにも不条理です。しかもアブラハム自身がイサクを燔祭にするには自分の手にかけて殺さなければならないのですよ。いくらなんでもそりゃあ酷すぎます。そんな命令を実行するくらいなら死んだ方がましですって、どうして言わないのでしょう。もちろん神に絶対帰依していましたから、神の命令ならばイサクを燔祭にすることも、決してイサクにとって悪いことではない筈だと信じていたということです。
アブラハムは、それで殺したのでしょうか、ひとり子のイサクを?まさに殺そうとした時に天使のストップがかかったのでした。「ドッキリカメラでした」と言ったのです、というのはジョークですが、こう書いてあります。
一二節「御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった。』」
要するにアブラハムの信仰心がほんものかどうか試したわけです。この試みに見事に合格したので、神はアブラハムを祝福して、子孫の繁栄と、子孫が全地を支配するようになることを約束したのです。でもこの試みがあまりにむごくて、それにはアブラハム以外は耐えられそうもないので、今でもキリスト教会ではお祈りの時に、「試みに合わせずに悪より救い出したまへ」ととなえています。