シヴァ神にポアされてよかったね

 「アブラハムの信仰」というのは神の命令ならたとえ人の道にはずれた悪徳でも絶対服従すべきだというトーラーです。つまり神の正義と人間の正義は別で、両方が矛盾する場合は神の正義を優先すべきだという教えなんです。何しろ宗教は先ず絶対的な神を信仰してしまいますから、神の命令に無批判に盲従してしまうことになります。それに対して科学ははじめに疑いや疑問があります。そして自分で実験・観察やさまざまな調査をおこなって確かめることができた法則を、特定の条件にのみ妥当する真理として受け止めているのです。宗教上の真理だと言って信者の信仰心につけ込み、とんでもない犯罪に加担させる教団に利用されると、大変いたましい犠牲が生じることになります。

 オウム真理教の林郁夫医師は、地下鉄の車両内でサリンの袋を傘の先で突き破る時に、すごく悩んだそうです。命を救うべき医師の自分が、無差別殺人に手を染めるべきかどうかと。でも結局、信徒として麻原の命令は絶対なので突いてしまったのです。だからこの苦悩を麻原はちゃんと受け止めるべきだったのです。苦しんでいる林は麻原から救いの言葉がほしかったのに、林によれば麻原が言ったのは「シヴァ神にポアされてよかったね」だけだったのです。林は裏切られた気持ちになりました。

 でも麻原にすれば、「シヴァ神にポアされてよかったね。」という言葉が、最高のねぎらいの言葉です。林は、人の命を救うべき医師が、無造作に不特定多数の人々の生命を奪うということの不条理に耐えられなかったのです。でも麻原にすれば、大切なことは、この殺人がたんなる営利殺人でなく、人類救済計画の一環としての殺人だということです。あくまでシヴァ神の神聖な愛の行為であったことを理解すべきだということです。

 麻原にすれば、殺人と考えるから罪の意識に苛まれるわけで、サリンの犠牲者の霊は、シヴァ神が現世とは違う次元に昇らせたんだから、そこで罪業から逃れて暮らしていると考えれば、かえって感謝されるべきだってことになるのです。なんて勝手な理屈でしょう。そんな屁理窟で人類が絶滅に追い込まれたら大変ですね。だから信仰するということは大変なことなんです。すごく優しくていい人みたい思って、その人間的魅力にひかれて入信したら、実は恐ろしい世界支配をもくろむ陰謀家だったりするのです。そしてその陰謀の手先にされてしまいます。いったん信じてしまうと、人類救済計画とかそれなりの理窟づけがあると、率先してやらないと自分の魂が救われないと思ってしまうのです。

 でも理性のかけらでもあれば、サリンを撒くなんて、いかに教祖の命令でもできない筈です。つまり理性をまひさせるマインド・コントロールがあったということです。神には人類の大部分だって一気に滅ぼしてしまう、「ノアの方舟」のような前歴がありました。また「ヨハネ黙示録」のような預言があるわけです。そして今こそその預言を実現させるときであり、それをするのはオウム真理教だと預言されていると麻原は言いました。

 それが「ヨハネ黙示録」と『ノストラダムスの大予言』に関するオウム真理教の研究で解明されているというわけです。麻原に心酔していたら、うまく言いくるめられてしまいます。そしてそれを信じたら、何の罪の意識もなく人を殺せてしまうのです。恐ろしいですね。そういう騙された状態で罪を犯した場合でも、やはり同じように刑罰を受けるのでしょうか?

 精神が破壊されていたわけではなくて、本人の理性的判断の結果、命令を実行したわけですから、当然その責任は本人にあるのです。騙された事は、騙した方だけでなく、騙された方にも責任があります。戦争責任でも同じです。国民は軍部に騙されていたなんて言い訳をしましたが、騙されていればどんな残虐行為でもしていいということにはなりませんね。

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