第九節 記号とは何か?

                         一、連続的過程としての推論

 さて人類はどのように究極的な真理への協同の歩みを推進するのでしょうか。「記号」概念に留意しながら検討していきましょう。パースは四個の能力、つまり

@内観の能力、A直観の能力、B記号を使わずに考える能力、C絶対に認識不可能なものを把握する能力

を否定する命題を確認してから、すべての精神作用が推論であることを論証します。すでに直観の能力は否定されていますから、あらゆる認識は以前の認識によって論理的に限定されているのです。ですから如何なる対象を認識するときでも、その認識の最初の主観などありません。

 認識は必ず連続的な過程によって生じるのです。前提Aから結論Bへと進む推論の過程になっているのです。正しい推論は完全なものと不完全なものに分かれます。

「不完全な推論とは、前提の中に含まれていない事実にその推論の正しさが依存するような推論である」(「人間記号論の試み」132頁)。An incomplete inference is one whose validity depends upon some matter of fact not contained in the premisses.

不完全な推論には言外の事実が明言されていないけれど、実質的にはちゃんと仮定されていると、パースは語ります。

  「アリストテレスは人間である。それゆえ彼は誤り易い」という推論は不完全です。もし「人間が誤りにくい」のなら、この推論は成り立たないからです。つまり言外に「人問は誤り易い」という推論が前提されているのです。「それゆえ」は接続詞で、「人間は誤り易い」という思考が過去になされたことを表現しています。ですから、不完全な推論でも実質的には完全な推論だというのです。

 二つの前提からの推論を単純な推論と言い、その複合を複雑な推論と言います。そこでパースは完全で単純な正しい推論である三段論法を基本に据えるのです。その推論の正しさが前提と推論された事柄の関係だけに依存するような推論を、演繹的な三段論法と呼びます。これが必然的な三段論法です。そして推論の正しさがなんらかの他の知識の不在に依存するようような推論を、帰納的あるいは推論的三段論法と呼びます。これが確からしい、蓋然的な三段論法です。

  パースは推論の分類と分析を詳しく展開していますが、ここではその紹介ははしょります。要するにすべての精神作用は推論であるという趣旨が呑みこめればよいのですから。直観と思われる意識も含めて、すべて意識過程は、以前の意識を前提的な推論として、それを主語化して新たに述語を加える作用だということです。

                   二、すべての思考は記号と見なされる

 パースにすれぼ、普通名詞で呼ばれる意識像も推論です。「猫」という言葉を使うとき、既に猫の概念についての様々な推論が前提されているのです。「猫」という言葉は従って、猫に対する共同主観的な了解全体の記号と言えるでしょう。

 また推論は、対応する事態を表現している記号です。ですからすべての精神作用は推論であるという命題は、同時に、すべての思考は記号と見なされるという命題でもあるのです。パースはこう表現しています。

  「私たちの意識に思い浮かぶすべてのものが私たちの心の現われであるということは、私たちが自我というものをもっているということ(自我の存在は、無知と誤りの存在によって証明できる)から当然出てくるであろう。しかしそういったことは、私たちの心に思い浮かぶものが、私たちの外部に在る事物の現われでもあるということを妨げない。それは虹が太陽の現われでもあり、雨滴の現われでもあるのと同様である。こうして私たちは、ものを考えるとき、私たち自身がひとつの記号として現われるのだということが出来よう」(141頁)。The third principle whose consequences we have to deduce is, that, whenever we think, we have present to the consciousness some feeling, image, conception, or other representation, which serves as a sign. But it follows from our own existence (which is proved by the occurrence of ignorance and error) that everything which is present to us is a phenomenal manifestation of ourselves. This does not prevent its being a phenomenon of something without us, just as a rainbow is at once a manifestation both of the sun and of the rain. When we think, then, we ourselves, as we are at that moment, appear as a sign.

 つまり意識内容は自己を表現する記号であると共に、外部の事物の記号でもあるのです。そして「私たち自身」(ここでは「人間」という意味で使っていると思われます)はこのような意識内容を離れてはありえませんから、「私たち自身」が記号でもあるのです。ということは、我々人間は事物の意味を探究し、事物の意味を実現し、獲得するために生きているのだということでしょうか。

                       三、「記号」の三つの性質

 「さて、記号は本来三つのものと関係をもつ。
@まず記号はなんらかの『思考』によって読み取られる。
A次に記号は、思考によってその記号と等置され得るなんらかの『対象』の代理をつとめる。
B最後に記号は、なんらかの『材質』をまとってその対象と接触する」(142頁)。

 記号は、それが指示している事物とは同一ではありません。記号それ自体は材質をもっています。会話で使われる言語は音声を、文字言語は線を材質にしています。十字形の物体はクリスチャンにとってはイエス・キリストの贖罪の記号の材質です。

 一般に記号学では事物は記号として機能する場合に、その記号のシニフィアンと言います。そしてそれが指し示す意味をシニフィエと言うのです。パースはシニフィエを記号の表示作用と言います。さらにパースは記号と対象を結び付ける結合関係を、記号の純粋の指示作用と呼んでいます。例えば、風見鶏は、特定の方向を指すことで風向を示します。富士山の絵は富士山をその類似性によって指示しています。記号が示している指示作用を連続あるいは後続する思考が連想によって解読するのです。こうして記号が思考に向けられて初めて意味を表示するのです。

 記号の意味を後続する思考が読み取りますと、その概念が再び記号化します。即ちシニフィエのシニフィアン化です。「AはBである」(「記号AのシニフィエはBである」)は更に後続する思考「『AはBである』はCである」(「記号『AはBである』のシニフィエはCである」)、の記号なのです。このように推論が積み重ねられて、思考が発達します。これでは後続の思考が次々付加されて長くなってしまいますから、概念が一般化して、その意味内容が周知されると、単語化して通用します。

  例えば、「ワープロ」は、「仮名で入力して、それを漢字かな混じり文に直すことができ、且つそれを活字で印字できる装置」という意味で了解されているとしますと、一言でそれだけの意味を表現しているのです。そして更にワープロを使ってみますと、それ以外の機能を発見することがあります。「ワープロは漢字熟語辞典でもある」と言えます。この表現は更に元の意味内容を豊富にしているのです。お互いに了解済みの事は一々言葉にする必要がないので、名辞記号に置き換えられているのです。

             四、記号としての人生

 パースによれぼ、人間が生きているということは、以前の思考を記号として捉え、それを説明し、解釈する後続の思考を重ねることに他なりません。

「こうして記号と見なされた記号はすべて、後続する思考の中で説明され解釈されるという法則には、死によってすべての思考が突然の終局を迎えるということがない限り、一つの例外も見出せないのである」(143頁)。But if a train of thought ceases by gradually dying out, it freely follows its own law of association as long as it lasts, and there is no moment at which there is a thought belonging to this series, subsequently to which there is not a thought which interprets or repeats it.

 パースは個人的には、以前の記号化した思考に後続の記号を重ねるのは、死ねばおしまいですが、自然の事物や社会的生産物は、人間によって記号化されており、その意味で思考のシニフィアンに成っています。センスデータから事物像を形成すること自体が、パースでは直観ではなくて、思考の成果というのですから、事物を眺めたり、事物を扱ったり、事物を作り出したり、作り変えたりすることも、やはり後続の思考を重ねることになるのです。ですから社会的、歴史的に捉えれば、思考の連続は半永久的に続くことになるでしょう。


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