第八節 認識のコミュニティ


                         一、実在と虚構の違い

  共同主観的真理からのずれによる自我の自覚を説いたのを見ても、パースは真理はみんなが認めてこそ真理としての市民権があるのだと考えていたことがわかります。

「虚構というものは誰かの想像の産物であり、その人の思考によって刻みつけられた特徴をもっている。ところがこうした特徴が、きみたちや私がどう考えるかということに依存しないというのが、外的な実在というものである」(「概念を明晰にする方法95頁)。A figment is a product of somebody's imagination; it has such characters as his thought impresses upon it. That those characters are independent of how you or I think is an external reality.

個人的にこれが正しい、あれが正しいと主張しても、それらの個人的意見の如何とは関係なく存在しているからこそ実在なのです。

 神の御言葉を受けたと多くの「預言者」が登場しましたが、そのほとんどは偽者として相手にされませんでした。彼らの多くは、嘘つきなんかじゃなかったでしょう。本当になんらかの幻聴・幻覚を体験し、不思議な夢の御告げを受けたと想像されます。しかしそれが個人的な体験である限り、それが単なる当人の個人的な思いから生じた心理的な現象なのか、神の啓示という客観的な事実なのか、他の人々には判断の下す術がなく、説得力に欠けていたのです。

 科学的真理に関しても、イドラに囚われている人間の個人的な思考には依存している筈がありません。むしろ逆に人々は科学的な真理に関して様々な学説を競合し、議論し合い、実験観察によって事実と照らし合わせているうちに、客観的な実在に導かれて全員の意見が一致するようになるのです。

 「すべての研究者が結局は賛成することが予め定められている見解こそ、私たちが『真理』という言葉で意味しているものであり、こうした見解によって表現されている対象こそ『実在』に他ならない。これが『実在』という概念を説明する私の方式である」(同上、99頁)。The opinion which is fated to be ultimately agreed to by all who investigate, is what we mean by the truth, and the object represented in this opinion is the real. That is the way I would explain reality.

 実在は確かに個人の思考には依存していないのですが、みんなの思考、思考一般には依存しているのです。パースはこう述べています。

 「一方では、実在は必ずしも思考一般に依存しないわけでなく、ただ実在をあなたとか私とかあるいは有限な数の人間が何と考えるかということに依存しないだけであり、他方では、究極の見解の対象はその見解がどうであるかということには依存するけれども、その見解がどうであるかということは、あなたとか私がそれをどう考えるかということには依存しない」(承前)。But the answer to this is that, on the one hand, reality is independent, not necessarily of thought in general, but only of what you or I or any finite number of men may think about it; and that, on the other hand, though the object of the final opinion depends on what that opinion is, yet what that opinion is does not depend on what you or I or any man thinks.

 そうでなければ原理的に思考できない存在を認めることになり、マテリアリスムスに陥ると考えたからでしょう。

                            二、認識のコミュニティ


 この実在概念は繰返し強調されています。

「こうして実在的なものとは、知識や推論が遅かれ早かれ最終的に落ち着く先であり、私やあなたのきまぐれに支配されないようなものである。実在概念のこのような成立事情からして、実在概念がコミュニティの概念を含んでいることは明らかである。そしてこのコミュニティは新しい知識を受け入れるということに関しては大いに開放的なのである」(「人間記号論の試み」163頁)。The real, then, is that which, sooner or later, information and reasoning would finally result in, and which is therefore independent of the vagaries of me and you. Thus, the very origin of the conception of reality shows that this conception essentially involves the notion of a COMMUNITY, without definite limits, and capable of a definite increase of knowledge.

 これは真理に到達するのは人類の協同によってであり、決して個人的な天才の能力によってだけではないという思想を含んでいます。山下氏は「コミュニティ」を「社会集団」と翻訳されていますが、自覚の如何に関わらず、協同し合うことで真理に到達するということをパースは伝えたいのですから、「協同体」か「共同体」とした方が適訳だと思われます。

 パースは、個人主義より共同主義の方が好みなのです。彼は良心的なクリスチャンでしたので、「科学的」という装いで当時一世を風摩していた「社会ダーヴィニズム」の弱肉強食主義が、どうにも腹にすえかねていたようです。彼は「進化の三様式」(原題Evolutionary Love)で、ダーウィンの進化論よりラマルクの進化論を高く評価し、彼自身のアガペー的な創造愛的進化論を造りあげて対抗しています。

 普通プラグマティズムはイギリス功利主義の亜流のごとく見なされていますが、イギリス功利主義は完全競争を原理とする古典経済学のバックポーンです。これが実は「社会ダーヴィニズム」の弱肉強食主義の源泉だとパースは見抜いていました。そこで「汝自らを愛する如く、汝の隣人を愛せよ」「何事でも人からして欲しいと思うことは人にもその通りにせよ」という「バイブルの黄金律」を功利主義の最高の原理だ、と利他主義を強調したJ・S・ミルを含めて、イギリス功利主義には否定的な評価しかしていないのです。

 パースにすれば、ミルは他人の利己主義的衝動を満足させる意味に、黄金律をねじ曲げているのです。黄金律の真意は「きみたちの隣人の完成のために、きみたち自身の完成を犠牲にせよ」にあると、パースは主張します。大乗仏教でいう「菩薩道」ですね。こうして互いの協同による進化が実現するという考えです。

 「さてここに一つの論争点がある。キリストの福音は、あらゆる個人がその個人性を没して隣人と一致することから進歩は生じるという。これに対して十九世紀の確信は、あらゆる個人が全力をあげて自分のために努力することによって、また機会がありさえすればいつでも隣人を踏みつけることによって、進歩は生じるというのである。この十九世紀の確信は正確には『貪欲の福音』と呼んでもいい」(「進化の三様式」196頁)。

 アメリカのフロンティア精神は、自助精神を函養すると共に、一致協力して開拓するという協同精神をも育てたのです。余談ですが、この進歩主義的協同主義は、プラグマティズムの大成者といわれるデューイの集団主義的教育思想や民主主義思想の革新的性格に継承されています。日本の「戦後民主主義」の形成に与えたデューイの影響は圧倒的ですから、そのルーツとしてのパースの再評価も必要でしょう。

                             ●第九節に進む        ●第七節に戻る       ●目次に戻る