第十節 人間記号論の限界と意義

                           一、困ったときの神頼み

 シニフィエのシニフィアン化という視点を導入しますと、意味や命題自体が、別の意味の材質化されるということですから、材質である事は必ずしも外在的な事物であることにはならないことになります。そこで最初の材質は、何か他の材質の意味ではない、アリストテレスの第一質料のような材質それ自体を想定することも考えられます。パースはセンスデーターという形でそれを保証したのです。

 ところが最近の記号学では、意味の体系が言語体系という形で、それ自体閉じた体系のようにあって、現実の解釈がむしろ言語体系からなされるように捉えられているのです。外在的な事物との関連やずれの程度はもはや検証不可能なのです。実際、経験批判論や純粋経験論、共同主観的妥当性を相対的真理とする事的世界観等では、主客図式が超克されていますから、意識と事態とのずれという発想がそもそも乗り越えられているわけです。

 センスデータとしてはとても貧弱な事物が、他の事物を指し示す知的性質を発揮して、記号として活躍し、人間の思考として定在することになります。その為には事物は元来、思考として現われることを予定して造られているので、精神的存在だと主張しなければなりませんでした。そこで彼は唯名論、質料主義を徹底して排除し、概念実在論を断固として支持したのです。でも神を論拠にされるとがっかりします。せっかく「科学の方法」を掲げていたのに、困ったときの神頼みのように思え、論理展開にも説得力が無くなってしまいます。

 パースも産業革命とフロンティアの申し子として、真理への無限接近という進歩主義的幻想に取り憑かれていたとも想像されます。未来の思考に期待を寄せなくても、現在の思考がもたらした成果をもっと重視すべきでした。唯名論や質料主義に対する反証は、現実の人間社会を構成している社会的事物や、実験観察や応用によって確かめられた豊富な自然的事物に関する科学的なデータによって与えられています。将来ある程度認識の範囲は拡大されるでしょうが、所詮、宇宙の無限に比べたら毛の先程でしかないことは、繰り返すまでもありません。我々は現実の世界に対して合理的に理性的に関わらなければならない以上、事物を概念の実在として把握するしかありません。そして無限の宇宙に関しても我々の現実に対する認識を拡張し、推論的に科学的な世界観を形成する他ないのです。

                           二、人間と思考の同一視

 人間の概念の展開と、記号の概念の展開を比較して、結局その内容が同じならば、両者は別物と見なす必要がなくなるという論理で、「人間=記号」が論証されるべきでしょう。ところが人間を精神的実在とほぽ同じ意味に最初から前提しているようです。そのため「人間=記号」論の論証が同義反復の印象を与えてしまっています。その点はまだ充分には練れていません。つまり「精神とは推論の法則に従って、徐々に展開していくひとつの記号」なので、精神つまり人間は記号なのだと言いたいようです。このことは本稿の第一節で挙げた引用からも言えることです。

 「実際すべての思考が記号であるという命題と、人間の生活は思考の連続であるという命題から、人間が記号であるということが証明できる。つまり人間と記号は、『ひと』と『人』が同じであるという意味において同じなのである。こうして私の自我とは私の言語体系以外の何ものでもないということになる。何故なら人間は思考に他ならないからである」(166頁〜167頁)。

 このように人間を思考に還元してしまう定義は、外的実在との一致を目指す「科学の方法」や、行動との結びつきを重視するプラグマティズムの立場とも矛盾します。人間の生活は、単に思考の連続であるだけでなく、実践の連続であるとも言えます。それに思考主体と言っても彼の場合は、個人的なものではなく、集団的類的な思考主体ですから、人間を社会的な諸関係の総体として捉える事も必要でしょう。もちろん人間が精神的な実在であることは否定できませんから、「人間=記号」論が重要な真理を語っている事は確かです。

 それだけにもっと全面的な人間論にも注意を払った論理展開がなされるべきだったと言えるでしょう。とはいえパースはこの議論を「我々は絶対に認識不可能なものを認識することはできない」という第四命題の帰結として語っているのであり、彼の人間論の全面展開ではないという点に留意する必要があります。

                       三、事物の思考と「人間観の転換」

 パースは、思考活動は人間の言語活動であると共に事物の記号活動でもあると捉えました。この両者は同じ活動の両面にすぎません。「人間は記号である」という意味はこのように受け止めるべきなのです。パースは思考の主体を個人から集団に移しました。人間記号論には、更に社会的自然的諸事物を包括する人間的自然全体を思考の主体に取り込もうという壮大な発想が窺えます。つまり人間を記号であると捉えることによって、もはや人間は自己の身体の枠を超えて人間的自然全体に拡大しているのです。

 事物が他の事物を表示することによって知的な性質を示せば、その事物は記号として立派に人間の定在であり、頭脳を使って思考活動を行っていると言えるのです。この私の解釈は、自分の「人間観の転換」の立場を補強することを狙った、我田引水的解釈じゃないかとの謗りを受けるかも知れません。パースの人間記号論の積極的な意義を、より客観的な正しい解釈によって示して頂ければ、人間論の前進に本稿も貢献できることになります。「認識のコミュニティ」の一員としてそのような批判は大歓迎です。

 パースの人間論には〔人間=精神的実在=記号〕の単純な等置として退けるにはあまりにもったいない重要な問題提起が含まれていることは確かです。ただパースの論理でどうしても弱いと思われるのは、人格的主体や個物の主体性の論理についての考察です。近代的な利己主義に反撥するのはよいとしても、それを乗り超えるためにも個の原理を積極的に捉え返しておく必要がある筈です。

 パースをしっかり読んでからでないと、私のパース解釈は信用できないと思われる方は『世界の名著四八パース・ジェームス・デューイ』をまずお読み下さるようにお薦めします。パース研究者によるスタンダードな解釈を知りたい人は、米盛裕二著『パースの記号学』(動草書房)をお読み下さい。本稿を書き終えてから、目を通してみたのですが、本稿と大きく矛盾するところは無いように思われます。しかし人間論としての意義を捉えて、それを積極的に展開したものではありません。

〔参考文献〕
パース「論文集」(上山春平・山下正男訳『世界の名著四八』所収)
“Writing of Charles S.Peirce”(Indiana University Press Bloomington)
米盛裕二著『パースの記号学』(勁草書房)

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