第七節共同主観的真理からのずれの反省による自我の自覚

                        一、思い込みと正確さ

 イギリス経験論の祖と呼ばれるべーコソは、「感覚の欺き」を注意しました。そして人間というものは、

@何事も割り切れる物として捉えようとする人間にありがちな「種族のイドラ」
A個人の狭い体験による偏見で物事を見てしまう「洞窟のイドラ」
B言葉で物事を理解しているという制約から生じる「市場のイドラ」
C権威ある学説が芝居の台本のようにうまく造られているのでつい信じ込んでしまうことによる「劇場のイドラ」


の「四つのイドラ(思い込み)」に囚われていて、いかに物事を正しく認識することが難しいかを力説しました。

 パースも個人がいかに誤り易いかについて充分注意を促しています。客観的な事物がセンスデータをもたらしてくれるといっても、それはかなり貧弱な情報でしかないのです。だから直観的にそれ以前の認識の助けを借りずに、直接事物が認識されることはあり得ないのです。

 パースは、網膜や視神経の構造からすれば、人間が直接見ている像は隙間だらけで斑点の集まりになっている筈だと言います。平面も直観像として与えられているわけではないのです。ましてや空間や時間などもっと複雑な観念になると、直観によって直接掴めるわけではないのです。思考作用が欠けている部分を補っているそうです。感覚像自体がすでに思考の産物なのです。ロックも『人間悟性論』で感覚像形成に対する理性の働きを強調して、似たような論理を展開しています。走っている姿は直接には映画のフィルムのように静止像の集まりに過ぎないが、理性の働きがこれらを繋ぎ合わせて、走っている感覚像を形成するというのです。

 この補い方は対象を正しい像に再現する仕方です。客観的な事物が対象になっているのですから、最も正確な像を描けると、その対象に対する実践的な働きかけが最も効果的で的を射たものになるわけです。そこで思考と実践の集団的な積み重ねによって、より正確な事物認識が深まると考えたのです。ただし像の正確さといっても、実践的な効果を通して実証される正確さですから、純粋に客観的な正しい像があるわけではないのです。

 ところがパースは天地創造の人格神を信仰していますから、事物は人間のために造られているように見なしている節があります。そうしますと反映論的な正確さを期待しているようにも解釈できます。ウニにはウニ的な正確さ、犬には犬的な正確さが、人間には人間的な正確さが期待できるだけで、それぞれ効果に対する判断基準が違いますから、甲乙つけ難いのです。

                         二、「内観の能カ」の否定

 この認識における思考の契機の重視は、認識主体としての自我の実体性の否定から導かれたものでした。パースが直観能力を否定するのは、自己の内に真理の基準を持つ絶対的なデカルト的自我=超越的主体を否定したからです。デカルト的自我を認めますと、真理を客観的実在から謙虚に受け入れる事ができなくなり、果てしない懐疑に陥りますし、いったん確信した真理は誰が何と言っても譲らなくなります。だって真理は外的な事物の内よりもむしろ超越的主体である魂の内部にあると思い込んでいるのですから。

 そこでパースは、「直観の能力」と共に「内観の能力」も否定します。内観とは心の中を観る事です。実体としての超越的主体を否定してしまいますと、事物の意識への現われと意識それ自体を区別できません。つまり意識過程それ自体が思考であり、意識を離れて意識を観察している超越的主体としての心の場所が無くなってしまうのです。ホッブズ同様、意識過程つまり思考過程と心的過程は同じだということです。

 例えば、我々は赤い色を感じる感覚を持っていますから、赤い色を感じる心の能力があって、赤い色の表象から赤い色を感じるように思われますが、それは赤い色をした事物について、その述語としての「赤さ」からの推論によって得られたのだと言います。人が怒っているとき、怒っている心が有ることを内観するように思いがちですが、怒っている以上、何か外的な物事について考えて、それについて怒るわけです。つまりどんな情動も外的な事物の述語だということです。

                            三、自我の自覚の構造

 ではどうして人間は超越的主体としての自我を自覚するのでしょうか。デカルトならば、コギトは疑っている以上、疑っている我として実在することは決して疑えないとされます。そしてそれは疑っている事実から直接帰結されます。ですから考える我が存在するためには、如何なる事物もその根拠とはなり得ないのです。と言いますのは、方法的懐疑によって客観的的現実や数学的論証は疑われているのですから、疑わしいものによって自明な真理を論証できないからです。そうしますと、コギトはたとえ身体や脳髄がなくてもそれ自体で存在し、懐疑を続けることになります。デカルトはこうして心身二元論を論証したのです。このような自我は他の媒介なしに考えているのですから、直接直観的に認識されることになります。

 しかし、考えているという事実、疑っている事実からだけ、果たして超越的な自我の存在まで導き出せるでしょうか。パースは子供は思考はするけれども、自己意識が希薄であることを取り上げて、デカルトを批判します。カソトの『人間学』で指摘されていることですが、幼児のうちは自分のことを三人称で呼びます、「愛ちゃんも行く」というのように。それが成長するにつれて、「わたしも行きたい」というように、自分のことをきちんと一人称で呼ぶようになるのです。そこでパースは、自己意識が始めからあるのではなく、成長につれて推論によって得られるものであることを論証するのです。

 パースによりますと、子供は大変早い時期から思考能力を発揮すると言います。パースの場合平面や空間の意識ですら思考の産物だということですから、生まれついて直ぐに思考活動が開始されると考えてよいでしょう。自分自身の身体にも同様に関心を持っておかしくありません。身体の動きと感覚内容の変化の相関関係に関心を持つのです。次に子供は言語を習得します。これはある音声とある事柄の繋がりが心の中で出来上がることです。そして見よう見まねでその音声を発することを学んで、会話ができるようになるのです。

  会話によって、子供は回りの人々の証言が、子供自身がその事実に対して下した判断よりもより確実だと思うようになります。つまり共同主観的な社会的な意識が培われるのです。自己意識の最初の発見のきっかけは、社会的な意識によって自分の個人的な無知が思い知らされることにあるとパースは主張するのです。例えば、ストーブに触ったことのない子供はストーブに触ったら火傷すると言う大人達の警告に対して、そんな事はないと主張します。でも実際触ってみると火傷してしまい、自分の無知が思い知らされます。他人達に対して自分がここでは対照され対置されています。自己意識が発生しているのです。

 子供の下す判断は一時的な感情に駆られて下したもので、これは他人の証言によって確認され、補足されなければなりません。この回りの人々の判断も、さらに回りの人々によって修正されることになります。ここに前者の誤りと後者の真理性が意識されます。共同主観的な真理を受け入れることは同時に誤りを犯す自己の自覚を意味するわけです。ですから直観的認識の主体としてのコギトは退けられ、子供の意識的成長と共同主観の形成によって、推論的にのみ自我が認識されるのです。このことはまた、意識を超越した主体としての自己が実在するわけにはいかないということになります。

                                              四、超越的主体と事物認識の関係

   パースのように社会的な意識からのずれからネガティブに自己意識の成立を論証するのは説得力に欠けます。その場合の自己は否定的にのみ、解消すべきものとしてのみ捉えられています。積極的肯定的な主体として定立できていません。他者の主体や社会的意識に対抗する主体として、社会的諸関係を背負って立つ弁証法的な主体として定立すべきだったのです。

 それに超越的主体としての自己意識がなければ、客観的実在としての事物を認識することはできません。動物は生理的な意識から自己を区別しません。外的事物は生理的表象として受け止められており、それに対する反応は生理状態に対して種と個体の体験から条件反射的に選択されているのです。

 動物の行動も第三者的に観察すれば、外的事物への主観・客観的行動に見えますが、動物自身の意識の中では主体・客体の対立は生理状態に止揚されています。人間は自己を超越的主体として表象的意識から断絶させ、表象的意識を他者である事物の顕現と解釈することができるのです。

  たしかにデカルトのいうような仮定、つまり主体が精神的実体として意識過程とは別に実在し、意識を解釈するという仮定、はフィクションに過ぎません。ポッブズやパースによる批判は正当なのです。にも関わらず、自我が超越的主体として形成されており、しかも無限の内的世界を所有しうる人格として実存していることは否定できません。そしてこの人格の尊厳を最大限に尊重し合うことこそ人倫の基礎であるという認識は普遍妥当性を持っています。そのことを踏まえた自我の自覚の論理の展開としてはパースの議論は極めて不充分です。

 

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