第六節 事物の概念としての感覚


                一、プラグマティズムにおける軽薄な感覚主義


 ところで感覚が概念であるとの説明にはストップがかかりそうですね。例えば葡萄酒の概念は、「葡萄を原料にして醸造された酒」という規定であり、様々な感覚的要素はある対象が葡萄酒である為の絶対的要件ではないともいえます。例えば林檎酒の味がしても原料が葡萄であれば葡萄酒に違いないのですから。現代はイミテーショソとかコピーが文化としてもてはやされる時代です。落ち目の本物歌手が物真似歌手の活躍の御蔭で人気を盛り返すという転倒が歓迎されているのです。料理でも植物性の素材で肉・魚料理のイミテーションを作る高級料理があるそうです。効果や感覚で物事を判断するのはかえって物事の本質を捉える概念的思考に背く、軽薄な感覚主義ではないかと反撥されそうです。やはり概念的思考は感覚中枢よりも前頭葉で行われる筈だという反論です。

  「プラグマティズム」を翻訳すれば「実用主義」ですが、実用主義には「プラグマティズムの格率」に照らして、確かに効果が同じであれば、同じ物と捉えてよいという発想があります。この発想は血統にこだわる貴族主義的な本物志向を嘲笑して、コストのかからない代替物を作り出します。つまり経済的合理性に徹する進歩主義という長所があるのです。

 だが同時に物事を特定の実用の観点からのみ捉えるため、その他の諸属性に注意を怠り、大切な環境を破壊したり、資源を無駄にしたりするなどの危険を伴いがちです。現代世界を代表するアメリカ文明を指導した原理がこのプラグマティズムであったことは、その長所の面を観ても、短所の面を観てもよくわかります。

 効果や感覚で判断してもよい事物と、それでは済まない事物の区別が大切だと思われます。社会的事物の多くは前者に属し、自然的事物の多くは後者に属します。社会的事物でも実用品は前者に属しますが、希少価値を重んじる骨董品や贅沢品は後者に属します。ところでパースにすれば効果という用語には卑近な実用性だけではなく、科学・技術上の問題解明に役立つ効果も含まれていて、単なる感覚主義ととられるのは心外なのです。センスデータの指示する意味を正しく解釈して、推論を押し進める論理学の発展が、彼の主な関心だったのですから。

                二、感覚は事物認識の妨げか、それとも媒介か?

 ロックは、第一性質と第二性質を区別しました。時間・空間・質量・形体などの知覚に依存しない事物の独立した性質を第一性質とし、その事物自体に固有の性質と考えました。それに対して、色・固さ・味・感触など感覚的性質を第二性質として人間との関係によって事物の性質になったものと考えたのです。それをカントは第一性質まで主観の形式に還元してしまったのです。でもカントの場合は現象としての事物の性質としては当然認めているわけです。現代の懐疑は人間の経験を構成しているのは客観的な事物ではなく、主観的な生理的な感覚である事を強調し、世界を感覚の関数として捉え返すべきだと言ったのです。

 人間の感覚だから事物それ自体の属性ではないという、感覚批判の仕方が真理を妨げているとパースは気付いたのです。そのように感覚を捉えますと、かえって感覚は事物を認識する媒介ではなく、認識を不可能にする役割を果たしてしまいます。ところが人間は実際に感覚を媒介に事物認識を行っているのですから、この感覚批判の仕方は改めるべきなのです。そこで感覚こそ事物が主観に現われる仕方だと捉え返したわけです。彼が感覚を事物の概念として強調するのはその所為だと言えます。

 これに対して批判主義者は、それではやはり主観に現われた限りの現象としての、即ち感覚としての事物しか認識できないではないか、現象した当の事物自体は認識できないではないかと反論します。パースから言えば、それこそ救い難いマテリアリスムス(質料主義)の見本です。事物認識とは与えられたセソス・データに基づいて正しい推理で事物の性質を知る事です。

 ですから認識の内容は当然感覚の持つ限界によって制約されています。ロックの第一性質すらカントの指摘通り、統覚の形式に基づいています。それは人間が身体的に時間的に変化するものであり、また馬より小さく、猫より大きい空間的存在なので、身体を尺度に事物を認識せざるを得ないからです。感覚と合理的な推理能力を使って知り得る以上の事を知り得ないからと言って、事物を知り得ないことにはなりません。

 では感覚要素の集合としてしか事物は知り得ないとすれぼ、事物は感覚に還元されるから、客観的な実在としての事物はやはり知り得ないではないか、と執拗に食い下がられるかも知れません。パースが譲れないことは、事物が感覚に還元されないことではないのです。感覚要素の集合として事物を知り得るとすれば、その知り得た事物を客観的実在として認めるべきだという事なのです。

                      三、「客観的実在」とは何か?

 「客観的実在としての事物」認識に懐疑する人は、感覚的要素の集合をいかに概念的に認識しても、外部の客観的実在の認識とは言えない、と思い込んでいるように思われてなりません。それでは我々が原理的に認識できないものを認識しない限り、客観的実在の認識とは言えなくなってしまいます。

  論争というものは多くの場合、キーワードの定義が食い違っている所為で起こりがちなものです。わかり易い例えで説明します。天体電子望遠鏡で何億光年先の星雲を認知しても、それは観察主観に映じた感覚に他ならないから客観的実在ではないと一蹴されます。また内容的に論じても、その色や形は感覚に他ならないし、第一「何億光年」という認識自体が時間・空間という感覚の形式に則っているから、星雲は客観的実在ではない。このように軽くいなされそうです。

 パースの立場では、感覚的要素の集合として認知できるからこそ、客観的実在としての事物なのです。「外部」もパースにとっては身体的な外部に過ぎません。たとえ身体を感覚的要素の集合で認知したとしても、多くの身体が認知される筈ですね。また同様に感覚的要素の集合として多くの事物も認知されることは否定できないでしょう。そして同様にその必然的帰結として、やはり感覚的に時間・空間も認知されることに異論はないでしょう。では次に身体と他の身体や事物が空間的に離れていること、つまり互いにその意味では外部であることも認知されます。そしてそれらの事実を踏まえた上で合理的な推理を働かせば、そのような認知は身体が感覚装置と思考装置を備えていることによって、身体的に外部に存在する事物からのセンスデータを得て行われていることがわかるでしょう。これがパース的な意味での「客観的実在としての事物」の認識に他ならないのです。これにはまさか感覚批判論者も反論できないでしょう。

                       四、弁証法的な「実体」概念

 「そこまで認めるなら」と批判家は、「事物が感覚から自立したそれ自体で存在する実体ではないことになり、『事物』の定義に矛盾するのではないか」と攻勢に出ます。この「実体」という概念が哲学史的に変遷していて、扱いに困るのですが、何ものにも依存せずに、それ自体で存立している実在という意味でのデカルト的な「実体」概念は、他者による媒介を重視するへーゲルでもマルクス・エンゲルスでも克服されています。弁証法的な事物の捉え方では、「対立物の統一」が主要な観点になっているのです。総べての事物は対立する事物との関係で、他の事物によって規定される事によって、はじめて存立できます。この関係は相関的ですから他の事物の根拠となることによって、その事物は規定し返されて、根拠づけた相手の事物によって根拠づけられます。つまり相互に前提し合っているのです。「根拠となるもの」、「前提するもの」という意味で「実体」というターム(用語)を使うことが許されるなら、事物は相互に実体性を与え合う実体だと言えます。

 この弁証法的な「実体」概念は哲学史的に考えても不自然ではありません。元々ギリシア哲学ではウーシア(実体)は生成消滅する事象の内に在って、永遠不滅で変わらざるものという意味でした。つまりアルケー、アトムなどが実体とされていました。そこでラテン語では「下に立つもの」という意味のsubstantiaが「実体」の意味を持つことになったのです。

 デカルトは「下に立つもの」は根拠だから自己自身で存立し、他のものに依存してはならない筈だと考えて、それ自体で存立している実在が実体だとしたのです。ですから弁証法的な実体概念はsubstantiaの元の意味に忠実ですから、遠慮せずに使用できるのです。もっともパース自身の実体概念はどうなのかは勉強不足ですが。

                          五、推論としての世界観

 「ちょっと待った、事物に依存しているかどうかではなく、感覚に依存している事物を実体と見なせるかが問題だったんだぞ」とまたもやクレームですね。だから感覚的な世界を実在が示される世界だとパースは認めているじゃありませんか。実在が示される為には感覚が不可欠な媒介ですから、実在は実在証明において感覚に依存しているんです。

 「だったら感覚に現われない実在は証明できないんだから、そんなものが実在すると仮定することはおかしいじゃないか」。とんでもない。感覚に事物が現われると認める限り、すべての事物を一度に認識できないのですから、未だに現われていない事物の実在を仮定しないほうがむしろ矛盾しています。「しかしそれは推論に過ぎないだろう」。もちろん推論です。世界観は推論なんです。世界を構成しているのは感覚要素であると把握するのも推論なら、事物であると確信するのも、現代物理学のアポリアからの帰結として事態の関数だ、と事的世界観を打ち出すのも、マテリアリスムスもイデアリスムスもみんな推論なのです。どの推論を前提にすれば現実の世界が合理的に解釈でき、現実世界の中でそれに基づいて、最も効果的にかつ人生を納得して生きていけるのかが試されているのです。

 

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