第五節 事物の客観的実在性とプラグマティズムの格率

                   一、認識の二重性と主観のフィルター

 ではパースにとって思考主体を事物に置く必要はどうしてあったのでしょうか。外的事物からのセンス・データを大脳で処理して認識が成立しているのですから、「思考は身体の営みである」だけで済ませておくこともできたでしょうに。やはり認識内容が真理である為には、認識が単に主観の営みであるばかりではなく、同時に対象的事物の働きでもあることが不可欠だと思ったからだと思われます。主観の営みである思考自身が対象的事物の指示作用でもあるとして初めて、認識内容が対象と一致した真理だと言えるわけです。少なくとも対象の営みでもあることを否認してしまったら、セソス・データは主観の恣意によって蹂躙され、真理の可能性は遠退いてしまいます。認識の能動性と受動性は、。デュアル(二重)な発想で捉えるべきなのです。

 認識内容を現象でしかないことにあくまで固執する主観主義者たちは、この程度の説得では説を曲げません。認識内容が主観のフィルターにかかっていて、認識対象と認識内容は原理的に別様でしかあり得ないと主張します。また主観の認識能力によって認識内容は著しく制約されざるを得ないじゃないかというわけです。確かに認識主体と認識対象が絶対的な意味で、離れていて別物でしかないのなら、ゴルギアスのいう意味で真理は存在しないし、存在しても認識できないし、認識できても伝えられません。また実在を形相でなく、質料と考え、質料の完全な認識を求めるのなら、原理的に認識できません。形相もそれを概念でなく、対象の完全な映像と了解しているのなら、たとえギニア人であっても不可能です。パースが唯名論を退け、観念論者を自称するのはその所為なのです。

 カントは時間・空間を先天的な統覚の形式だとしました。そして、時間・空間という眼鏡をかけて事物を眺めていると考えました。つまり事物それ自体は時間・空間を超越した存在であり得る可能性を示唆したことになります。カント解釈次第では、先天的な統覚の下に現われる現象界の背後に、物自体の世界があると仮定しても、それは原理的に知り得ないのだから、そういう仮定自体がナンセンスであると、カントが主張しているとも受け取れます。それはともかく、認識主体と認識対象が異次元的に存在する可能性を置けば、原理的な不可知論になってしまいます。パースは原理的に真理が認識できないような仮定を置くことは、真理を認識しようとする際には、その仮定は既に捨てられていると考えていたのです。


              二、真理性の保証のための神の実在の要請


 パースによれば実在は人間の思考の発達によって認識可能だから実在なのであり、必ず未来の思考に姿を現わすべく予定されているのです。彼は思考を実在全体が姿を現わしていく過程として把握していたからこそ、思考を事物自身の営みと捉え返すことができたのでしょう。彼は万物を創造した神の実在を信仰しているのです。そして人間が原理的に認識できない事物を神が創造されることは、実践的にみて全く徒労ですから賢明な神がそんな愚かなことをされる筈がないと考えたのです。

 もちろん私は彼ほど信仰心も持ちませんし、楽天的でもありません。宇宙は絶望的なくらいの悪無限の実在だと思われます。人類が何億年も存続して思考を発展させ続ける事ができたと仮定しても、おそらく宇宙全体に比べれば毛の先程の真理も認識できないに違いありません。未来の思考に望みを託すなど身の程知らずもいいとこです。彼の弱点は二種類の真理を混同していることです。

 一つは我々の生活上の実践や科学的な実験・観察を通して確かめている真理です。これは妥当範囲の限定さえしっかりしていれば、その範囲において妥当することは疑う余地はありません。もう一つの真理は未知の現象に関する法則的な認識のことです。我々は次々と新しい真理を見出し、積み上げていくでしょうが、人類の寿命は原理的に有限です。それに対して、宇宙は原理的に無限で真理の量もまた無限なのです。


                      三、プラグマティズムの格率


 パースの素晴らしさは、既知の真理についての無用の疑念を原理的に取り去ったことにあります。ガリレイは「『二等辺三角形の両底角は等しい』という真理は、人間だけでなく、神においても真理である」と言ったと伝えられていますが、正しい推理は人間が考えたか、神が考えたかで正しさが変化する道理がありません。人間の思考能力の有限さを理由に、人間が認識した真理を疑う必要はないのです。思考を事物の知的性質であるとしたことで、事物の概念的な認識の真理性が保証されたのです。わかり易く言えば、事物をその事物が機能する通りに概念的に規定して、その概念通りに事物が誰の眼にも機能すれば、その概念に当たる事物は実在すると見なしてよいのです。

 これがパースの定義した「プラグマティズムの格率」です。

 「ある対象の概念を明断に捉えようとするならば、その対象がどんな効果を、しかも行動と関係があるかもしれないと考えられるような効果を及ぼすと考えられるか、ということをよく考察してみよ。そうすればこうした効果についての概念は、その対象についての概念と一致する」(「概念を明晰にする方法」89頁) Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object.

 この格率の文章は混み入った表現なので趣旨が掴みにくいのですが、これは聖餐式論争についてのコメソトを受けていますので、それを参照すればわかります。

                        四、聖餐式論争へのコメント


 「『葡萄酒』という概念で、私たちの感覚に直接もしくは間接に特定の影響を及ぼすものだけを意味するのであって、あるものが葡萄酒の感知しうる特徴をすべてもっていながら、しかも本当は血であるなどというのは、無意味な戯言である」(88頁)。and we can consequently mean nothing by wine but what has certain effects, direct or indirect, upon our senses; and to talk of something as having all the sensible characters of wine, yet being in reality blood, is senseless jargon.

 
聖餐式というのは、キリスト教会の礼拝の中心儀式です。これは異教徒から見るとカニバリズムを連想させる異様な雰囲気を持っています。「これはキリストの身体である」と司祭が言って信徒にパンを食べさせ、「これはキリストの血である」と言って真赤な葡萄酒を飲ませるのです。大部分のプロテスタント派ではこれを比喩的に解釈しています。でもカトリック教会では神父の行う聖別によって、パンはパンのままで本当のキリストの肉となり、葡萄酒は葡萄酒のままで本当のキリストの血になっていると解釈するのです。

(この宗教的カニバリズムの儀礼から推測して、歴史的にイエスは弟子たちに食べられ、そのことによって復活体験を弟子たちに与えたのではないかという、まさしく仰天仮説を、私は『キリスト教とカニバリズム』〔三一書房刊〕と『イエスは食べられて復活した』〔社会評論社刊〕で提起しています。)

 我々は葡萄酒の概念を持っていますので、どんな色の種類があり、それぞれどんな香りや舌触り、味のものかよく知っています。少なくとも、血の臭いや、舌触り、味とははっきり区別できます。ですから聖餐式の葡萄酒も血ではなく葡萄酒だとはっきりわかります。実際の葡萄酒の概念とは、葡萄酒が示す色・香り・舌触り・味.特定のアルコール度等の全体なのです。葡萄酒がそれらを指示する過程が概念の展開としての思考なのです。式の形で表わしてみましょう。Aの概念の集合は{a,b,c,d,e}だとします。今対象Xが{a,b,c}の概念の展開を示したとしますと、後は{d,e}の展開を示せば対象XはAと同定されます。そこで{d,e}の展開を待たずに対象XはAの実在ではないかと推理される事があります。

 葡萄酒の定義には葡萄が原料の醸造酒というのが当然入りますから、本当は色・香り・舌触り・味・特定のアルコール度だけでは葡萄酒だとは断定できません。とはいえ{a}か{b}か{c}のどれか一つでも葡萄酒以外には決して含まれない、葡萄酒のみに固有な性質だとすれば{a,b,c}が示された段階で、対象XはAの実在であると断定できます。例えば葡萄酒の香りは葡萄酒しか絶対出せないとした
ら、香りだげで葡萄酒だと断定していいわけです。

 

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