第四節 人間記号論のイデオロギー性

                     一、人間記号論の画期的意義

 事物は思考され得る存在としてはじめて実在なのですから、人々の思考にいずれは現われ出て来なげればなりません。その出現の仕方が他の事物を指し示す記号としてなのです。思考に出現するのですから、事物の指示作用と思考は同時的です。ぽんやりして信号が変わるのを見ていなかった場合、信号は指示したのに、思考はそれを認知しなかったと言えるでしょうか。指示行為は相手があることですから、ぼんやりしている人にまで信号は指示を与えることはできません。一般に未知の事実についても同様のことが言えるでしょう。

 ですから客観的な事物としては思考以前に実在していても、人間の意識に指示を与えることによって、その実在性を示すのです。この過程が思考だということです。それが記号であり、人間だという人間の定義なのです。そこで事物の思考は特別の天才や個人にだけ与えられるような、真偽が確かめられないようなものであってはなりません。みんながそのデータに基づいて正しく推論すれば見解が一致し、承認するようなものなのです。そうしますと破綻や不都合がない限り、事物の指示をみんなと同様に受取り、同様に推理していればよいということになります。

 人間の思考活動が同時に自然の営みでもあるという発想は、シェリソグにもありますし、自然を絶対者に置き換えればへーゲルも、人間の意識の発展を絶対精神の自己展開として捉えていました。もちろん仏教や老荘思想にも多分にその傾向があります。パースの画期的な点は、人間を思考に還元した上で、思考を事物の知的性質と捉え返した点にあります。こうしますと人間が事物の記号性それ自体だとされますから、人間を構成する主体的要素は身体だけでなく、他の事物を指示する事物だということになります。私が身体主義的限界の突破だと叫ぶ所以です。

            二、人間自身の物件化の裏返しとしての人間記号論

 私が我が意を得たりとばかりに、人聞と事物の抽象的な区別を止揚するパースの人間記号論を持ち上げるのに対して、多くの読者のブーイソグが聞こえてきます。思考を客観的な事物の営みに還元する議論は、人間の思惟の主体性を貶め、物件化された社会機構から産み出される常識に呑み込まれることに、疑問を抱かせない役割を果たすだけじゃないかという非難です。それに事物が思考するなどという発想こそ、人間自身の物件化の裏返しじゃないかとの反撃もありそうです。

 実際一つの思想がどのような役割を果たしてしまうのかは、その思想の持つ意義とは別に検討しなければなりません。思考に対する事物の意義の強調は、思惟の主体性を貶める影響を生まないとは限りません。それにパースは、自我を共同主観からのずれの否定的体験から消極的にのみ捉えています。私の眼からみても人格や思想の主体性に関して捉え方がきわめて弱いという印象は否めません。ですから物件化(物象化)された現代社会に適合するイデオロギーとの批評も全く謂れがないわけではありません。しかし何々のイデオロギーだという批判の仕方は社会心理的思想分析として行う限りは認めるとしても、レッテルを貼ることで全否定してしまうのは困ります。そういう態度だと自分に合う党派的イデオロギーを求めて、誰かの思想にどこかで感動的に共鳴してしまうと、後は無批判に全肯定して追随してしまう偏向に陥ってしまうのです。

 産業革命がもたらした現代社会は「機械と大衆の時代」と呼ばれます。規格化された製品が街に溢れ、人々も個人としての個性を喪失して、マス(大衆)としての操作対象にされてしまいます。行動や嗜好もステロタイプ化され、流行に合わせないと取り残され、社会に適応できなくなる不安に駆られます。これはいわば機械が生産の主体になり、人間が機械の部品に貶められてしまった帰結です。機械文明の巨大化は、それに適合する経済、政治、軍事その他の機構でも巨大な機械システムのような官僚制を発達させ、画一化された人間に対する高度な管理体制が整備されてしまいます。もはや個人が主体であり、思想や文化の個性的な担い手であるとは言い辛くなっています。機械や社会システム等の社会的な事物や機械的メカニズムが主体であるような現実が展開しているのです。

                      三、「人間観の転換」の必要性

 現代ヒューマニズムはあくまでも個人の主体性に固執して、機械体系や高度管理システムに異議を申し立てようとしますが、あらゆる改革が今や機械体系や高度管理システムを駆使してしか行えませんから、ますます機械文明の深みに落ち込んでいかざるを得ません。個人は労働力商品や機械部品としての体制への包摂を拒否すれば、狂気や砂漠への逃走にしか主体性を見出せないというのが、ゴダール監督の『気狂いピエロ』に象徴される、一九七〇年代以降のポスト構造主義の思想状況です。

 確かにグロ-バルな規模での人類的危機の深化が進行しています。これに取り組むためにもあらためて一人一人の人格的な主体性の回復が強く求められるところです。しかし高度に発達した機械文明や社会機構自体を崩壊させるわけにはいきません。エコロジカルな課題自体が巨大な機械体系や高度管理ツステムを充全に機能させてこそ解決できるのですから。主体的個人と社会的事物の抽象的な対立に固執する、非生産的な現代ヒューマニズムは乗り越えるべきです。身体的個人と社会的事物を両方とも人間の定在という意味での人間体として人間総体の構成主体と認知する「人間観の転換」こそが求められます。

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